※幽霊長太郎×吸血鬼宍戸さん
※今後の展開に死ネタ含みます
※ハッピーエンド
1
舌を滑る、まろみのある甘さ。
微かに感じる塩気と錆び付いた刺激。
喉を通ればなめらかに胃に落ち、乾いた大地に雨がしみこむように空腹が満たされていく。
宍戸は、真っ赤な鮮血の詰まったパックに直接刺したストローから唇を離し、ほぅと息をついた。
「お口に合いました?」
背後から聞こえる、血のようにまろやかな声に振り返ってみれば、透き通るほど青白い肌の男がにこやかに微笑んでいる。
宍戸は輸血パックをもつ手をわずかに上げた。
「あぁ、申し分ない」
その言葉にいっそう破顔した男が宍戸に駆け寄ってくる。
「よかったぁ。喜んでもらえて何よりです」
笑顔を見上げながら、宍戸は再びストローに口をつけた。
街の外れの小高い丘は木々に覆われ、鬱蒼とした森とまではいかないが、滅多に人は訪れない。
その木々に隠れるようにして、こじんまりとした洋館が建っていた。
鉄の柵で囲まれた館の庭は手入れが行き届いており、様々な種類の薔薇が咲き誇り小さなガーデンテーブルと二脚のチェアが並んでいる。
レンガ造りの館は二階建てで、まるでその空間だけ時が進むのを忘れてしまったかのような古めかしさがある。
丘から見下ろす街は、整備された道路に新興住宅が建ち並び、視界の端々に高層ビルが聳え立つ。
日々アップデートしていく現代建築に取り残されたようなこの対比が、洋館の雰囲気を一層奇妙なものにしていた。
奇妙であるのは建物だけではない。
ここで暮らす住人達も、街の人間たちとはどこか違っている。
人のようで、人ではないなにか。
黒髪に夜色の瞳。
青年にしては肌が陶器のようになめらかで、少年にしてはまなざしに無鉄砲さが足りず物腰に落ち着きがある。
男の名を宍戸という。
この洋館の主である宍戸は、齢三百歳を超える吸血鬼だった。
はじめからこの館にいたのかというと、そうではないのだが、ここ数十年はこの場所に腰を据えて悠々自適に暮らしている。
吸血鬼ではあるが陽の光に溶けない体の宍戸は、昼過ぎに起きてきては庭の薔薇の手入れをし、夜は月を肴に一杯やったり、蝙蝠の姿になって木々の間を高速で飛び回ってみたりした。
友人も家族もいない宍戸には、日々の暇つぶしだけが生きる楽しみだ。本性を隠して街に降りてみたりするのも、そんな暇つぶしの一環だった。
そしてもう一人。
気ままに過ごす宍戸の傍らにはいつも上背のある男が寄り添っている。
血色が悪く青白い肌。細いつららを集めたような銀色の髪。
透き通りそうなこの男は幽霊であり、名を鳳と言った。
いつの頃からかこの館にに住み着いた鳳は、ここに来るまでの記憶を失っているようだった。
幽霊にはよくあることだ。
どんな人間で、どのように生きて死んだのかを全て忘れ、この世を去ることすらままならない。
なんの未練があって居続けるのかを自分自身で思い出さなければ成仏はできないのだ。
そんな死者の魂たちは、いつしか自分が自分であったことも忘れ無秩序に浮浪する幽霊となる。
おそらく鳳もその一人なのだろう。
幽霊は珍しいものではないし、悪さをするわけでもない鳳を、宍戸は好きにさせた。
鳳は宍戸によく懐いた。
宍戸が出かけるときはぴたりと後ろをついて行き、家の中でも身の回りの世話を進んでしようとする献身ぶりだ。
それだけではなく、館の掃除はもちろん、洗濯から風呂の準備まで鳳はとてもよく働く。
幽霊は怠惰な性格であることが多いと思っていた宍戸は、その精励を目の当たりにし素直に感心した。
今では鳳の働きなくして快適な生活はない。
