頒布終了した『あいくるしい3』より、大学生鳳宍の追いかけっこ旅。
鳳長太郎の迂闊
大学二年目の夏休み。
今年こそ、去年出来なかったことをしたい!
せっかくの夏だもん。思い出作らないともったいないでしょ。
一年目は大学の授業や初めての一人暮らしに慣れることに必死で、夏休みの計画を立てることすらままならなかった。おかげで、気心の知れた先輩たちに誘われるがまま海やら山やらに連れ出され、下っ端後輩たちの一人としてあくせく動き回っていた記憶しかない。荷物持ちに買い出しに、いつだって後輩というものは忙しい立ち回りだ。
もちろん宍戸さんも一緒だったけれど、みんなの前ではただの先輩後輩の間柄でいなければならないし、良い雰囲気になんてなりようもなかった。なぜなら、夏の夕日に染まる砂浜でも、満天の星々が降り注ぎそうな森の中でも、若者が集まればそこら中どんちゃん騒ぎ、ムードもへったくれもなかったからだ。どうにかして宍戸さんとの時間を作れないものかと画策してはみたけれどまるでダメだった。
結局、付き合って初めての夏は騒々しく過ぎていき、恋人らしい思い出と言えば、強いて言うなら近所の神社の夏祭りに二人で行ったことくらいだった。たこ焼きとお好み焼きを半分こして食べたり、射的で二人とも何も取れずに激ダサって笑い合ったり、あれはあれで楽しかったけれど、今年はもっと心を震わせるような思い出を作りたい。ご近所で済んでしまうお手軽な思い出じゃなくて、たとえばそう、二人きりで旅行なんかしてみたい。だって夏だもん!
「無理。バイト」
いそいそとローテーブルに旅行雑誌を広げはじめた俺を見下ろして、風呂上がりの宍戸さんは抑揚の無い声で言った。
夏休みに入って二週間が過ぎていた。そろそろ本腰入れて旅行の計画を立てたくなったので、本屋で数冊の旅行雑誌を見繕って宍戸さんの部屋に押し掛けた。飲み会があるから帰りは遅いと聞いていたから、先に合い鍵でお邪魔する。夏休みだし、課題もないし、ときどきバイトするくらいで宍戸さんに会うこと以外は特にやることがない。シャワーを借りたあとダラダラしていたら、いつの間にか宍戸さんのベッドでうたた寝してしまっていた。
日付の変わる頃、ほろ酔い気分で帰ってきた宍戸さんのダイブで強制的に起こされた。全体重でのしかかってきて、びっくりしている俺の顔中に大雑把なキスを降らせる。宍戸さんがこういうことをしてくるときは相当機嫌が良い証拠だから、今夜は楽しい飲み会だったみたいだ。そのままベッドに引きずり込みたかったけれど、残念ながら宍戸さんは流されてはくれなかった。俺を置いてシャワーを浴びに行き、そしてすっかり酔いを醒まして戻ってきた。俺もさっきの急襲で眠気がどこかに行ってしまったし、宍戸さんは機嫌良いみたいだし、今がチャンスと旅行の計画を持ち出したのだ。けれど機嫌の良さもシャワーで洗い流してしまったのか、この通り、すげなく断られてしまったというわけだ。
「バイトの無い日に行きましょうよ。一日も休みなしってわけじゃないでしょう?」
「こっちにも都合ってもんがあるんだよ」
並べた雑誌に目もくれず、ラグに腰を下ろした宍戸さんはドライヤーで髪を乾かしはじめた。生温かい風に混じって、宍戸さんの髪から細かな水滴が飛んでくる。
「都合ってなんですか。俺と出掛けるよりも大事なことなの?」
ドライヤーの騒音に負けないように声を張り上げたら、うるさいと一喝された。
「夜中に大声出すな」
「宍戸さんが聞いてくれないからですよ」
宍戸さんはそれきり黙って髪を乾かした。ドライヤーの風の音だけがしばらく続き、数分で止む。短い髪だ。すぐに乾いた。
「俺、結構前から宍戸さんと旅行したいって言ってましたよね」
少なくとも春頃には話していたはずだ。宍戸さんだって満更でもなさそうだった。
「あれから何ヶ月経ったんだよ。おまえ何も言ってこなかったじゃん」
「だからバイトとか他の予定も入れたって言うんですか? 俺には何も相談しないで?」
「なんで俺の予定を長太郎に相談する必要があんだよ。関係ないだろ」
「関係ないってなんですか。俺は何を差し置いてでも宍戸さんとの予定を最優先にするのに、宍戸さんは俺との予定は後回しでもいいって言うんですか」
「そうは言ってねぇだろ。先に決まったもんから埋まってっただけだ」
「先にって言うなら俺との旅行の約束の方が先だったんじゃないですか? 絶対俺の方がバイトなんかよりも先に話してましたよね?」
「ハッ! 具体的なことは何一つ決まってねぇくせによく言うぜ。バイトなんかだぁ? 親のスネかじってる分際でデカい口叩くな」
「学費出してもらってるんだから、スネかじってるのは宍戸さんも同じでしょう。俺だってバイトしてるのに、そうやってすぐ俺ばかりが甘ったれてるみたいに言う」
「バイトしてるつったって、学費以外も全部スネかじりまくりのおまえとは立場が違うんだよ」
「ああもう、やめてください。家の事情と旅行の話は別でしょう」
「おまえが先に引き合いに出してきたんだろ」
「宍戸さんが俺のことを考えてくれないからですよ!」
あっという間に火がついた俺たちの言い合いは、宍戸さんが黙り込むことで一旦鎮火したように見えた。でも実際は、ここから本格的な喧嘩になるのがいつものパターンだった。
宍戸さんが黙ったのは今が真夜中だったからだ。これが昼間だったら黙るわけ無い。俺と向き合っているのに宍戸さんの頭の端には隣近所のことを懸念する余裕があるというのが気に食わないけれど、もう子どもじゃないんだし追求するのはやめよう。
それよりも、まずいことになった。またやってしまった。
宍戸さんは、俺に宍戸さんの気持ちを軽んじられることが大嫌いだ。わかっているのに、もう何度も反省して二度と言うまいと心に誓ったはずだったのに、頭に血がのぼって言ってはいけないことをまた言ってしまった。『宍戸さんが俺のことを考えてくれない』は、宍戸さんの地雷なのだ。
「あ、あの、違うんです」
「……なにが」
エアコンから流れてくる冷気と同じくらい冷え冷えとした雰囲気を纏いながら、宍戸さんは静かに俺を睨みつけた。
こういうときの目が一番怖い。情に厚い宍戸さんとは思えないくらい温度のない瞳で俺を見る。心臓に氷を突き立てられたみたいに体が強ばって、いやな汗がツーッと背中を流れた。
「ごめんなさい」
「だから、なにが」
なにがって、全部ですよ。俺が悪かったから、全部なかったことにしてくれないだろうか。……してくれないだろうな。
「長太郎」
「ひゃ、……はい」
スッと音もなく立ち上がった宍戸さんに一瞬怯んでしまって、声が裏返る。喧嘩してないときだったらそんな俺を揶揄って笑ってくれるのに、宍戸さんは俺を見向きもせずベッドに行き、薄手の毛布を持って戻ってきた。
「ここな」
「……はい」
毛布を渡され、照明を消される。
強制的に、一時休戦となった。
真っ暗になったワンルームに宍戸さんが裸足で歩く足音が響いて、すぐにベッドに倒れ込む音が聞こえた。
つまり、終電もない深夜に外に追い出しはしないけれど、一緒に眠るつもりもないから床で寝ろと、そういうことだ。
宍戸さんを怒らせてこんな風に扱われたのは一度や二度ではない。
俺が学習しないのが悪いので、反論せず大人しく毛布を体に巻き付けて横になる。夏だし、慣れれば硬いフローリングの上で眠るのもそんなにつらくはない。ラグだって敷いてあるし。むしろ優しいよね。怒ってても俺をここに居させてくれるし。
あ~~~やっちゃった。どうしよう。
飲み会で疲れたのか、ほどなくして宍戸さんの寝息が聞こえてきた。
俺は頭を抱えながら明け方近くまで、どうやって宍戸さんに謝ろうか、もう旅行は諦めた方がいいのか、なんでこんなに好きなのにひどいことを言っちゃうんだろうか、堂々巡りに陥っていた。
宍戸亮の衝動
喉が渇いて目が覚めた。枕元のスマホを手探りで引き寄せれば、液晶が映し出した時刻は朝の六時。せっかくの休みなんだからもっと寝ていたかったのにもったいない。起きなきゃいけないときはなかなか起きられないのに、どうしてなにもない日に限って早起きしてしまうのか。
二度寝しようにも、いやに喉がはりついて不快だ。はたと、昨日飲み会だったことを思い出す。そんなに飲んだ記憶は無いんだが、蒸し暑かったし、酔いも相まって余計に汗をかいたのかもしれない。
体を起こすのは億劫だが仕方ない。水を一杯飲んでもう一度眠ろう。
ベッドを出て数歩足を進めたところで、寝ぼけ眼の視界の端にデカい毛布の固まりが現れた。
「あ? ……あ~」
渇いた喉からしゃがれ声が出て、昨夜の記憶とともに俺をがっかりさせる。
長太郎と喧嘩した。しかも何度目かも思い出せないほどにやりあったことのある内容で。
俺がバイトで会えない時間が増えると、長太郎はすぐにへそを曲げる。バイトと俺とどっちが大事なんですか、なんてドラマでしか聞いたことのないような言葉を恥ずかしげもなく言いやがる。そもそもの土俵が違うのに、こいつはそれをちっとも理解しようとしない。
バイトするのは衣食住のためで、かたや俺にとって長太郎という存在はその範疇を越えているわけで、言うなれば次元が違う。どっちが大事かなんて決まりきっている。
ただ、時間というモノには限りがあって、どちらに割くかはそのときどきで変わる。バイトに割いた分より多くの時間を長太郎に割いているはずなのに、それを棚に上げて目くじら立てるものだから、俺もついカッとなって言わなくてもいいことを言ってしまう。
大学には実家から通えるにも関わらず、無理を言って一人暮らしをさせてもらっている手前、最低限の出費は自分で賄うのが宍戸家のルールだ。俺はそのルールに則り、学業と勤労に精を出す大学生なのである。一方、鳳家は俺んちとは事情が異なり、つまり資金援助に関しては何一つ不自由がない。学費も生活費も光熱費も家賃だって、長太郎は一切心を砕く必要がない。
家庭それぞれで方針が違うのはわかる。どちらがいいとか悪いとか言う話でもない。ただ、長太郎があまりにも俺のバイトについて文句を言うものだから、ついついこのことを引き合いに出してしまうのだ。
売り言葉に買い言葉であったことは反省しよう。だけどいい加減、俺の長太郎に対する気持ちを何かと比べて推し量ろうとしてくるあいつの魂胆にはうんざりだった。長太郎も俺が嫌がるのをわかっているから最後は塩らしくなったが、結局は謝っても謝られてもいないし、喧嘩は続行中だ。
くそ、喉が渇いたんだった。
それほど広くないキッチンに立ち、蛇口をひねって水を出す。コップ一杯の水を一気に飲み干せば、胃から体全体に潤いが満ちるような心地だ。これならもう少し眠れそうな気がする。
ベッドに戻ろうとして、テーブルの上に並べられたままの雑誌に目が止まった。
よくもまぁ、いろいろ集めてきたものだ。計画性はまったくないが、俺との思い出作りに一生懸命なのはよくわかっているつもりだ。
わかっているからこそ、俺だって夏休みの間みっちりバイトして稼いで、秋になったら長太郎を旅行に誘うつもりだったんだ。春頃から俺と旅行に行きたいと耳にたこができるくらい聞かされていたから、二人分の旅費くらいは貯めておくに越したことはない。旅行するなら宿の予約も必要だろうし、ある程度は前もって計画するものだと思っていた。だけど長太郎からは具体的な話はなかったし、資金もさほどあるわけではなかったから夏の旅行はないものだと決めつけてバイトを入れまくってしまった。
夏に旅行したいんだったら、はじめからそう言っとけよ!
