俺の住んでいるアパートの壁は薄い。
ちょっと大きな音で音楽を流そうものならすぐさま壁を殴られる。
夜中の静かな時間帯なんかは、隣の住人の足音すらも聞こえてくるくらいだ。
他人の生活音が気にならないといえば嘘になるが、そこまで繊細な神経のつくりをしていない俺にとっては、駅から近くて家賃も安いこのアパートは住めば都の好物件だった。
ただ一つ、ほんの一つだけ、困っていることがある。
最近、隣人に彼女ができたのだ。
どうしてそれを俺が知っているかというと、夜な夜な漏れ聞こえてくるからだ。
なにがって、ナニの声がだ。
隣人の彼女は大胆な人のようで、このアパートの壁が薄いのを知らないのか大きな声でよく喘ぐ。
それが丸聞こえなのだ。
隣人は壁が薄いことを知っているんだから注意すればいいものを……。
もしかしたら、それがわかっていてわざと声を出させているのかもしれない。
だとしたら、二人のプレイに巻き込まれている俺の身にもなってくれ。
他人の喘ぎ声なんてAVでしか聞いたことない俺にはいささか刺激が強すぎる。
健全な大学生なのだから溜まるものは溜まるし、出るものは出る。
顔も知らない隣人の彼女の声をオカズにしてしまった罪悪感があるから強く注意することもできなくて、俺の悩みは堂々巡りを繰り返していた。
そんなある週末。長太郎がうちに泊まりに来ることになった。
わざわざこんなボロアパートにくることないだろとやんわり断ろうとしたのだが、あいつの得意な他人に有無を言わせない笑顔で押し切られてしまった。
最近一人暮らしを始めた長太郎は、実家から出られた解放感からか俺とよく夜遅くまでつるむようになった。
飲みに行ったり、ファミレスで課題をしたり、カラオケでオールしたり。
むかしから仲のいい後輩ではあったけれど、最近まではこんな風に遊びに繰り出すことはそれほど多くはなかった。
テニスでの繋がりがなくなった今、長太郎とは友達のような関係を築きつつあるということなのかもしれない。
こんなに遊びまわれるのも大学生の特権、モラトリアムってやつなんだろう。
「来るのはいいけど、うちのアパートめちゃくちゃ壁薄いからな」
「大丈夫ですよ。静かにしてます」
そういって人好きのする笑顔で要求を押し通す。
まぁ、遊んだ帰りに寝に来るだけだろうから、一晩くらい泊めてやってもいいか。
だが不幸なことに、長太郎が泊まりに来た夜は隣人も同じく彼女を連れ込んでいたのである。
「宍戸さん」
「わかってる」
「だって隣から」
「わかってるから声抑えろ」
狭いベッドに男二人でぎゅうぎゅうになって寝ようとしたとき、タイミング悪いことに隣から例の声が漏れ聞こえてきた。
甲高く引きつっては、くぐもる。
ときどき鼻にかかって、甘ったるく気持ちいいと上擦る。
一部始終が薄い壁の向こうから聞こえてくるのだ。
「宍戸さんの部屋って、本当に壁が薄いんですね」
ひそひそと小声で話しかけてくる長太郎の吐息が耳にかかってくすぐったい。
「そんな近くで喋んなよ。くすぐってぇだろ」
「あっ、ごめんなさい。ていうか俺は床でもよかったのに」
「客をそんなとこに寝かせられねぇだろ。うちは客用の布団なんてねぇし」
「宍戸さんは相変わらず優しいですね」
「褒めてもなんにも出ねぇぞ」
「ケチ」
長太郎の脇腹を小突いたら、体をまるめてくつくつと笑っている。
この間にも隣からの声はやむことはなく、むしろ激しさを増していった。
「隣の人すごいですね」
「そうなんだよ、最近彼女できたらしくてよ。この通りお盛んってわけ」
「彼女かぁ。宍戸さんは彼女いないんですか?」
「いねぇって。おまえだって知ってるだろ」
「そうでしたね」
平静を装って長太郎と話しているが、いつもの癖が祟って下腹部が熱くなってくる。
えろい声を聞いてもなんともない長太郎の態度が信じられない。
だが、ここで俺が変に取り繕ってしまってはおかしな空気になってしまう。
それだけは避けたかった。
というか、友達の性欲なんていくら近しい仲だろうと、知ってしまっては気まずくなるだけだ。
『あぁぁん、やぁん、もっとぉ』
さっきまでより更にはっきりと声が聞こえてくる。
おいおいお隣さんよ。彼女の顔をこっちの壁に向けた体勢でヤリやがってるな?