育てた薔薇を眺めながら鳳が淹れた紅茶を飲み、静かな夕暮れ時を過ごす。
毎日皴のないシャツに袖を通し、寝床は清潔に保たれている。
それに、夜な夜な街に出向いて公園に寝転がる泥酔した輩を襲い血を啜るような野蛮で品のないことをしなくても、鳳がどこからか輸血パックを持ち帰ってきてくれる。
なんでも一人でやってきた宍戸は、鳳と出会って初めて、誰かに尽くされる心地よさを知ってしまった。
そんな二人の間に恋心が芽生えたのは、なんら不思議なことでなかった。
鳳からの想いに宍戸が応える形で始まった二人の恋は、ただ穏やかで、ときどき激しい。
屋根に上って星々をなぞりながら語らう夜もあれば、昼も夜もなく数日間交わり続けることもある。
命の限りもなく、恋路を邪魔するものもいない二人にとって、互いに想い合う時間に際限はなかった。
年月というものは、二人にとって「流れ」でしかない。
宍戸にとって身を委ねて揺蕩うだけだった日々は、鳳の存在によって色づき、そしてこれからも永遠に変わることはないのだろう。
「おなかいっぱいになりました?」
空になった輸血パックを受け取り、鳳は宍戸の瞳をのぞき込んだ。
吸血鬼の瞳は生き血を啜るときにだけ瞳孔がきゅっと縦に細くなる。
人ならざる者の怪しい眼光に見つめ返されるたびに、鳳の背すじはゾクゾクと震えた。
密かに覚えてしまう興奮を、目を細めた笑顔で隠す。
その笑みに応えるように、宍戸はわずかに血に塗れた唇を引き上げて笑みを漏らした。
「あぁ。ありがとな」
宍戸の手が、生気のない青白い肌に伸ばされ触れる。
「相変わらず、冷たいな、長太郎は」
宍戸の手のひらを、鳳は瞼を閉じて受け入れた。
「宍戸さんの手はあったかいですね。ごはんのあとだからかな」
「そうかもな。おまえも何か食べられたらよかったのに」
「食事をする幽霊なんて、聞いたことないですよ」
空のパックを自分のポケットにねじ込んだ鳳は、宍戸の腰を引き寄せた。
「冷たい肌はいやですか?」
頬を合わせれば、宍戸の肌が鳳の頬を温める。
触れたところからじんわり伝わる宍戸の熱をもっと感じようと、鳳はそっと頬擦りした。
「長太郎」
宍戸の指先が鳳の髪に絡む。
鼻先が触れ合い、唇を寄せ、舌をさしこんだ。
宍戸のキスは血の味がする。
だが、宍戸の唾液が絡めば不思議と甘く感じられた。
「おいしいですね」
「またおかしなことを」
「本当ですよ。宍戸さんは、おいしいです」
唇を寄せ合ったまま、宍戸はふっと笑った。
「けど、おまえの血はまずい」
「あー! また言った。確かに俺の血はおいしくないかもしれませんけど、そんなにはっきり言うなんてひどいですよ。幽霊なんだし、仕方ないじゃないですか」
「幽霊の血なんて吸ったことなかったからよ、初めておまえの血ぃ吸ったとき、想像以上にまずくてビビった」
「うぅ……幽霊も体質改善できたらいいのに」
肩を落とす鳳にじゃれつくようなキスをして、宍戸はその体を抱きしめた。
「冷たくても、まずくても、おまえが居てくれればそれでいい」
「ずっと居ますよ。宍戸さんのそばに、ずっと」
抱きしめ返す腕は力強い。
窓の外では月が沈もうとしていた。
2
宍戸は陽がでている間でもお構いなしに活動する。
日焼け止めを塗り、園芸用の大きなつばのついた帽子をかぶり、UVカット加工のアームカバーを身につけ、万全な対策を施してあくせく動き回る。
直接日光を浴びても体が煙のように消えてしまうわけではないのだが天敵であることに変わりはなく、やけどしたように水膨れができてしまったり熱中症を起こして倒れてしまったりするから、多少面倒でも準備に手を抜くことはできない。