だんだん腹が立ってきた。昨日の苛立ちがぶり返してきて、ガシガシと頭の後ろを掻いた。
足下ではデカい図体を器用に毛布で包んで、硬い床の上なのに気持ちよさそうに眠っている長太郎がいる。繊細そうにみえて、案外図太くできているのだ。
もう眠気はどこかへ行ってしまった。
外も明るいし、軽く走ってこようか。まだ暑くなる前の早朝ランニングは、このモヤモヤした気持ちを晴らしてくれるかもしれない。
と、ランニングウェアに着替えようとして、さっきの雑誌が気になった。
どの表紙にも京都の文字が並んでいる。夏の京都か。いいじゃないか。
今日はもともと長太郎が泊まりに来る予定だったからバイトを入れていない。シフトの都合で明日もオフだ。次の出勤は明後日の夕方。
「よし、京都行くか」
なんだかいろいろ馬鹿らしくなった。
初めての弾丸一人旅。楽しそうじゃないか。
鳳長太郎の狼狽
蒸し暑さに目が覚めたとき、カーテンの隙間から見える窓の外では太陽がすっかり昇りきっていた。
無意識のうちに剥いでいた毛布が、テーブルの足に引っかかって丸まっている。体を起こして伸びをすると、背骨からポキッと乾いた音がした。
フローリングの上とは言えよく眠れた。スマホで時刻を確認するとお昼近い。
部屋を見渡すと宍戸さんが居なかった。俺が眠っている間に部屋を空けることは珍しくないから、買い物か、その辺りを走りにでも行ったんだろう。
少しほっとしてしまう。昨日のわだかまりを引きずったまま顔を合わせなくて済みそうだと、さもしい思考が頭をよぎる。どこかに出掛けたということは、在る程度は冷静になって帰ってきてくれるだろう。宍戸さんは、怒っているときは謝っても話を聞いてくれないことがあるから、気分転換してくれるに越したことはないんだ。
さてと、宍戸さんが帰ってくるまで何をしよう。ごはんはもう食べちゃったのかな。まだなら作っておいた方がいいのかな。とりあえず、蒸し暑いしエアコンを付けさせてもらおう。
リモコンを探そうと立ち上がったとき、妙な胸騒ぎを覚えた。
なんだろう、いつもと何かが違う。いつも通りの宍戸さんの部屋のはずなのに、どこか違和感がある。
ぐちゃぐちゃになった毛布を拾って畳みながら、胸騒ぎの正体がなんなのか頭をフル回転させる。今気付いておかないと取り返しがつかなくなるような、そんな焦りにうなじがチリついた。
「あれ?」
畳んだ毛布を宍戸さんのベッドの真ん中に置いたとき、間違い探しの答えを見つけたときのように目の前が開けた。
ブランケットが綺麗に直され、枕の位置もきちんと真ん中になっている。いつもだったら寝て起きたまんまの状態なのに。
宍戸さんはベッドメイクに気を遣わないタイプだ。シーツに皺が寄っていてもそのままにして学校に行く。季節関係なく、ふとんも毛布も捲れっぱなし、枕はベッドの端にやられっぱなしで部屋を出る。
それなのに、今日に限って枕もブランケットも本来在るべきとおりの姿だ。
まるで、しばらく帰ってこないかのような……。
「まさか!」
勝手にクローゼットを開けて物色する。あるはずのものがない。
広くはない部屋を見渡しても、ない。
宍戸さんのバックパックが無い!
「うそでしょ……?」
スマホをひっつかんで宍戸さんに電話をかける。どれだけ待っても繋がらない。もう一度かけてみる。やっぱり繋がらない。
嫌な予感がする。クーラーが効いてきたはずなのに、変な汗が噴き出てきた。
ちょっとした散策に、宍戸さんはバックパックを使わない。手ぶらで財布とスマホをポケットにつっこむか、使っても小さめの斜めがけショルダーバッグだ。
バックパックを使うのは、大学の授業があるときか、もしくはどこかへ遠出をするときだけ。でも今は夏休み。大学に行く必要はない。ということは残る可能性は一つ。
スマホを握りしめて部屋の中をうろうろ行ったり来たり、何をどうしたらいいのかわからない。
そうだ、メッセージ! 電話に出てくれないならメールでもなんでも送ってみよう。
文字を打とうと俯いたとき、ふとテーブルの上のものが視界に入ってきた。
もつれる足で近寄る。俺の持ってきた雑誌が積み重ねられていて、その上に一枚のメモが置いてあった。
『ちょっと京都行ってくる』
殴り書きの文字は間違いなく宍戸さんの筆跡だった。
「うそでしょ?」
遠出どころの話じゃない。近所のコンビニに行ってくるみたいなテンションでメモを残すような事柄じゃないでしょう。
突拍子も無さ過ぎて、目の前が真っ白になった。
一気に脱力して宍戸さんのベッドに背中から倒れ込む。
「どうしよう。てか、なんで京都?」
喧嘩の末に家出なんて。いや、ここは俺の部屋じゃないから、宍戸さんが単に旅行に出掛けただけってことになるわけだけど。
でも、こんなの、だめだよ。俺を置いて一人きりでどこかに行っちゃうなんて。
「やだ。宍戸さんに会いたい」
会って、ちゃんと目を見て謝らないと。
弾かれるように起き上がり、着替えて宍戸さんの部屋を飛びだした。
エアコンは消したし、ガス栓も施錠も確かめた。と言っても、エアコン以外はもともと宍戸さんによってしっかり為されていた。
自分の部屋に帰って準備する暇も惜しい。もう着の身着のまま、この状態で駅に向かおう。
日差しにうなじを焦がされながら走る。背中のリュックの中で旅行雑誌が踊っている。
宍戸亮の逃亡
長太郎から着信があったのは、ちょうど新幹線が京都駅に停車した瞬間だった。
降りる準備をしていたせいで出られなくて、もう一度掛かってきたときも改札の出口を探していてタイミングが合わなかった。
さすが観光都市、改札を出る前から土産物屋のオンパレードだ。
迷いながら改札を出て、人の流れに飲まれながら駅の外に出る。見上げれば、京都タワーが聳え立っていた。
日差しが眩しい。キャップをかぶり直してスマホを取り出すと、長太郎からいくつもメッセージが届いていた。
『俺も行きますから、待っていてくださいね!』
残したメモを見たんだろう。予想通り、追いかけてくるようだ。
『昨日のこと、ごめんなさいは会ったときに言います』
『でも一人で行っちゃうなんて、ちょっといじわるじゃないですか?』
『俺のこと嫌いになったんじゃないですよね?』
『絶対待っててくださいね? 会えますよね?』
『ごめんなさい。せめて返事ください。好きなんです』
読み進めている間にも矢継ぎ早にメッセージが届く。電話をかけてこないのは電車か新幹線に乗っているからかもしれない。
「ごめんは会ったときに言うんじゃなかったのかよ」
長太郎の心境が手に取るように想像できて、意地が悪いとは思いつつ笑みが漏れてしまった。
喧嘩して腹が立ったのは事実。でも、新幹線に揺られながら長太郎から離れていくうちに怒りはおさまった。正直、追いかけてこられることを期待していた。だから、あいつが到着するまでここで待っていてやってもいいかもしれない。反省しているようだし、突発的だったとは言え、二人で旅行を楽しむのもいいじゃないか。
『宍戸さんだって旅行に行きたかったんじゃないですか。素直にそう言えばいいのに』
ポンッと間抜けな着信音で届いたばかりのメッセージを読んで、即座に気が変わった。
待っていてなんかやるもんか。可愛げのあるところを見せたかと思いきや、すぐこれだ。
返信する代わりに、京都タワーを撮影して画像を送りつけた。
すぐに返事が来る。
『もう着いたんですか! そこで待っててくださいよ!』
待ちはしない。メッセージアプリを閉じて、路線検索アプリを立ち上げた。
さて、どこに行こう。
京都と言えばまずは祇園だろうか。この土地には訪れるべき有名どころがありすぎる。ノープランの一人旅だし、思いつくまま行ってみよう。どうせあと数時間もすれば、何冊もの旅行雑誌とともにあいつが追いつく。細かな計画を立てるのはそれからでも遅くはないだろう。
調べた電車に乗るために、駅構内に踵を返した。
鳳長太郎の不安
飛び乗った新幹線からメッセージを送りまくって、たった一枚返ってきた写真。真夏の青い空に映える白いタワー。はじめ、なんの建物かわからなくて、宍戸さんが向かったのが京都以外の場所だったらどうしようと青褪めた。すぐに検索して京都タワーだとわかったけれど、だからといってほっと胸をなで下ろせるわけなんかない。
もう京都に着いちゃったのか。ということは、宍戸さんが行動を開始してしまう。ひとところに留まって俺を待っていてくれるわけはないだろうから、一刻も早く見つけださないと今日中に会えなくなってしまうかもしれない。
それに、宍戸さんからなんの言葉も返ってこないということは、まだ俺のことを怒っているのかもしれない。写真を送ってきたのはあてつけで、追いかけてくる俺に捕まえられっこないぜと舌を出しているのかもしれない。
宍戸さんを見つけなきゃ。喧嘩したままなんて絶対によくない。お願いだからこれ以上遠くに行かないで。それとももう俺のことなんてどうでもよくなった? 俺と旅行するくらいなら一人で旅行したほうが楽しいなんて思われていたらどうしよう。
あぁもう! 新幹線ってもっと速く走れないの? でも俺のサーブよりは速いのか。なんか悔しいな。だったらすぐに京都に着いてよ!