「さすがにこれは恥ずかしくなりますね。目の前でセックスしているのを見せられてるみたい」
長太郎の口からセックスという言葉が飛び出たことに、妙にいたたまれない気持ちになった。
「おまえもセックスとか言うんだな」
「そりゃあ言いますよ。もう子供じゃありませんから」
「てっきり、そういうことには興味ないんだと思ってた」
「そういうことって?」
「なんつーか、えろいこと?」
「興味ありますよ。当たり前じゃないですか」
「そ、そうなのか」
あまりにもはっきりとものを言うので落ち着かなくなってしまう。
長太郎はこういう類の話題には乗ってこないものだと思っていた。
むしろ毛嫌いしていそうな潔癖さがあって、同世代の猿ような性事情からはどこか遠い場所にいるものだと勝手に想像していた。
けれど長太郎にも俺と同じように性欲があるなんて、よくよく考えれば当たり前のことだ。
虫を殺さないような顔をしていても、こいつも俺と同じくそこそこ若い男なのだ。
「宍戸さんは?」
「え?」
「宍戸さんはえろいこと、興味ないんですか?」
セックスの次は、えろいこと。
長太郎の口から発せられた言葉が頭の中にこびりつく。
太陽を見上げたときにまぶたの裏に残る影みたいに、なかなか消えてくれそうにない。
「な、ないわけねぇだろ。男なんだから」
「よかった」
「よかった?」
「宍戸さんはこういうこと、嫌いなんじゃないかって思ってたので」
体を横にして俺の方を向いた長太郎は、俺にぴったりとくっついて腹を触った。
急に触られた手を払いのけていいのかわからない。
金縛りにあったみたいに動けずにいる俺の腹をゆっくり撫でた手は、そのまま下へ下へと下って行く。
そしてその手は躊躇うことなく、俺の股間を包んだ。
「ちょ、長太郎!?」
「しっ! 隣に聞こえちゃいますよ」
「んなこと言って……つーかおまえ、なにやってんだよ!?」
「宍戸さんのここ、硬くなってますね」
「うわっ、やめろって、揉むなよ!」
「隣の声で勃起したんですか? 誰とも知らない女の人の声で? 悔しいなぁ」
「っ、な、にが」
やわやわと俺の股間を揉んできた手は、悔しいと言いながら服の中に侵入してきた。
やめさせようと腕を掴んでもビクともしない。
それどころか硬くなったものを上下に扱き始めて、俺は長太郎の手にもたらされる気持ちよさに意識を引きずられ始めていた。
「宍戸さんのって、こんな形してたんですね。一緒にお風呂に入ったことはあるけど、大きくなったのを触ったのは初めて」
「や、めろっ」
「俺の手、気持ちいいですか?」
「ふぅ、んっ」
「えっちな声。隣の女の人より、宍戸さんの声の方がよっぽどえっちですよ」
「ばか、言ってんじゃ、ねぇっ」
「ごめんなさい。宍戸さん、俺ね、本当は宍戸さんのことが好きなんです。ずっと好きだったんです。だからこんなにくっついて寝てたらえろい気持ちになっちゃうんです」
「はぁ!? なに、言って……」
「言わないつもりだったんですけど、なんか悔しくなっちゃって。だって宍戸さんにも性欲はあるんでしょう? ってことは、今まで隣の声を聞いて抜いたりしたこともあったんでしょう? 俺が宍戸さんのことを思い出しながらしたみたいに、隣の人のことを考えながらしたんですか? あんな、キンキンした声で宍戸さんが勃起してたなんて、悔しくて」
長太郎の手がきつく俺を責め立てる。
先走りが漏れているせいか、くちくちと粘り気のある音が聞こえてきて、恥ずかしさに目を開いていられなくなった。
そんな俺の耳元で長太郎はなおも小声で話し続ける。
吐息が耳に当たるたびに、うなじがぞくぞくした。
「ねぇ、宍戸さん、気持ちいいですか? ちゃんとイケそうですか? 俺の手を覚えていてくださいね。明日から会えなくなっても、宍戸さんが自分でするときには、俺の手を思い出してくださいね。俺も宍戸さんの感触をずっと忘れずにいますから。お願いです。お願いだから、イッてください」
「あっ、や、ちょ、たろ」
「っ! その声も、ずっと覚えています、から」
俺の耳に唇をつけた長太郎の声が、頭の中をぐちゃぐちゃにする。
隣の声なんて、俺にはもう聞こえていなかった。
長太郎が俺を呼ぶ声と、熱い吐息、それからどんどん速まる手の動きに翻弄されて、俺は声すら出すことも出来ずに精液を吐き出した。
長太郎の手のひらに受け止められる。
恥ずかしさを通り越して、もうどうにでもなれと諦めに似た感情で頭が冴えてくる。
まぶたをゆっくり開けると、目の前には泣き出しそうな顔で俺を見ている長太郎がいた。
じっと見つめ返すと、その瞳が俺から逃げるように伏せられる。
涙は零れていなかった。
「ごめんなさい。もう、宍戸さんの前には現れません」
「……」
「ずっと、ずっと、好きでした」
俺のことを好きと言いながら、ついに長太郎は涙を流した。
「好きなら何してもいいのかよ」
「ごめんなさい」
「謝ったら許されると思うなよ」
「はい。許されないことをしてしまったのは、わかっています」
「はぁ……おまえなぁ、こんなことするまで思いつめてるなら先に言えよ」
「言えるわけないじゃないですか。俺が、宍戸さんのことを好きだなんて」
涙声が部屋の空気を湿らせる。
いつの間にか、もう隣からの声は聞こえなくなっていた。
「明日からもう会えないなんて言うなよ。こういうことをしたいって意味かどうかはともかく、俺はおまえといるのが好きなんだから」
長太郎との関係が一方的な恋愛感情によるものだったとしても、それを理由に離れる必要があるようには思えない。
長太郎のしたことは世間的には許されないことかもしれないが、果たして俺の心が拒んでいたのかと問われたら、そうではないと言える。
驚きはしたが嫌悪感はなかった。
優越感があったことも認める。
可愛がってきた後輩に泣きながら好きだと言われたら、たとえ恋愛対象ではない相手だったとしても心揺さぶられるものだろう。
「俺は、これからも宍戸さんに会いに来ていいんですか?」
「いいに決まってんだろ」
耳元でぐじゅぐじゅと鼻をすする音が聞こえる。
明日から俺たちの関係がどう変わっていくのかはわからない。
変わらないかもしれないし、なにかが変わっていくのかもしれない。
そんなこと、今考えたって詮無いことだ。
とりあえず、こんな壁の薄い部屋は早々に引っ越さなければと強く心に誓った。