ここまでして外に出たがるのは、宍戸のアクティブな性格による。
必要がないというのに、動きたいという理由だけで蝙蝠の姿になって森の中を飛び回ってしまうくらいだ。
もう幼少期なんて何世紀も前のことだというのに、未だに好奇心が衰えないのだから手に負えない。
宍戸にとっては、陽の出ている時間に指を咥えて家の中に閉じこもっているなんて無理な話だった。
今日も今日とて、燦々と降り注ぐ太陽光の下、完全防備で庭に出る。
秋も深まり、草むしりするのも楽になってきた。
庭の隅にしゃがみ込み、雑草を一つ残らず抜いていく。
それにしても今年の夏は暑すぎた。
宍戸は、燃えるように色づく故郷の森を思い出しては、ときたま吹く秋風を頬に受け鼻歌交じりに作業に没頭した。
滅多に音を発することのない門の呼び鈴が鳴ったのは、日が陰りはじめた時分だった。
あまりに長くその音を聞いていなかったので、宍戸は一瞬なんの音かわからなかった。
呼び鈴であることを思い出し、珍しいこともあるものだ、と草むしりの手を止め立ち上がる。
庭を横切り、玄関へ続く煉瓦の道の先に小さな鉄柵の門に向かった。
立っていたのはスーツ姿の若い男だった。
片手には鞄を持ち、宍戸の姿をみとめるやいなや深々と頭を下げる。
そして、いかにも営業じみた声色で、言い慣れているらしき口上を述べた。
「はじめまして。お忙しいところ申し訳ございません。お住まいについて少しお話を伺えたらと思いまして」
聞くと、隣町で不動産業を営んでいるらしい。
どうりで見慣れない顔だったわけだ。
宍戸はこの街の人間のことなら大方知っている。夜な夜な徘徊していた時期があり、そのときに住人たちの住まいや家族構成を把握していた。
だから記憶にない顔が訪ねてきたことに、少なからず興味を惹かれたのは言うまでもない。
「この家についてってことだけど、なにが聞きたいんだ?」
宍戸は門を開け、男を招き入れた。
玄関へ進む宍戸の後ろを男がついてくる。
「とても歴史を感じさせるお住まいでいらっしゃいますね。失礼ですがおひとりでお住まいですか?」
「いや。あー……そうだ。一人」
二人と言おうとした宍戸は、思いとどまり一人と答えた。
「でしたらお家の管理も大変なのではないですか?」
「まぁ、大変っちゃー大変だけど」
玄関を通り過ぎ、客人をダイニングに通す。
着替えてくるから待つように言い、洗面所で泥のついた手と顔を洗った宍戸は寝室に向かった。
日除けグッズと言う名の鎧を脱いでベッドの上に放り、シャツとスラックスのラフな格好でダイニングに戻る。
「つまりはアレだ。この家を売る気はねぇかって話だな?」
単刀直入に切り出した宍戸に面食らった様子の男だったが、すぐに営業用の笑顔を貼り付け言葉を返した。
「そうはっきりと申されますと立つ瀬がないのですが、はい、お売りいただけるのならば」
口端だけを引き上げて笑みを男に投げかけた宍戸は、首を傾け、こちらにと誘導した。
案内してやろうというのだ。
意を汲み取った男が宍戸に続く。
「ゲストルームは二つある。どちらも今は使ってないから埃だらけかもしれないな」
家の中を案内して歩く宍戸の後ろで、男はバインダーに挟んだ紙になにか書き留めている。
おそらくは家の値踏みだろう。目ざとく内装のほころびを見つけているのかもしれない。
小綺麗にしているが、至る所にガタがきているのも事実だ。
だがリフォームすればそれなりに値の付く物件となるだろう。
交通の便がいいとは言えないが、庭付きの一戸建てとしてはそこそこの広さだし、なにより歴史的価値も高い。