どんどん変わっていく窓の外の景色。ゆっくりと眺めるような心の余裕はない。
周りの乗客はビジネスマンか旅行者ばかりで、めいめいにお菓子をつまんだり本を読んだりして過ごしている。俺一人だけが、イライラしながらスマホとにらめっこだ。
旅ってこんなに焦りながらするものだったっけ。落ち着かないったらありゃしない。
宍戸さんとしたかった旅行は、もっとゆったりしていて楽しくなるはずだった。遠征や合宿とは違って、移動しているときも二人きり、新幹線や飛行機でも誰にも宍戸さんの隣の席を取られる心配はないし、窓から見える景色だってただ過ぎゆくものにはならなかったはずだ。
今、俺は何者なんだろう。旅行者というにはなんの準備も足りていない。ただの、怒らせた恋人を必死で追いかけている惨めな男だ。
自分で蒔いた種とはいえ、やるせなくて涙が出そうになる。
一緒に居たいだけなのに。宍戸さんは俺が居なくても平気なの?
さっきから同じことばかり考えてしまう。宍戸さんは、今なにを考えているんだろう。
本当は俺についてこられるのがいやなのかもしれない。だから写真しか返してくれないのかもしれない。
でも、だからって宍戸さんの部屋でおとなしく待っているなんて出来なかった。
メモを残していったということは、追いかけてもきてもいいってことなんでしょう?
周りの人たちが言うには、俺は宍戸さんのことに関しては人一倍しつこいらしいです。絶対手放したくないものにはこれくらい必死になるのは当り前だと思いますけど。
早く会いたい。顔を見て話をしないと安心できない。
祈るように握りしめていたスマホが震えた。メッセージの受信を期待して画面をタップすると、宍戸さんからまた写真が届いていた。
宇治抹茶のかき氷。白玉とあんことフルーツが添えられている。暑いもんね、かき氷も食べたくなっちゃうよね。
「はぁ~~~……」
宍戸さんは京都を満喫しているらしい。俺が居なくてもこのとおりだ。
胃がキリキリする。俺抜きで楽しい思い出を作らないでよ。
宍戸さんの過去の思い出に嫉妬してきたから、これから作る思い出には全部、隣に俺が居たかったのに。
車内放送がまもなくの京都到着を告げる。荷物をもって席を立ち、一番に扉の前に陣取った。
窓から見える広い京都の街が、どこかに宍戸さんを隠している。
宍戸亮の満喫
初めての一人旅に不安な気持ちも多少あったが、思いの外楽しめている。
どこもかしこも観光名所だ。地理や歴史は昔から好きだし、教科書に載っているような事件がまさにこの場で起こっていたなんて、想像力を掻き立てられて仕方ない。計画性もなく来たわけだけど、歩きやすい格好をしてきてよかった。
京都の夏は暑いと聞いていたがまさにその通りで、歩き回って大分汗をかいた。水分補給にどこかで休みたいと思っていたとき、ふと目に入ったかき氷の文字に惹かれて甘味どころに入ってしまった。旅のテンションは俺を少し大胆にしているらしい。普段出来ないことも平気になる。
一人でこういう場所に入った経験がないからどんなものかと思ったが、店内には俺以外にも一人客がちらほら居た。甘味どころという場所は、俺が考えるよりも敷居の低い場所だったようだ。
席に通されメニューを開くといろいろな種類のかき氷が並んでいた。これまたあまり食べない代物なのでどれを選んだらいいのかわからない。かき氷は縁日で食べるものであって、わざわざ店に入って食べるものだとは思っていなかったから、イチゴとかブルーハワイとか、オーソドックスな味しか知らないのだ。
とりあえず一番上に書かれているものが人気なのだろうと、宇治抹茶を頼んだ。京都っぽいし妥当だろう。練乳を掛けるか選べたけど、甘すぎて食べきれなかったら困るので無しにした。
注文を終え、ふぅと息をつく。夢中で観光していて少し歩き疲れた。そういえば長太郎はどうしているだろうかと、バックパックに入れっぱなしにしていたスマホを引っ張り出して確認すると、着信はなく、相も変わらず『待っていてくださいね!』のメッセージばかりだ。
まだ新幹線の中ってことか。まぁ、もうすぐ着く頃合いだろう。
さて、どうしようか。駅に長太郎を迎えにいってやるか、それともこのまま街をぶらつくか。どこかで待ち合わせた方が効率的だろうか。いや、喧嘩して飛び出してきたのに待ち合わせるってのも変な話だな。そもそも効率的ってなんだよ。時間がもったいないって、早く会いたいって言ってるようなもんじゃないか。はじめから二人旅を想定していたみたいでかっこ悪すぎる。
「お待たせしました」
慌ただしく考えを巡らせているところに、涼しげな声が割り入ってきた。顔を上げると店の人がお盆にかき氷を持って立っている。
「あ、……え?」
丁寧な所作で目の前に置かれたかき氷の大きさに言葉が出なかった。予想の三倍はデカい。屋台のかき氷の大きさをイメージしていたので、実家で煮物用に使うような大きさの焼き物の器にかき氷がこんもりと盛られているなんて想像だにしていなかった。
たっぷりと宇治抹茶のソースが掛けられ、周りに白玉やフルーツ、あんこも添えられている。
思わず本当に一人前なのかと聞いてしまいそうになったが、周囲をよくよく見渡すとみんな同じ大きさのかき氷を平然と食べている。
まじか。これが通常サイズなのか。
びっくりして笑い出しそうになるのを堪えながら写真に収めた。この驚きを誰かと共有したい。まっ先に思い浮かんだのは長太郎の顔だった。
あいつだったら一緒に食べてくれそうだよな。冷たいっすと言いながら頭をトントン叩きつつ、食べきるまでつき合ってくれる。白玉は宍戸さんに譲りますなんて言って、フルーツの方を横取りしていったりなんかしてな。
唇の端が緩んでしまうのを、かき氷を口に入れて誤魔化した。冷たくて甘くて、少しほろ苦い。味まで共有できないのは残念だ。
写真を送って、スマホを仕舞った。食べ終わる頃には長太郎は京都に到着しているだろう。
案の定、店を出てスマホを見たら長太郎から今しがた到着したと連絡が入っていた。
そろそろきちんと返信してやったほうが良さそうだ。
しまった、宿を決めないと。新幹線に揺られながらいくつか見繕っておいたのに、観光に夢中で予約の電話を入れるのをすっかり忘れていた。
長太郎には待ち合わせ場所の写真でいいか。俺の意図が伝われば、あと三十分後には会えるはずだ。それまでに二人分の宿泊予約を取っておこう。
少し歩いたところに目印になりそうな神社がある。有名な神社だ。長太郎もすぐにわかるだろう。収めた写真を送って、さっそく候補の宿に電話をかけることにした。
鳳長太郎の捜索
宍戸さんからまた画像が送られてきた。独特な装飾の朱い門だ。ここに居るってことなのかな。つまり、そこまで来いってことか。
条件反射的にすぐに行くと返信し、後悔した。この画像に写っている場所がどこなのか皆目見当がつかない。
おそらくお寺か神社。でも朱いといえば鳥居だよね。ってことは神社? でもどの神社?
せめて名前がわかる石碑かなにかも一緒に写してくれたらよかったのに。わからないわけがないと思われたのだろうか。さっぱりわかりませんよ。もしかして試されてる? これくらいのこともわからないで宍戸さんを追いかけるなんて、ちゃんちゃらおかしいと思われてる?