この街で洋館は珍しいし、金持ちに売れそうだ。
宍戸は普段使っている書斎と寝室以外の部屋を、惜しげなく男に披露した。
そうして館の中を一周し、またダイニングに戻ってきた。
「どうだ。いい住処だろう」
不動産業の男の筆は止まらない。
もともと神経質な性格なのかもしれない。値踏みのための材料を取りこぼすまいとしているようにも見えた。
それでも主人である宍戸への礼儀は尽くそうとしているのか、バインダーから目を離さないまま言葉だけは愛嬌良く返す。
「ええ本当に。素晴らしいお宅ですね」
「仕事熱心なことだ。休憩でもしたらどうだ?」
ふと声を遠く感じ、男は一生懸命メモを取っていた手を止め顔を上げた。
ダイニングテーブルの一番奥では、主賓席に着いた宍戸が紅茶を口に運んでいた。
「あれ……?」
「ん? どうかしたか?」
「いえ、失礼」
感じた違和感を頭の端に追いやり、歩を進めた男は宍戸の右斜め前の席に腰を下ろした。
上半身を屈めて足元に置いた鞄にバインダーを片付け、体を起こす。
すると目の前に湯気が立ち上った。
男の前には、白地に小さな草花が描かれたカップとソーサーが置かれ、紅茶が注がれていた。
「え」
斜め横では、宍戸が先ほどと同じ体勢で紅茶の香りを楽しんでいる。
バインダーを片付けるほんの数秒の間に紅茶を用意したと考えるには無理があった。
そもそもカップが置かれる音なんて聞こえただろうか?
男が先ほど感じた違和感は奇妙さを増した。
(なぜ、ここに紅茶があるんだ……?)
ここの主人とはつい先ほどまで一緒に行動していた。
ダイニングに入ってきたのも同じタイミングだ。
目を離したのはほんの数秒だったはずだ。
それなのに、次に目にした主人は紅茶を飲んでいた。
始めにダイニングに来た時にはなかったはずの紅茶だ。
つまり新しく淹れられたもの。
だが彼に紅茶を淹れるタイミングなどあっただろうか。
ダイニングとキッチンは離れている。
家の中を歩いて案内されたのはほんの数分前だから思い違うはずはない。
お湯を用意するためにはキッチンまで出向かなくてはならないが、彼がダイニングを出ていった気配はなかった。
どうやって紅茶を用意したんだ。
誰かが用意したというのか。
しかし主人はここに一人で住んでいると言った。
それではこの紅茶は一体どこから来たのだというのだ。
「紅茶は嫌いか?」
「え? あ、いえ、そういうわけでは」
「うまいぞ。今日のはセイロンだな」
主人である宍戸がカップを鼻に近づけ、紅茶の香りを楽しんでいる。
ぞくり。
突然背すじを走った悪寒に、男は身震いした。
「寒いか?」
「ゆ、夕方ですからね。少し冷えてきたんでしょうか」
「まぁ、秋だからな」
宍戸はなんでもない風に言い、カップに口を付けた。
男はスーツの上から腕をさすった。
だが温まるどころか更なる寒気が男を襲う。
秋だから、夕暮れだから、という理由では説明できないほど急激に部屋の中が冷え込んできているのだ。
男は紅茶で体を温めようと、カップに手を伸ばそうとした。
そのとき、パンッと背後で何かが弾けるような音がした。
驚いて振り向いてみるが、壁があるだけで、何かが壊れた形跡もない。
すると次は頭上から、続いて斜め左後方から、足元から、前方から、バチンと強く何かを叩きつけるような音がひっきりなしに聞こえてくる。
男は首をすくめ、おびえた表情で宍戸を見た。
しかし館の主は、なにも聞こえていないのか、平然と紅茶を口に運んでは悠然と香りを楽しんでいる。
バチッ! パンッ!
音は、まるで苛立っているかのように激しさを増していく。
男は悪寒に震え上がりながら自身を抱きしめた。
「し、失礼ですが、この家鳴りはよくあるのでしょうか」
「家鳴り? そんなもの今まで起こったことはないぞ」
「し、しかし、この音は……?」
「音?」
「聞こえていないんですか?」
「さっきからなにを言っているんだ君は」
片眉を上げて怪訝な表情を浮かべる宍戸を、男は絶望のまなざしで見つめる。
出所不明の紅茶、どんどん冷えていく部屋に、原因不明の家鳴り。
男の思考は考えつきたくはなかった結論に至り……
パリンッ!!
「ひっ」
手元のカップが何の前触れもなく真っ二つに割れ、飛び散った紅茶の飛沫から逃れるように男は椅子から転げ落ちた。
信じたくはないが、この館にはなにかがいる。
男はジタバタと床を這いずり鞄を抱えると、一目散に走り出した。
ダイニングを飛び出していく男を、宍戸はなにも言わずに見送る。
間をおかずして玄関のドアが乱暴に開けられる音がして、宍戸は紅茶を楽しみながらダイニングの窓から見える庭の様子をうかがった。
男は門を開け放ったまま、転がるように逃げ帰っていった。
「あーあー最近の人間は礼儀がなってねぇな。つーか、開けたら閉めるっつーのが常識だろうが」
カップをソーサーに置いた宍戸は、億劫そうに立ち上がった。
「長太郎! いるんだろ?」
「はーい。ここにいますよ」
後ろ斜め上から落とされる、甘ったるい声色。
肩越しに振り向けば、一度も姿を現していなかったはずの鳳が首を傾げて柔和に微笑んでいた。
「ったく。三年ぶりの客だったのに」
「あれ。俺のおもてなしじゃ不十分でしたか?」
宍戸の背に張り付き抱きついた鳳は、わざとらしく猫なで声でじゃれついた。
小さくため息を漏らす宍戸がダイニングテーブルを見やる。
真っ白なテーブルクロスには茶色く紅茶のシミができていた。
「いや。十分だ。カップを割ったのは減点だけどな」
「あちゃー。今度は気をつけますね」
「ふはっ! 『今度』ねぇ。さぁて、次に客が来るのは何年後だろうなぁ?」
どこまでもしらを切りおどけてみせる鳳に、宍戸はくつくつと笑みを漏らした。
「何年後だろうと、何度でも追い返しますよ。宍戸さんの家に入る人間はみんな、俺が怖がらせて二度と敷居を跨がせない」
「本性出したな。なんだよ、せっかくいい暇つぶしになると思ったのに」
「暇つぶしなら俺としましょうよ」
「おまえとは毎日会ってるしなぁ。刺激にならねぇよ」
「そんなこと言わないで。ね、俺と暇つぶししましょう? 刺激的なことなら得意ですよ」
鳳の手が宍戸の腹を思わせぶりに撫でる。
明らかに閨に誘おうとするその手の甲をつねった宍戸は、鳳の腕の中から抜け出して歩き出した。
「そういや庭の片付けがまだたっだ。おまえはテーブルクロス洗っておけよ。早くしないとシミになるからな」
「も~! 宍戸さんの淡泊吸血鬼!」
「うるせぇ! 血の気の多い幽霊のほうがよっぽど厄介だ!」
ダイニングを出ると、鳳が放った冷気が薄れ心なしか空気が暖かく感じられる。
宍戸は嫉妬深い恋人の駄々にため息と笑みをこぼし、日の落ちる寸前の薄暗い庭に繰り出した。
3
深夜の病棟。
非常灯が無機質な光を放っている廊下をほの白い影がゆっくりと横切っていく。
ふわふわと漂う薄い雲のような影は、迷うことなくまっすぐに進んでいった。
この病院にはお化けが出るらしい。
手術が失敗して死んだ霊だとか、志半ばで病に倒れた霊だとか、噂はいろいろある。