常識のない男だと思われるのはイヤだ。でも宍戸さんの常識は、普通の人の常識より少しマニアックなんじゃないだろうか。昔からそうだ。普通、レギュラーに戻りたいからといって素手でボールを取る特訓なんてするだろうか。
いけない、また弱気になってる。宍戸さんのすごいところはガッツと行動力だ。俺にないものが眩しく見えるあまり、理解できないものだと遠ざけてしまいそうになる。だから被害妄想で頭がいっぱいになって、試されてるなんて考えてしまう。そして自己嫌悪に陥って、あろうことか宍戸さんの気持ちを確かめようと躍起になってしまうのが俺の悪い癖なのだ。
要は自信がないってことなんだろう。宍戸さんは俺を恋人にしてくれたけど、好きって気持ちは目に見えないから、俺の気持ちと宍戸さんの気持ちが釣り合っているのか、ずっと不安が付きまとう。
もしも見えて、重さも量れたら、宍戸さんの気持ちの大きさと重さに比べて、俺の気持ちの方が圧倒的に大きくて重いんじゃないかって怖くなる。大きくて重いものは、小さくて軽いものを押しつぶしてしまう。潰されたものは、のしかかってくるものの重さに耐えられなくなって、その内離れていってしまう。
俺は、俺が宍戸さんを押しつぶして、宍戸さんが俺から離れていってしまうのがたまらなく怖い。
だめだ、今はこんなことを考えている場合じゃない。
早く宍戸さんに追いつかないと。
頭を振って気持ちを入れ替え、駅の構内をぐるっと見渡す。さすが観光都市。案内所はすぐに見つかった。
外国から来たらしい人たちの後ろに並んで順番を待つ。俺の番になって、宍戸さんから送られてきた画像を見せ、どこなのか聞いてみた。
「あぁ、八坂神社ですね」
一目でずばり言い当てた係員さんにパンフレットをもらい、電車の乗り場も教えてもらった。
ルートもそれほど複雑じゃない。
あと少しだ。あと少しで、宍戸さんに追いつく。
宍戸亮の待望
無事、宿の予約が取れた。平日とは言え観光シーズン真っ只中だ。二人分の予約が取れたのはラッキーだったと言えるだろう。危うく野宿か、カラオケでオールするところだった。いくら若い身だからと言えど、今日はかなり歩き回ったからベッドでゆっくり休みたい。
日差しがやわらいできた。夕暮れも近い。
相変わらず観光客で往来はごった返している。神社の前の通りで長太郎を待つことにし、通る人々の邪魔にならないよう道の端に身を寄せた。
写真だけを送りつけてしまったが、意図を汲み取ってくれただろうか。あまり心配はしていないが、まともに返事をしない俺のことを変に勘ぐっていないか心配になってきた。
あいつは神経が図太いところがあるくせに、考えすぎるとすぐに落ち込みやがる。特に俺に関することとなると、あいつのメンタルはちょっとつついただけで割れてしまう薄氷みたいに脆くなる。
俺の言葉が足りてないせいだとわかってはいるんだけど、こっ恥ずかしくて歯の浮くようなことを言ってやれるわけもなく、好きだというシンプルな気持ちさえ数えるほどしか伝えてやれていない。
言わなくてもわかるだろうと逃げを打っている自覚はある。だけどやっぱり、俺は長太郎みたいにはなれそうにない。好きというありきたりで簡単な二文字がいつも喉に引っかかって、すんなり出てきてくれないのだ。
通りの信号が赤と青を繰り返すのを、もどかしい思いで眺める。
しんみりと切ない気持ちが募ってきたのは、空が夕焼けに染まり始めたせいだ。
自分の意思で長太郎を部屋に置いてきたくせに、一日も持たずに会いたくなっている。こんな俺の、どこが『俺のことを考えてくれない』なんだよ。新幹線で何時間もかけて遠いところに来たって、結局考えてるのはおまえのことばっかじゃねぇか。
橙色の空が色濃くなり、宵闇の紫が混じる。夜の帳が降りるにつれて、人の流れは減るどころか増すばかりだ。
その中に、頭一つ飛び出た銀色を見つけた。道路を挟んで信号の向こう側、迷子のように寄る辺ない表情で佇んでいる。まだこちらには気づいていないようだ。
なんつー顔してやがんだ。観光客らしく、楽しそうな顔しろよ。って、そんな顔させてんのは俺か。
今朝まで同じ部屋にいたのに、こんなに遠いところで待ち合わせだなんておかしいよな。
ここまで来れてよく出来ましたって、撫で回してやりたくなる。まったく、なんだっておまえはそう、俺のことばかりなんだ。
早く、追いついてこい。
鳳長太郎の安堵
視線を感じて目を凝らした先、横断歩道の向かい側に宍戸さんは居た。
俺と目が合ったことに気づくと、宍戸さんは片手を上げて口の動きだけで俺の名前を呼んだ。
一気に肩の力が抜けた。だって、まるで大学の構内で偶然出くわしたときみたいな気軽さで俺に手を振るんだもん。
よかった。宍戸さんが居る。一日掛けて振り回された文句も、まともに返事をしてくれなかった不満も、全部どうでもよくなった。
信号が青に変わった。人の波に邪魔されてまっすぐ歩けないのがじれったい。早く宍戸さんのもとにたどり着きたい。目と鼻の先なのに気が急いて仕方なかった。
横断歩道を渡りきって、宍戸さんのもとに駆け寄る。俺を見上げて宍戸さんは目を細め、にやりと笑った。
「おせーよ」
「これでも急いで来たんですよ」
旅行の準備もせず、身だしなみも適当で、ただ宍戸さんに追いつきたい一心でここまで来た。
「会ったらまずなんて言うつってたっけ?」
口元は笑んだまま、片眉を上げて宍戸さんは俺を見上げた。
「あ、えっと……ごめんなさい」
宍戸さんが笑い声を上げる。
「俺も悪かったよ。黙ってこんなとこまで来てさ」
「すごくびっくりして、心臓が止まるかと思いましたよ」
「おまえが腹立つこと言うから」
「だって宍戸さんが……いえ、ごめんなさい」
昨日と同じことの繰り返しになるのはごめんだった。もうこれ以上どこかに行ってしまわれるのはつらい。やっと宍戸さんに会えたのに、隣に居られないのは耐えられなかった。
「ずっと長太郎のこと考えてたぜ」
「え?」
「一人でいる間、ずっとだ。長太郎ならかき氷一緒に食ってくれるかなとかさ。すげぇんだぜ、めちゃくちゃデケェの」
宍戸さんは楽しそうに一人旅の話をし始めた。ほんっと、人の気も知らないで。
でも、なんだか俺も楽しくなってきてしまう。惚れた弱みなのかなぁ。宍戸さんが楽しければそれでいいって、思っちゃうんだもんなぁ。
それに、俺のことを考えてくれてたって宍戸さんは言った。もう、その言葉だけで満たされてしまっている。
一人でも楽しかったんだねって拗ねた皮肉じゃなくて、一人でも俺のことを思い浮かべながら楽しんでくれてたことが嬉しいって、素直に思えた。
「こんなところでじゃなくて、どこかでゆっくりお話聞かせてもらえません?」
「あ、そうだよな、わりぃ」
「もうおなかペコペコです。宍戸さんの顔見たら、急におなか減ってきちゃった」
宍戸さんに追いつくことに必死で、起きてからろくなものを食べていない。
飲食店の夜営業も始まる時間帯だし、とりあえず夕ご飯にしようということになった。
「なにが食いたい?」
「なんでもいいです。宍戸さんとならなんでもいい。もう、会えただけで十分」
はぁ、とため息をついた俺を、宍戸さんは眉尻を下げて心配そうに見上げた。
たくさんの人たちが行き交う手前、必要以上に距離を縮めては来ない。けれどもし誰もいないところだったら、きっと手を伸ばして俺の頭を撫でてくれる。そういう顔をしていた。
「なんか、元気ない?」
「そう見えます?」
「俺のせいか?」
「ううん、違いますよ。ほっとしちゃって。気が抜けたっていうか。おなかも空いたし。あぁ、よかった、追いついて。今度からは俺も連れてってくださいね。もう我が儘言わないし、ちゃんと待ても出来るようになりますから」
「待て、って。犬じゃねぇんだから」
困ったように笑って、宍戸さんは腕を伸ばして俺の頭を撫でた。まさかこんなところで撫でてくれるとは思っていなかったから、びっくりして宍戸さんの顔をまじまじと見つめてしまう。そんな俺を見て、宍戸さんはまた笑った。
「長太郎、よくできました、だな」
「あっ、やっぱり犬扱いしてる」
「ちげぇよ。ここまで一人で来れてえらいって誉めてんだろ」
「どうしたんですか。ここ外ですよ? いつも外ではベタベタするなって言うくせに」
「いいんじゃね? 誰も俺たちのことなんか気にしてねぇよ。他に見るもんがいっぱいあるだろ、ここには」
すぐそこには大きな神社。藍色に染まり始めた空と、提灯飾りが灯る大通り。
「旅の恥は掻き捨てって言うし」
「恥なんすか」
「ははは。いやほんと、よく来たな」
宍戸さんの右手が、俺の左手を握った。
そばを通る人たちからは俺たちの体の影になって見えないのをいいことに、こっそり指を絡めてくる。
「本当にどうしちゃったんですか? 俺、単純だから舞い上がっちゃいますよ」
「んー。なんとなく」
「もう、すごく寂しかったんですからね。起きたら居ないからパニックになっちゃって、なんの準備もせずに来ちゃいましたよ」
宍戸さんの手を握り返す。今すぐ抱きしめたい。抱きしめてキスをして、このまま連れ去ってしまいたい。
俺の衝動を知ってか知らずか、宍戸さんは嬉しそうに頬を緩めた。
「そっか。ごめんな」
「ごめんって顔してないですけど。ふふ、宍戸さんにつられて俺もおかしくなってきちゃった」
「まぁまぁ。飯は奢るからさ」
うまくあしらわれているなぁと思う。まだ後輩の粋を脱することが出来ていないとも感じる。
でも、これだって一種の愛情じゃないかな。宍戸さんは言葉にはしてくれないけれど、俺に触れて、ちゃんと俺のことを好きだって、宍戸さんの気持ちを伝えてくれる。宍戸さんの特別になったんだって思える。
「準備しないで来たって言ってたけど、荷物それだけか?」
「これだけですよ。急いで来たんで」
しょうがねぇなぁ、と呆れ顔の宍戸さんはどこか嬉しそうだった。
カジュアルな創作和食の店でご飯を食べたあと、歩いて量販店に向かった。
途中、鴨川に架かる橋を渡る。
夏だし、川床で食べてみたかったですねと言ったら、宍戸さんはしまったという顔をした。
「そうだよな。あー、気が回らなかった」
どうやら、おなかを空かせた俺に早くご飯を食べさせてやろうと、そればかり考えてさっきの店を決めてしまったらしい。待ち合わせた場所から近くて、予約なしでも入れる店だった。
「でも美味しかったじゃないですか」
「まぁ、そうなんだけどさ」
宍戸さんが俺を気遣っている。俺がふっかけた喧嘩が原因だったからとはいえ、突発的にここまで来させてしまったことを気にしているらしかった。
「宍戸さん、ここからは同意の上で二人旅行を楽しみませんか」
「同意の上?」
「そうだ。仲直り旅行ってのはどうです? 仲直りしたから、思いっきり楽しむんです」
「本物の旅行にしちまおうってことか」
宍戸さんは横目で俺をちらりと見て口端を引き上げた。
「じゃあ決まり! 二人で明日の計画を練りましょう、ね!」
やっと旅行らしくなってきた。旅行って、計画することも楽しいもんね。宍戸さんと二人で、あーでもないこーでもない言いながら行きたい場所を選ぶんだ。とってもワクワクしてきた。
「だったら、もうちょっとブラつていもよかったけど、さっさとホテル行くか?」
ホテルと聞いて、欲深い俺の思考はよからぬ方向に傾く。
「今やらしいこと考えただろ」
「や、やだなぁ。なに言ってんすか。って言うか予約してくれてたんですね」
「長太郎と待ち合わせる直前に、ギリギリな。あと、そういうホテルじゃねぇから」
キロッと睨みを効かせられ、頬を掻く。しょうがないじゃないか。昨日宍戸さんに触れなかったし、旅行に来てるし、今夜は……なんて少しは期待しちゃうじゃない。
量販店にはほどなくして到着した。下着と着替えになる服を買う。宍戸さんも何か買い物をしていた。
このとき気づくべきだったんだ。普通のホテルならアメニティをして部屋に置かれているはずなのに、宍戸さんが俺の分の歯ブラシも買っていた理由に。
宍戸亮の嫉妬
到着した建物の前で、長太郎はわかりやすく不貞腐れた。
ホテルではなく、ゲストハウスだったからだ。
知っての通り、ゲストハウスは個室がないところが多い。見ず知らずの他人と相部屋になって一晩を過ごす合宿所に似ている。中には、そこを拠点に数日間滞在する旅行者もいる。
学生旅といったらここだろ。安くて、それなりに綺麗。なにせ寝られればいいんだから。
長太郎がイメージしているような宿は、普通の大学生が手を出せるような料金じゃない。そもそも、そういうところは予約で埋まっていて当日に部屋を取れるわけがない。取れたとしてもバカ高いに決まってる。そこんところをわかってもらわないと困る。何度も言うが学生旅なんだ。
何より相部屋というのが気に食わないらしい。それは、まぁ、気持ちはわからないでもない。俺だってちょっと後悔している。長太郎と二人きりになりたい気持ちがないと言えば嘘になる。が、仕方ない。予約しちまったし。
チェックインを済ませて部屋に向かうと、二段ベッドが二つある四人部屋だった。ますます代表合宿を思い出す。
明らかに肩を落とした長太郎を宥めてシャワーを浴びにいき、部屋に戻ると他の宿泊者がいた。
ヨーロッパから来たという二人が今夜の相部屋相手のようだ。
話を聞くと俺たちと同じくらいの年齢だという。拙い英語でコミュニケーションを取ってみると案外気のいいやつらだ。
長太郎はそれも気に入らなかったらしい。普段は誰にでも分け隔てなく愛想よく出来るやつなのに、俺が長太郎以外の人間と親しくするとすぐこれだ。二段ベッドの上の段にさっさと上がってしまった長太郎は、ベッドごとに備え付けられてるカーテンを閉めて引きこもってしまった。
まったく手の掛かることだ。あとでのぞきに行ってやらないと、せっかく仲直りしたのが水の泡になる。
『彼は具合でも悪いのかな?』
細身で背の高い金髪の男が聞いてきた。
『いやいや違うだろ。俺たちに友達を取られて嫉妬してるんだ』
髭をたくわえた大柄な男がからかい混じりに言う。
『あー、わりぃ、はは。体調は悪くない』
狭い部屋だ。長太郎にも俺たちの会話は聞こえている。あまりはっきり言うわけにもいかなくて、濁して答えた。
突然、ジャッとカーテンの開く音がする。
振り返って見上げれば、長太郎がベッドの手すりから身を乗り出していた。
『友達じゃない! 彼は俺の恋人!』
長太郎は流暢な発音で叫ぶように言い放った。
あっけにとられて反応が遅れた俺とは対照的に、場外から乱闘をふっかけてきたような長太郎の態度に相部屋の二人は声を上げて笑い出した。長太郎が眉を吊り上げて何か言っている。早口すぎて聞き取れない。長太郎が英語を難なく話せるとわかったからか、二人の話す英語が俺と話しているときとは違い、スピードも砕け方も格段にネイティブのそれになってきた。ますます会話についていけなくなる。
長太郎は喚きながらベッドを降りてきて、俺の腕を掴んで引き寄せた。バランスを崩して転び掛けた俺の肩を金髪の男が咄嗟に支える。そのことが長太郎の逆鱗に触れたらしく、両手で俺を囲い込むように抱きしめて二人をにらみつけた。
なんだこれ。つーか三人ともデカくて圧迫感がすげぇよ。
なんとか聞き取れた言葉の端々と三人の身振り手振りから推測すると、長太郎は俺との今日のいきさつをかなり脚色しながら延々と語っているようだ。髭のやつはちゃちゃを入れながらときどき俺に頷いてみせ、金髪のやつは長太郎に同意しつつ髭のやつを諫めている。
待て。俺にも反論させろ。長太郎のやつ、絶対あることないこと話してるだろ。
なにがなんだかわからないまま、長太郎の語りが終わるころには三人ともすっかり意気投合してしまったようで、旅の話や大学の専攻の話、自国にいる家族や恋人の話までし始めた。二人とも恋人が一緒に来られなかったのは寂しいけれど、旅の写真をたくさん撮って送っているという。そのうち惚気話になってきて、長太郎も負けじと俺との話をしだした。恋愛話は苦手じゃなかったのか。いちいち反論しようにも、英語のスピードについていけなくて口を挟めない。更に彼らは時々微笑ましいという風な顔で俺を見やがる。おい、と長太郎を小突いてみるがどこ吹く風。彼は照れ屋なんだ、といかにも理解のある彼氏面して言いやがった。今のはばっちり聞き取れたぞ。今日のメールのやりとりを見せてやりたいものだ。彼らが日本語を読めないのが口惜しい。
さっきまでの喧々囂々とした雰囲気はなんだったのか。まるで昔からの友人のように打ち解けている。落ち着きを取り戻した長太郎はいつものように柔和な態度だ。断片的にしか会話を聞き取れない俺だけが一人取り残されている。
疎外感に拗ねるような年齢ではないけれど、なんとかして会話についていこうとしているうちに頭が疲れてきた。耳が英語を懸命に聞き取ろうとして、脳内の翻訳機能を使い果たしてしまったようだ。
ただでさえ体は朝からの大移動で疲れ切っている。悪いが先に寝させてもらおうと、梯子を上って長太郎が籠城していた二段ベッドの上の段に陣取った。
「宍戸さん、寝ちゃうんですか?」
長太郎が背伸びしてのぞき込んでくる。その背後では二人が出かける準備をしていた。
『軽く飲んでこようかと思ってよ』
『疲れてるのに騒いじゃって悪かったね』
髭のやつは親指を立て、金髪のやつはウィンクをして出て行った。一体なんの気遣いだ。
「二人きりにさせてくれたのかな」
「おまえがあんなに怒るから」
「だって、宍戸さんが仲良くしてるからつい……」
「長太郎だって仲良くしてたくせに」
ハッとして長太郎を見ると、驚きと喜びの混じったおかしな顔をしている。狼狽えてまっすぐに長太郎の顔を見ていられなくなった俺を、嬉しそうににやけ面で見つめてくる。
「今のナシ」
「いーえ、しっかり聞きました! 宍戸さんもヤキモチ焼いちゃったんですか?」
「んなわけねぇだろ。俺だけ英語わかんなくてイラついただけだっつーの」
「あ……ごめんなさい」
「別におまえが謝ることじゃねぇけど」
長太郎はシュンと眉尻を下げた。
賑やかだった部屋が途端に静まり返る。ようやく長太郎と二人きりになれたことに、今更ながら気が付いた。突然飛び出した俺を追いかけてここまで長太郎と、触れ合うなら今がチャンスだ。
「なぁ」
「なんですか?」
「……キスしてやろうか」
目を輝かせた長太郎が、飛びつかんばかりの勢いで梯子を上ってくる。ほんっと、犬みてぇ。ご褒美欲しさに全身全霊で駆け寄ってこられて、可愛くないわけがない。布団から出て、俺にキスされにくる長太郎の到着を待った。
「して、キス、してほしいです」
待ちきれない様子の長太郎は、布団の上に正座して膝の上で拳を握りしめている。そんなに俺から誘われたことが嬉しいのかとこちらが舌を巻くほどだが、二人きりなんだから飛びかかってきたって困りはしないのに長太郎はきちんと俺からのキスを待った。
「ん」
同じく正座して向かい合って、握りしめられた長太郎の拳に手を添えた。腰を浮かせて上体を伸ばして、長太郎に顔を寄せる。長太郎がまぶたを閉じるのを確かめて、唇にそっと触れた。
静かなキスだった。長い間していなかったようにも感じた。実際はしょっちゅうしているわけだけど、喧嘩して部屋を飛び出して、こんなに遠い土地で仲直りをして、やっと触れ合えたわけだからどうしても離れがたくなってしまった。
唇をくっつけるだけだったキスが、だんだん熱を帯びてくる。
添えていた手は握り返され、指を絡めて両手とも捕まえられる。
どこまでしようか、いつになったら止めようか、頭の中で理性と欲求が拮抗する。
唇を甘噛みし合い、舌の先をくすぐり合い、我慢できなくなったのは俺の方だった。
長太郎を押し倒そうとして、狭いベッドの上では行き場が無く壁に長太郎の背をぶつけてしまう。痛めただろうかと離れようとした俺の腕を引いて、長太郎が舌を絡めてきた。長太郎の太ももを跨いで乗り上げる。腰を抱かれ、長太郎の頭を抱いて、夢中で吐息を食べ合うみたいなキスをした。
言うまでもなく、体が反応してしまう。こんな体勢でくっついてたら当然だ。堅くなったもの同士が服の上から擦れ合い、もどかしくて、じれったい。もっと、直接触れ合いたい。だけど。
「ストップ!」
唇を離すと、長太郎は目元を興奮の色に染めていた。名残惜しそうに薄く開かれた唇が唾液で濡れていて、もう一度舐めてやりたくなって決意が鈍りそうになる。
「やっぱ、ここですんのはマズいだろ」
「うぅ……どうしても、だめですか?」