どれもこれもただのでまかせで信憑性のない作り話だが、入院患者だけでなく勤務している医療従事者の中にも噂を信じて怯える者はいた。
「まぁ、お化けってのは嘘じゃないか」
勝手知ったる通路を、空の手提げ袋を片手に歩くのは鳳だ。
幽霊である彼は普通の人間にははっきりと目視することができない。
声も聞こえないし、触れることも不可能だ。
一方で人ならざる者たち、たとえば宍戸からしてみれば、鳳はそこらへんにいる人間と変わらない。
見えるし、触れられるし、声も聞こえる。
ただ、著しく生気がなく、ものを食べず、まるで植物のようにそこにいるだけの存在。それが幽霊だった。
だから人間が寝静まった病棟でスキップしようが、大声で歌おうが、誰にも咎められることはない。
なんとなく何かがいる気配を感じる人間はいるかもしれないが、まさかご機嫌な調子で踊っているとは想像だにしないだろう。
「宍戸さんにごはんっ♪」
鼻歌交じりに進んだ廊下の突き当たりを左に曲がり、また突き当たりを右に曲がる。
鳳が真夜中の徘徊を楽しめば楽しむほど、廊下には冷気が這いだす。
非常灯が、電気の接触が悪くなったかのように不規則に点滅を繰り返しては、鳳が通り過ぎると元通りに灯るようになる。
本来幽霊は人間にとっての雑草のように害のない存在であるが、気分の高揚や激昂など、その精神状態によって発生する様々な現象は人間にとって恐怖以外の何物でもなかった。
急に冷え込んだりラップ音がしたり、電気が付かなくなったり体が重く感じられたり。
その原因である幽霊には何一つ悪気がなかったとしても、人間にとっては解明できない超常現象であり迷惑な話なのだ。
「ごっはんっ♪ ごっはんっ♪」
鳳が通った廊下のガラス窓が白く曇る。
慣れた道順を間違えることなく、鳳は目的の場所へ歩を進めた。
「ただいま帰りました」
明け方近くに鳳は館へと帰ってきた。
空っぽだった手提げ袋には病院から盗んだ輸血パックが詰められている。
帰還の挨拶に答える声はなかった。
鳳はまっすぐに宍戸の寝室に向かい、ドアを開けた。
ベッドに宍戸の姿はない。
鳳はベッドを横目に部屋の奥まで歩を進める。
ドアからはベッドが影になって見えないそこに、宍戸の棺はあった。
普段は開きっぱなしのこの箱のふたがぴっちり閉じられているということは、宍戸はこの中で眠っているということだ。
鳳は手提げをベッドの上に放ると、棺の傍らに両膝をついた。
音を立てないようにそっと覆い被さり、棺の蓋に冷たい頬を寄せる。
「起きたら、ごはん食べましょうね」
宍戸がおいしいと喜んでくれることが鳳の喜びだ。
「いっぱい食べて。俺の愛」
囁き、宍戸が眠る棺にキスをして、鳳は窓から朝日が差し込むまでずっと傍らに寄り添っていた。
4
晒された鳳の首筋を見下ろすとき、牙の根元が疼き唾液が溢れる。
食欲とは違うが、空腹のような乾きを感じるのは少し似ている。
二本の牙が青白い肌を突き破り、冷たい筋肉の繊維を切り裂きながら鳳を深く侵略していくとき、宍戸は吸血鬼だけが感じる官能を再認識する。
噛み付いた相手を、独占する。
滲み出る血は鮮血とはいいがたい。
味気なく、美味とはほど遠い。
それなのに、今夜もどうしてこうも宍戸を昇ぶらせるのか。
宍戸が鳳に牙を突き刺すのは食事のためではない。
二人の交わりに催淫というエッセンスを加えるためだ。
吸血鬼の牙は、噛みつかれた者の性的興奮を引きずり出す。
二人はセックスをするときに、ときどきこうやって遊んだ。
宍戸が鳳とセックスするようになったのは、単に暇つぶしがしたかっただけだ。