「だろ」
「……ですよね」
「あいつらがいつ帰ってくるかもわかんねぇし」
「ん~~わかりましたよぅ」
「わかったなら尻揉むのやめろ」
長太郎が駄々をこねるように俺の尻を揉んでくる。肉付きの悪い尻だ。揉んでも面白くもなんともないだろうに。
「なんか、今日一日、宍戸さんに振り回されっぱなし」
「なんだよ、文句か?」
「ううん。振り回されるの、嫌じゃなくなってきました」
「なにそれ。マゾなの?」
「え~? でも、そうかも。宍戸さんにならどんなことをされてもいいって思っちゃいますもん。あ、でも、ずっと俺と付き合っていてくれるって前提で、ですよ?」
目を細める長太郎は、優しそうに見せかけて有無を言わせない笑顔を俺に向けた。
鳳長太郎の散策
翌朝、早々に出発していった彼らを見送り、まだ眠っている宍戸さんのベッドに潜り込んだ。
狭いベッドだ。俺が入ってきたことに気づいた宍戸さんは、眠そうにしながら悪態をついた。
「おまえもあいつらと一緒に観光してくりゃいいのに」
「またヤキモチですか?」
揶揄うと、その手にはのらねぇよと背を向けられる。
温かい背中に抱きついて、寝癖のついた後頭部にキスをした。
「宍戸さんに触れないなんて、もう耐えられません」
「あっそ」
「今夜の宿は俺が決めますからね」
「今日も泊まんの?」
「まさかとんぼ返りってわけじゃないでしょう? バイトは明日の夕方って言ってましたよね。今夜は泊まって、明日の午前中にゆっくり帰りません?」
うーん、と眠そうな声で宍戸さんは唸った。
宍戸さんの手を握って、後頭部におでこをこすりつける。昨日の続きをしたいけれど、今はしないでおく。お願いをするときのスキンシップは控えめな方がいい。あまりやりすぎると、照れた宍戸さんは意固地になってしまうから。
「ね、お願いです。せっかく京都に来たんだし、もう一晩くらいいいでしょ?」
しょうがねぇなぁ、とあくびまじりに宍戸さんは言った。
チェックアウトして、駅に向かう。
途中、見つけたカフェで朝ご飯を食べながら相談し、鞍馬山に行くことにした。京都は広い。行ってみたいところはたくさんあるけれど、一日じゃ到底回りきれないので目的地を厳選することしたのだ。それに、近くに行ってみたい場所もあった。
まずは鞍馬駅を目指して電車を乗り継ぐ。叡山電車に乗った。森の中を進んでいくのは、映画かファンタジーの世界に入ったみたいで不思議な気分だ。秋は見事な紅葉を見られるらしい。色とりどりに染まった木々の間を走るのは、さぞ幻想的なことだろう。
鞍馬駅からは歩いて鞍馬寺に向かった。鞍馬寺は山の中腹にある。さらに奥に進みながら鞍馬山を下るまでがコース。
ここからはハイキングだ。山はいくらか涼しいと言えど、夏の蒸し暑さに汗が滲む。昨日着替えを買っておいてよかった。
平日なのに人が多い。本当に、どこにいっても二人きりにはさせてくれない場所だ。
宍戸亮の忠告
長太郎が鞍馬山に行きたいと言い出したのには驚いた。鞍馬山といえば天狗伝説が有名で、オカルト好きな日吉ならともかく、恐がりなあいつが行きたがる理由がわからなかった。
だがその謎はあっさり解けた。
電車に揺られながら、長太郎の持ってきた旅行雑誌を斜め読みしていたとき、とある神社の記事に目が止まった。その神社は鞍馬山を越えた場所にあり、特集ページによると縁結びの最強パワースポットらしい。なるほど、長太郎が好きそうなことだ。俺に言ったら却下されると思って、鞍馬山に行きたいなんてブラフをかけたのか。偶然を装って神社に連れていくつもりなんだろう。
でもあいつは知っているんだろうか。雑誌の特集をよくよく読めば、あの神社はカップルを別れさせる逆パワースポットとしても有名らしい。別々に参拝すれば問題ないと書いてはあるが、長太郎がなにも知らないで俺と参拝することを夢見ているんだとしたらちょっと可哀そうになってくる。とはいえ、本当にそこに行くのかはわからないし、純粋に鞍馬山に行ってみたいだけなのかもしれないしな。もし予想が当たって行くようなことになったら教えてやればいいか。
鞍馬駅から鞍馬寺を通り、奥に進む。途中までは舗装されていた道も、だんだんと山道になっていく。
「ちょっとは涼しいかと思ったんですけど、結構暑いですね」
「これくらいの標高じゃ涼しくはならねぇんじゃねぇの?」
「そっかぁ。どこかに荷物預けてくればよかったですねぇ」
「下調べしねぇからこうなるんだよな。次はちゃんと計画立てねぇと」
「次って言いましたね。聞きましたよ。今度こそはじめから二人で旅行しましょうね」
「はいはい」
念を押してくる長太郎の肩を小突いて、細道を進む。
木々に日差しを遮られているとはいえ、京都の夏だ。狭い道の上り下りで汗が滲み、こめかみを水滴になって垂れてくる。なにせ、ここは天狗の山。一面縦横無尽に張りだした木の根っこが、人の子をあざ笑うかのように行く手を阻む。
予想以上の運動量に長太郎も口数が減ってきた。だが体力には自信がある。これくらいでへこたれているとは思われたくない。後ろを歩く長太郎を振り向くと、にっこりと笑って見せた。余裕ぶっても、流れる汗が尋常じゃない。負けず嫌いなのはお互い様と健闘を称えて歩みを遅めた。競争じゃないんだし、水分補給しながらゆっくりと行くことにしよう。
山道を出ると、例の神社への方向を指す看板が立っていた。案の定、長太郎は行ってみましょうと提案してくる。そわそわと目を泳がせて、わかりやすいったらありゃしない。
「いいぜ、貴船神社だっけ? 行ってみるか」
やったぁ、と嬉しそうに俺の先を歩く長太郎の背中があまりにもうきうきとしているので、やっぱりちょっと可哀そうになった。
「なぁ、知ってんのか?」
「なにをです?」
長太郎が微笑みながら振り向く。
「その神社、付き合ってるやつと行くと別れるらしいぜ」
「えっ……?」
人の笑顔が凍る瞬間を、真正面から目の当たりにしてしまった。
長太郎はやはり知らなかったらしい。みるみるうちに顔を青褪めさせていく。
「わか、れる……?」
「で、でも、すげーパワースポットらしいし、行ってみようぜ」
「うそ、そんな……宍戸さん、俺知らなくて」
やはり何も知らなかったのか。
長太郎は俺の服の裾を引っ張った。それだけではなく行く手に立ちふさがって、行かせまいととおせんぼする。なんとも情けない顔で俺を見た。思った以上の狼狽えっぷりに、こっちまで落ち着かなくなる。
「やっぱり、やめておきましょう?」
「でも縁結びの神様にお参りしたいんだろ?」
「えっ、縁結びの神社だって知ってたんですか?」
「あ~……うん。長太郎の持ってきた雑誌に書いてあったし」
青褪めていた表情を一転し、ぽっと頬を染めた長太郎は、俺の服から手を離して指先をいじいじと交差させ始めた。
「ははっ、バレちゃってましたか。恥ずかしいな」
「隠すことねぇのに」
「だって、言ったら一緒に来てくれないと思って」
「そう思ってると思った」
「……それもバレちゃってましたか」
えへへ、と長太郎は首を掻いた。歩き始めた俺の後ろについて、やっぱりやめましょうと言い続ける。
「別々に参拝したら問題ないって書いてあったぞ」
「え?」
「おまえが持ってきた雑誌。書いてあった」
立ち止まってバックパックを探りだした長太郎は、どの本ですかぁと鞄の口を大きく開けて中身を見せてくる。その中の一冊を指さしてやれば、まさに血眼といった様子で熟読し始めた。
「本当だ。書いてある」
「な。大丈夫だって。行きたかったんだろ?」
うーん、と悩みだした長太郎は、ややあって決心したのか、バックパックを背負い直した。
「じゃあ、宍戸さんが先に行ってきてください。戻ってきたら、俺行くんで」
「なんだ、結局行くのか」
「だって……縁結び……」
パワースポットと別れるジンクスを天秤にかけて、前者が勝ったらしい。
長太郎はここで待つという。こんな神社の入り口すら見えないところじゃなくてもっと近くで待てばいいのにと言うと、神様に宍戸さんの恋人だって知られたらまずいんで、と言う。信心深いのか欲深いのかよくわからない。
とにかく、日差しも強いし早めに戻ってくると告げ神社に向かった。
鳳長太郎の懇願
まったくの盲点。寝耳に水。縁結びで有名な神社に、恋人と行くと別れるなんて言い伝えがあったとは。
せっかく京都に来たんだから、テレビや雑誌で見たことのあるお寺か神社に行ってみたかった。調べてみたら縁結びの神様がいるって言うじゃないか。だから宍戸さんと二人でお参りして、神様にお願いしたかったんだ。
宍戸さんは願いを自分の手で掴み取る人だから、神様を頼ろうとする俺に呆れたかもしれない。健康祈願や大願成就ならまだしも縁結びだなんて、他力本願なんてもっての外と考えているかもしれない。
それでも、神様にお願いをしてでも、宍戸さんとの縁がずっと、ずうっと続いて欲しいのだ。
宍戸さんと出会って、テニスをして、とても強い絆で結ばれた。そして恋しい気持ちはお互いに通じ合っている。どちらも得難いもので、宍戸さんはその両方を俺にくれた。誇らしくて、嬉しくて、でもときどきわからなくなる。信頼関係の強さは疑いようがないのに、恋愛感情の繋がりとなるとひどくひ弱に思えてしまうのだ。宍戸さんは、ダブルスパートナーとしての俺を必要としてくれたのと同じくらい、恋人としての俺を必要としてくれるのだろうか。
宍戸さんに聞いてみたい気持ちと、答えを聞きたくない気持ちがせめぎ合って、結局考えなかったことにしてしまう。宍戸さんを信じているはずなのに、一昨日みたいに『俺のことを考えてくれない』なんて子どもじみたことを言ってしまう自分がいやになる。
だから、どうか宍戸さんがずっと俺のことを好きでいてくれますようにって、見えない力に祈りたくなったんだ。
戻ってきた宍戸さんと入れ替わりに神社に向かう。
願い事はひとつだけ。
俺は臆病だから、人の気持ちは計れないのに何度も確かめたくなってしまうんです。反省しています。だから、どうかどうか、やっと繋がった宍戸さんとの縁がいつまでも切れることなく、ずっと彼のそばに居られますように。
宍戸亮の予言
参拝して神社をあとにすると、長太郎はさっき別れたところよりもずっと遠くで待っていた。念には念をということらしい。なにもそこまで徹底しなくても。
神社に向かう長太郎の後ろ姿は、ひどく緊張して見えた。まぁ、好きに祈ればいいさ。願いは自由だ。叶えられるかどうかは、本人の努力次第だが。
ここで待っているのもなんだし、辺りを見て回ることにした。いくつも和食の店が立ち並んでいる。よくよく見ればどこも川床があるらしい。
そういえば、昨夜鴨川を歩いているときに長太郎が言っていた。夏の京都に来たのなら川床は外せない。
どこも予約でいっぱいだったが、運良く空きが出た店を見つけることが出来た。少し待てば入れるという。
長太郎もそろそろ戻ってくる頃合いだろう。受付に二人と告げて、しばし待つことにした。
入店してからものの五分も経たないうちに長太郎が到着した。川の上の座敷というのは不思議な心地だ。もっと不安定なところかと思いきや、案外しっかりとしているようだ。
注文は長太郎を待っている間に済ませておいたので、案内された席に向かい合って腰を下ろし、一息ついたころには料理が運ばれてきた。
「おいしそう。おなか空きましたねぇ」
「山歩きしたからなぁ」
涼やかに彩られた料理は男子大学生の胃に収まるには少々量が足りないように思うが、ここは京都、風情を味わうのがオツというものだろう。
なぜ京都の夏と言えば川床なのかわからなかったが、実際に体験してみるとなるほどと思う。床の下を川が流れることによって冷たい空気も川床に流れ込み、天然のクーラーとなるのだ。炎天下を歩いて火照った体が、川からの冷気に癒されていく。川の上に台を作るだけでこの効果を得られるのだから、昔の人はなんとも器用に夏を楽しんだものだと思う。長太郎も、神社に向かっていったときとは違い、肩の力を抜いて楽しめているように見えた。
「たまにはこういうのもいいですね」
「だな」
「あ~なんか旅行って感じしますね! 東京に居たら出来ないことしてる」
「旅行なんて行き慣れてるだろ。氷帝に居たらなおさら」
「ははは、海外ばっかりですけどね。でも宍戸さんと二人きりなんてそうそうないでしょ?」
長太郎は鮎の塩焼きにかじりついて、おいしいと相好を崩した。
よっぽど楽しいようだ。今度はちゃんと計画を立てて連れて行ってやろうと密かに心に決めた。
「そういや、ちゃんとお参りできたか?」
「はい、できました」
「そりゃよかった」
川のせせらぎが耳に涼しい。手を伸ばせば触れられるほど近くを流れているさやかな水音に包まれて気分が落ち着く。
「宍戸さんは、なにをお願いしたんですか?」
長太郎の声に箸を止めると、長太郎も箸を止めて俺を見た。
目が合うと、きゅっと唇を引き結んで眉尻を下げた。何をそんなに不安そうにして、俺の答えを待っているのか。
「それはもちろん」
「もちろん?」
「おまえとこのまま続いていきますようにって」
「本当ですか?」
「嘘ついてどうすんだよ。そういう神様なんだろ?」
長太郎はほっとした顔をして、よかったと呟いた。
こんなことで安心するなんて、そんなに俺のことが好きか。いや、愚問だな。長太郎が俺のことをどれほど好きかを、俺が一番よく知っている。図々しかったり不安がったり、こいつは俺のこととなると本当に忙しい。
「今更願わなくたって、俺とおまえの縁は、切ろうと思ってもそう簡単に切れたりしないと思うぜ」
えっ、と目を丸くしてこちらを見る。
驚くことはないだろう。なんでいつも言わなきゃわからねぇんだ。たまにははっきり言ってやるべきだろうか。清流の音に紛れて俺たちの会話なんて周りからはよく聞こえないだろうし、長太郎には俺の言葉が必要なんだろうし。
本当に手の掛かるやつなのだ。恋人同士になってもなお、こいつは俺への片思いを拗らせている。
「だって、おまえ、俺のこと好きだろ?」
「はい。はい、好きです」
「だろ。おまえが俺のこと好きでいるなら、切れねぇよ。ずっとな」
鮎の塩焼きにかぶりつく。お、ほんとだ、うまいなこれ、と長太郎を見ると、鮎にかじりつこうとして、やめて、小さく頷いた。まばたきを何度もして、唇を震わせては噛みしめていた。
俺が食べ終わっても、長太郎の鮎は全然減らない。
仕方がないので、しばらく流れる川音に耳を傾けることにした。
鳳長太郎の完遂
市街地に戻ってきて、いくつか観光スポットを巡った。たくさん写真を撮って、疲れたら甘味どころに入って、街を歩くだけで楽しい。
宍戸さんはよく笑った。普段なら気にも留めないようなことにも、俺の目を見て楽しそうに笑った。宍戸さんの笑顔の一番近くにいて、一緒に笑い合っている。なんてしあわせななんだろう。人混みの中にいても世界で二人きりになったみたいに高揚して、抱きしめて腕の中に閉じ込めておきたくなる。
だから、今夜こそは二人きりになりたい。ゲストハウスでもユースホステルでもなく、二人きりの部屋に泊まりたい。
夜になり、予約しておいたホテルに向かう。
旅館はどこも満室だったけれど、ホテルならなんとか空きのあるところを見つけることができた。宿代を宍戸さんに出させるつもりはないし、部屋選びは好きにさせてもらった。ここは、約束通り折れてもらおう。
ホテルに着きフロントでカードキーを受け取って、宍戸さんの手を引いて部屋に向かう。途中、「冗談だろ?」と何度も宍戸さんが俺の背を叩いたけれど気付かないふりをした。着いた部屋は高層階のちょっとグレードの良い部屋。スイートまではいかないけれど、スタンダードからはほど遠くて、モダンなインテリアと眩い夜景が大人の雰囲気を醸し出している。もちろんダブルベッドだ。
「ちゃんと自分で働いて貯めたお金ですよ」
宿泊費のことで叱られると思ったから、まずは先手を打った。
「つっても当日予約だろ? 正規料金でこんなとこ」
「宍戸さんの言うとおりスネかじりまくりなんで、遊ぶことにしか使わないお金だからいいんです。もともと宍戸さんに使うために貯めてたようなもんですから」
「もっと使い道があるだろ」
「宍戸さん以外に? ありませんよ」
「おまえ……! ほんっと可愛くねぇ」
「うそだぁ」
本当は俺のことを可愛いと思ってるくせに。絶対に俺には言わないって決めてるみたいだけど、実際は酔っぱらって言っちゃったりするし結構わかりやすい。もともと後輩として可愛がってくれていたからその延長線上にあるだけかもしれないけれど、気難しそうに見えて情に厚い宍戸さんが、自分の懐に入れた人間を可愛がらないわけないもんね。
「やっと二人きりになれましたね」
ベッドの端に腰掛けて宍戸さんの手を握る。
「うっわ。まじでそんなセリフ吐くやついんのかよ」
宍戸さんは心底嫌そうな顔をして俺を見下ろした。
「もうおあずけは食らいませんからね」
宍戸さんの腰を引き寄せる。シャツ越しのおなかに顔を埋めて頬擦りすれば、汗と宍戸さんの匂いがした。
ベルトのバックルを外そうと指を掛けたところで、頭のてっぺんに手刀を振り落とされ衝撃に星が飛ぶ。
「痛い!」
「いきなりおっ始めてんじゃねぇよ!」
「どうして? 宍戸さんだってしたがってたじゃないですか!」
忘れもしない昨日のキス。あんな寸止めをしておいて、今更拒否するなんてあんまりだ。
「だからって、部屋に入って早々ってのはよ」
「ちゃんと使うものだって買ってありますよ?」
「は? なんで。いつ」
「昨日、服買うときに買いました。ホテルに泊まるもんだと思ってたから使うかなって。まさかゲストハウスだに泊まるとは思いませんでしたけど」
バックパックの中には、昨日使われるはずだった新品のコンドームとローションがばっちり入っている。
無言で見つめ合うこと数秒。あー、と唸った宍戸さんは俺の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
「ちょ、なんですか」
「わかったよ。でも先に風呂入ってくる」
「俺も一緒に」
「だめ。テレビでも見てろ」
「えー、一緒に入りたいのに」
「歩き回って汗かいたし、それにわかるだろ。いろいろやることがあるんだよ」
それも含めて手伝わせて欲しいんだけど、どうせさせてくれないだろうから、大人しく宍戸さんの腰から手を引いた。
俺の頭を撫でた宍戸さんは、ベッド横に置いていた自分のバックパックからパジャマ代わりのTシャツを取り出した。
「着替えるんですか? どうせすぐ脱ぐのに?」
「あー、それもそうか」
一度セックスすると決めた宍戸さんからは、抵抗も恥じらいも消え去ってしまう。初めてのときからそうだ。潔さが過ぎて俺の方が戸惑ってばかりだ。
宍戸さんは着替えを仕舞って、手ぶらでバスルームに向かった。タオルもバスローブもアメニティも全部バスルームの中にある。戸を開けた瞬間「うお」と声を上げたのでのぞきにいったら、浴室からも夜景が望める仕様になっていて、俺も「うわ」と声を上げてしまった。
部屋の明かりを落として、フットライトだけを点けると一気にムードが増す。
「やめろよ、恥ずかしいヤツだな」
「いいじゃないですか。雰囲気が出て」
ベッドに寝転ぶ宍戸さんを追いかけて乗り上げ、バスローブを剥ぎ取る。早く宍戸さんの肌に触れたくて、裸になって覆い被さった。薄明かりでも、真っ白いシーツに四肢を投げ出した宍戸さんの体は鮮明に浮かび上がって見える。
「だからだよ。夜景に間接照明にダブルベッドって、いかにもセックスしますって感じでやべーだろ」
「いかにももなにも、するじゃないですか」
「そうだけどよ」
宍戸さんが顔を背ける。雰囲気に飲まれてしまってよいものか葛藤しているんだろう。そんなの、いいに決まってるのに。
そっぽを向いているせいで露わになっている首すじに口づけた。耳の下、顎の先、喉元へ、たくさんキスを降らせて、唇で宍戸さんの肌を確かめる。唇だけでは物足りなくなって、舌を伸ばして首すじを下から上に舐め上げたら、宍戸さんはゆっくりとこちらに顔を向けた。
「わかったから」
宍戸さんの腕が首に回って、頭の後ろを撫でられる。引き寄せられ、キスをする。舌を絡めた瞬間、どちらともなく火が点いた。
いつだって欲を持て余している俺たちは、くっつけばどうしようもなく触れ合ってしまう。それなのに一昨日は触れなかったし、昨日はキスしか出来なかった。当然のごとくフラストレーションがたまって枯渇し、満たされたいと躍起になってしまう。