そのころは鳳に特別な感情を抱いてはおらず、単調な日々に刺激が欲しい、ただそれだけだった。
鳳には宍戸の誘いを断る理由はなかった。
恋しい相手からの願ってもない申し出だ。誘われたとき、止まっているはずの心臓が高鳴った。初めて触れた宍戸の肌は、やけどするくらい熱かった。
それから心を通わせるようになって、宍戸は恋人となった鳳とするセックスの醍醐味を味わっていた。
それでは飽きたらず、更なる刺激を求めるようになってしまったのは仕方のないことだ。
鳳とのセックスに不満があったわけではない。
それどころか良すぎたのだ。
だから、宍戸はその先を体験してみたくなった。
鳳に噛みつき、半ば強制的に情欲を引きずり出し、媚薬に酔いしれるようなセックスで貪り合う。
繋がれはするけれど実際の肉体を持たない鳳は疲れ知らずだった。
汗をかいたように見えても体の水分を失うわけではなく、精液が枯れることもない。
宍戸は何度も空虚の白濁に腹を満たされ、喉が乾けば鳳の血液を啜った。
そのときだけは、無味の血液が甘露となった。
「あぁ、あ……もう、腹、くるし」
鳳にありのまま肢体を曝す宍戸は、自身の汗と精液を吸ってしわくちゃになったシーツの上で大きく足を開いていることがやっとの状態だ。
唇から垂れる唾液には鳳の血液が混じり、とっくに精を吐き出さなくなったペニスは、鳳に揺さぶられるがままペチペチと頼りなさげに宍戸自身の腹を打つ。
もうどのくらい交わっているのか、時間の感覚がない。
太陽は何度昇り、沈んだだろうか。
鳳の首すじにはいくつも穴があいている。
深く突き刺された痕は二つだけ。
それ以外の穴の深さはまちまちで、セックスの最中に宍戸が切羽詰まって甘噛みした痕だった。
甘噛みと言っても、赤ん坊が生え初めの乳歯を痒がってするようなかわいらしさはなく、鳳を締め付け達しながらぢゅうぢゅうと血液を啜るのだから意地汚い。
だがそれがたまらなかった。
宍戸にとっても、鳳にとっても、これほど本能を剥き出しにして性欲を満たせる相手は他にはいない。
宍戸は鳳を手放すつもりはなかった。
鳳も、宍戸を手放すつもりは毛頭なかった。
「宍戸さんは不老不死だもん。おなかいっぱいで破裂しちゃっても、俺がきれいに縫ってあげますよ」
「ば……か、縫う前に、ふさがっちまうだろ」
「治っちゃうのがもったいないみたいな言い方。いいですね、すごく。もっといっぱいにしたくなる」
「あぁぁ、あ! いい、いい、もっと、ちょうたろう」
宍戸の腹奥を鳳の怒張がえぐる。
強く突き上げられる衝撃に体が跳び退けてしまいそうになるのを、鳳に腰を掴まれ阻まれる。
ペニスが出入りする感覚をすべて快感に変えて、宍戸はいとも容易く達し続けた。
「し、しどさ、んっ」
「あ、あぁ、ぁ」
一体いつから繋がったままだっただろう。
精液でいっぱいになった腹奥に、鳳は再び吐精した。
「わかります? いっぱい、出てるよ」
「また、あぁ、もう、ほんとに、やぶける」
腸壁を収縮させて鳳に絡みつく胎内。
その下腹は鳳の精液をため込んでうっすら張り出していた程度で、到底破けそうにはなかった。
だが宍戸にはそのくらい満たされたように感じられたのだ。
「そろそろ、抜きますよ」
「えっ」
「そんな残念そうな顔しないで。またすぐ入れてあげますから」
鳳のペニスがずるりと抜け出ていく。
青白い肌にそこだけ血が通ったかのような赤黒くグロテスクな楔は、宍戸のアナルから先端が解放されても腹に付きそうなほどそそり立っていた。
「宍戸さん、力抜いて」
鳳の手のひらが宍戸の下腹を撫でる。