溢れる唾液で舌が熱い。吸って擦れて、ドロドロになる。頭の芯がビリビリ痺れて、肌が触れ合ったところから宍戸さんで満たされていく。宍戸さんの脇腹に触れる。汗ばんでしっとりした肌の上を滑らせるように手を這わせて、胸の小さな尖りを引っ掻くと、宍戸さんは鼻から抜ける声を出した。宍戸さんの体が性的な気持ちよさを拾い始めている。優しく捏ねると尖りは硬くなって、宍戸さんは熱い息を漏らした。俺に触られて昂っていく宍戸さんの体はたまらない。もっとくっつこうと体を密着させたら、硬くなったお互いの性器が触れあった。
「宍戸さんも勃ってる。気持ちいいですか?」
「いちいち聞くんじゃねぇ」
腰を揺する。熱いペニスが擦れる。けれど手で支えているわけじゃないからイイところにはうまく当たらなくて、もどかしさが募る。
「んっ」
「はぁ、熱い。宍戸さんの、すごく硬い」
「うる、さいっ、んっ」
もぞもぞと俺の下で足を広げた宍戸さんは、そのまま俺の腰に足を絡めて抱きついてきた。
そしてペニスの先を俺の下腹に擦らせて、先走りで濡らした。
「どうしたんですか? すごく、積極的」
「いいから早く」
「早くって、もう挿れたいってこと? いいんですか?」
「だから、いちいち聞くなってば」
宍戸さんに引き寄せられて下唇を噛まれる。至近距離で視線が絡むと、宍戸さんは目を泳がせた。
「照れなくてもいいのに」
キスをしながら体を起こして、サイドテーブルのローションボトルを掴んだ。手のひらに中身を出して温める。宍戸さんの右足を押し上げて、丸見えになった窄まりに塗りこんだ。入口を撫でて、力が抜けたところでゆっくり指を挿れていく。
苦しがってはいないか、宍戸さんの様子を確かめたら、深く息を吐きながらまぶたをぎゅっと閉じていた。目を瞑ってしまったら感覚が研ぎ澄まされてしまうだろうに、宍戸さんはときどきこうやって俺の視線から逃げようとする。照れ屋というか不用心というか。そんな風にうっかりしているから、俺にいいようにされてしまうんだ。
指をもう一本増やして宍戸さんの前立腺を撫でながら、透明な汁で濡れた亀頭を口に含んだ。
「あっ、ばか、長太郎」
たっぷりと唾液をまとわせ、ペニスを吸い、指を出し入れさせる。優しくゆっくり、ときどき、激しく。指を増やして、宍戸さんを昂らせる。じゅぽじゅぽ、ぬちゅぬちゅ、宍戸さんの二つの性器から鳴る水音が、俺の頭をぼーっとさせる。
「んっ、ふ、あ、あっ、どっちも、まずい、って」
声を上擦らせる宍戸さんは、気持ちいい刺激から逃げるように腰を揺らした。追いかけて、甘やかに責め立てる。
このまま続けていれば、時間を掛ければかけるほど、宍戸さんはグズグズになって、体のどこもかしこもふにゃふにゃにさせて、俺を受け入れてくれるようになる。そして宍戸さんは俺の髪を力の入らない指で混ぜこんで、早く早くと喘ぎ声混じりに俺の名前を呼ぶ。その声は催眠術のようで、抵抗する術を持たない俺は操り人形のように宍戸さんに差し出してしまうのだ。
案の定、宍戸さんは俺の口の中で一度射精した。苦味を飲み込みながら、柔らかくなったペニスを舌であやす。けれど前立腺を撫でればすぐに硬さを取り戻し、俺に吸われて、宍戸さんは腰をヒクつかせながら再び昂っていった。
もう欲しい、長太郎、と上擦った声で呼ばれ、コンドームを付けるために宍戸さんへの刺激を止める。宍戸さんは胸を大きく上下させてシーツに沈んだ。お尻もペニスもぐちゃぐちゃに濡れて、汗ばむ肌は部屋のほのかな光を反射し艶めいていた。
「やっぱりムード作りは大事ですよ。宍戸さんが、すごく綺麗に見える」
力の入らない足で俺の胸を蹴ってくる。ふくらはぎを掴むと、宍戸さんは観念したように自ら足を開いた。太ももを押し上げ、亀頭をアナルに埋め込んだ。ぬるぬるになったそこは簡単に俺を受け入れて、根元まで挿入すると宍戸さんはまたまぶたをぎゅっと閉じた。
「ねぇ、全部挿入りましたよ」
「んぅ」
「宍戸さん。目ぇ開けて。こっち見て?」
ほっぺたを撫でて、鼻の頭に口づける。宍戸さんはくすぐったそうに鼻にしわを寄せて喉の奥で笑った。まだまぶたを開けてくれないので、おでこにキスをする。こめかみ、ほっぺた、目の下にもキスをして、最後に唇にそっと触れた。
「ねぇ、俺を見てくれないの?」
宍戸さんは目を瞑ったまま、口端をゆるく引き上げておどけてみせた。
「も~」
根元まで挿入ったまま腰を突き上げると、不意打ちに揺さぶられた宍戸さんは驚いてまぶたを開けた。俺と目が合うと、悔しそうに睨んでくる。でも、怒った時には吊り上がるはずの眉が下がっていて、そして瞳は潤んで煌めいていた。
「ずりぃ」
「宍戸さんの目を見ながらしたかったんだもん」
「……恥じぃだろ」
「少しだけ我慢してくださいよ」
ゆっくり腰を引いて、ゆっくり宍戸さんの中に戻っていく。狭い宍戸さんの中が俺を締め付けて飲み込む。
「っ、はっ」
宍戸さんが目を細める。そのまま閉じてしまわないように腰を打ち付けると、宍戸さんは目を見開いて俺を見上げた。
「そういう、こと、すんなよ」
「どういうこと?」
「っ、くそっ」
宍戸さんは両手で俺のほっぺたを包んで見つめてきた。穿たれて前立腺を擦られるたびに反射で目を閉じそうになるのを堪えて、俺を見つめ続ける。息が上がってしまうのを堪えきれないようで、声が漏れそうになると唇を噛んだ。口を抑えたくても両手は俺の頬に触れていて使えない。快感を逃がす術を自ら封じていることに気付かない宍戸さんは、俺に揺さぶられるたびにヒクヒクと体を跳ねさせて昂っていった。
「宍戸さん、気持ちいい、でしょ」
「んぅ、っ、ん」
「俺も、俺もだよ。やっと宍戸さんに触れて、気持ちいいです」
「ふっ、っ、んあっ」
「我慢しないで。ね、どうしてほしい? 俺のお願い聞いてくれたから、宍戸さんのして欲しいこと、してあげる」
あんなに恥ずかしいと言っていたのに、俺の目を見ながら気持ちよくなってくれた。だから今度は、俺が宍戸さんのお願いを聞く番。
ほっぺたに触れている宍戸さんの手を取って、俺の背に回す。汗で貼りついた前髪を指先ではらって、おでこにキスをした。
宍戸さんは俺を抱きしめて唇を寄せた。そして唇を触れさせたまま囁いた。
「このまま、いっぱい、動け」
「うん、わかりました。最後まで?」
「最後まで」
宍戸さんの言葉ごと、唇に噛み付いた。舌と吐息を絡めて、腰を振る。ぎゅっとまぶたを閉じた宍戸さんが、ときどき薄目を開けて俺を見る。我慢しない喘ぎ声をキスに乗せて、宍戸さんは俺の背中に縋り付いた。
「あ、あぁ、あ、っ」
太ももをぶるぶる震わせて、宍戸さんの中が俺に絡みつく。あと少しで果ててしまう宍戸さんを、追い立てるように腰を振る。しばらくして、下腹にあたっていた宍戸さんのペニスから熱いものが飛び散った。そのあとを追うように、果てる宍戸さんにきつく抱きしめられながら射精した。
宍戸亮の休息
窓の外が明るく白み始めているのをベッドから眺めながら、腰のだるさに息を吐く。俺の背中にぴったり抱きついている長太郎の寝息が頭の上に聞こえる。尻の辺りに柔らかいものがくっついていて、硬くなったそれがまだ中に入っているかのような感覚がこそばゆい。
結局、昨夜は長太郎のペースに飲まれてしまった。
一度では終わらなかったセックスで、長太郎は俺から離れるのを嫌がった。体だけではなく、目線ですらも俺が長太郎から離れるのを拒んで、何度も引き戻して拘束した。縛られたわけでも脅されたわけでもないのに抗えなかったのは、長太郎があまりにも切なそうに俺を見つめたからだ。裸で抱き合いながら捨て犬みたいな瞳で縋られたら、誰だって言う事を聞いてやりたくなる。昨夜は特にそうだった。置き去りにされて、必死に追いかけて、更にお預けまで食らわされたら、ただでさえ俺にべったりな長太郎のことだ、相当鬱憤がたまっていたのだろう。
長太郎が満足するまでさせてやりたかったが、先に俺の体が限界を迎えた。体力に自信があっても、こればっかりは受け手が不利だ。腰が立たなくなった俺を気遣って、長太郎は甲斐甲斐しく後始末をしてくれた。
『また喧嘩しちゃうかもしれないけど、もし宍戸さんがどっか行っちゃったら、追いかけてもいいですか』
眠る前、長太郎は言った。当り前だろ、と答えながら、追いかけられないなんて考えてもみなかった自分にハッとした。
いつか長太郎に追いかけられないときが来たら、俺は何を思うんだろう。そんな日が本当に来るのか、今は想像もできないが、もしかしたらその時こそが俺たちの新しい始まりになるのかもしれない。
長太郎には背中ばかり見せてきた。先輩ってそういうもんだ。追いかけられるのは嫌いじゃないけれど、いつだって追いかけさせてばかりだ。
でも十年後、二十年後はどうだろう。俺と長太郎はチームメイトでもダブルスパートナーでも、先輩でも後輩でもなくなって、ただの恋人でしかなくなる。一年の年齢差なんて在って無いようなものになって、本当の意味で俺たちは隣合うことになるんじゃないだろうか。
そんな先のことはまだわからない。俺たちがどんな形で続いていくのか、未来のことは未知数だ。
でも、だからこそ、いつかまた喧嘩して、今度は長太郎の方が俺から距離を取りたくなったら、遠慮せずに背を向けてくれていいと思える。その時は俺が長太郎を追いかけるから、安心して行きたいところに行けばいい。
離れてもまた寄り添える関係でいたい。長太郎が俺を諦めなかったように、俺も長太郎を諦めたくない。
今はまだうまく伝えられる自信がないけれど、もう少し大人になったらきっと言える。おまえが思っている以上にずっと先まで、俺はおまえの側に居たいと思っているってことを。
長太郎の腕の中で寝返りを打てば、幸せそうに口元を緩めて眠る寝顔がある。
詳しく聞いていないからわからないが、部屋を取った張本人がぐっすり眠っているところを見るとチェックアウトにはまだ時間がありそうだ。
もう少し長太郎の体温を感じていたくて布団に潜り込めば、嗅ぎ慣れた優しい匂いがする。安眠作用はホットミルクやハーブティーなんて目じゃなくて、あっという間に眠くなってきた。
目が覚めたら一緒に帰ろう。そしてまた旅をしよう。今度は二人で行き先を決めて。