快感に震えながら肩で息をしていた宍戸は、鳳の手のひらにゆっくりと腹を押されていく圧迫感にいやいやと首を振った。
「やだ、それ、やめろ」
「どうして? 一度空にした方が、もっと入りますよ」
「そういうことを言ってんじゃねぇよ」
「もしかして、恥ずかしいんですか?」
「っ、そりゃそうだろ!」
「恥ずかしくないですよぉ。俺がちゃんと見てますから」
鳳の手のひらが宍戸の腹をぐっと押し込む。
宍戸は抵抗しようと腹筋に力を込めた。
だが快感にとろけたままの体はまったく言うことを聞いてはくれない。
さんざん穿たれ弛んだアナルも、宍戸の意志通りに腹の中から出てくるものを押し留めてはくれなかった。
「や、あぁ、あ」
押し込まれるがまま、ぷちゅ、ぬちゅ、と聞き苦しい音を響かせながら宍戸の肛門から鳳の精液が勢いよく吐き出されていく。
強制的に排泄させられた精液がシーツを濡らした。
宍戸の頬が羞恥にカッと染まり、抵抗できない役立たずな体に憤っては瞳に涙を浮かべた。
「あぁ、たくさん出た。でもまだ全部じゃない」
「やめろっ、ぜんぶ、全部出たから!」
必死に伸ばした宍戸の腕が虚空を切る。
膝裏を押し上げられ秘部がさらけ出された次の瞬間には、鳳の唇は宍戸のアナルに口づけられていた。
「あ、ああ、っ、や、め」
じゅるじゅると品のない音を立てて、鳳が宍戸の腸内に残った精液を吸い出している。
ときたま舌が侵入し、残滓はないかと舐めしゃぶる。
気の済むまで吸い尽くした鳳が宍戸を解放する頃には、宍戸の体は再び絶頂を求め始めていた。
宍戸が鳳を見上げる。
その瞳を見つめながら、鳳はぱかりと唇を開け舌を出した。
吸い出した精液はどろっとした重さをもってシーツに垂れ落ちていく。
舌を伝って何本もの白い糸を引き、鳳が宍戸に排泄させた精液に混じりシーツを汚した。
白濁を吐き出しきった鳳は腕でぞんざいに唇を拭った。
「はい、おしまい。綺麗になりましたよ」
羞恥でも怒りでもない、純粋な性的興奮に頬を染めている宍戸を見下ろして、鳳は口端を引き上げた。
再び宍戸の腰を抱え、ヒクヒクと収縮を繰り返す蕾に挿入を果たす。
宍戸は息を詰めて鳳を根元まで飲み込み、眉根を寄せて深くため息をついた。
「はぁ……なんだっておまえはそう」
「あれ、もしかして本当にいやでした?」
セックスの合間の鳳の奇行には慣れている。
こんなふうに腹の中を掃除されるのも一度や二度ではない。
そのたびに恥ずかしさを覚えはするが、心からやめて欲しいと思ったことは一度もなかった。
吸血で始まるセックスは麻薬で、宍戸も鳳も本能の赴くまま相手を翻弄するだけだ。
愛情は確かにある。
そして、愛情だけではない強欲なまでの執着も、ある。
「長太郎」
宍戸が両腕を広げると鳳が抱きつく。
ずたぼろになった鳳の首すじに鼻先をつけると、恋しい幽霊の血の匂いが宍戸に空腹を覚えさせた。
「腹減った」
「俺の血、吸います? それとも人間の血でごはんにします?」
「そうじゃねぇよ」
鳳の腰に両足を巻きつけ、宍戸は唇を奪った。
舌を合わせれば、血と精液が混じり合う。
そのどちらもが鳳の味で、宍戸は体の髄が痺れるようだった。
「腹の中、からっぽにされたから」
「あぁそっか。じゃあまたいっぱいにしなきゃですね」
ぐっと大きくなったペニスを腸内で感じる。
また永遠に思える交わりが繰り返されるのだ。
何度も吐き出させられ、そして満たされる。
宍戸は鳳の背にしがみつき、来たる衝撃に心躍らせた。
鳳からもたらされるものすべてに悦んでしまう己の浅ましさが、今はとても心地よかった。
つづく