夏祭り

起きてすぐにベランダのミニトマトに水やりをしているとどこからか祭囃子が聞こえてきた。そういえば数日前に夏祭りのポスターを見かけた気がする。確か開催場所は近くの神社。宍戸さんを起こすついでにそのことを話したら散歩がてら行ってみようということになった。この部屋に越してきて初めての夏だ。なんの準備もしていなかったから普段着で出かけることになったけれど、来年は浴衣を用意して一緒に歩くのも良さそうだ。
「今日って川沿いで花火大会もあるんじゃなかったか?」
「そうでしたっけ? この時期はいろんなところでお祭りやってますもんね」
「夜はそっちも見に行ってみるか」
「いいですねぇ」
そんなことを話しながら歩いていたら頭にお面をつけたこどもたちとすれ違った。
「懐かしいな」
「宍戸さんも小さいころは買ってもらったりしたんですか?」
「よくあいつらと同じヒーローのお面を取り合って喧嘩してた」
幼馴染みの二人のことを言っているんだろう。宍戸さんと仲のいい先輩たちは、三人だけの思い出をたくさん持っている。俺が知ることのできないその思い出たちは、きっとあのこどもたちの瞳のようにきらきらしているに違いない。
「うらやましい?」
「え?」
「お面。おまえも欲しい?」
あの二人に抱いた嫉妬心を見透かされたのかと思って心臓が跳ねた。
「もう、こども扱いしないでください」
「はは」
似合うと思うけどな、と宍戸さんは横顔で笑った。



境内の屋台を一通り見て歩いたあと、人波から逃れ近くの公園で休憩することにした。
真っ青な空には形のくっきりとした雲が浮かんでいる。強い日差しに照らされた遊具は、黄色やピンクが本来の色味を強調され極彩色に輝いて色鮮やかだ。それなのに大人もこどももみんな夏祭りに足を運んでいるのか人っ子一人いない。
公園の端で立ち並ぶ木々のそばに置かれたベンチは、色濃い陰ですっぽり覆われていて涼しそうだ。並んで腰掛け屋台で買ったアイスキャンディーを舐めていると、背後の木にとまった蝉が大きな声で鳴き始めた。振り返って見上げても木肌の色に紛れた蝉はすぐには見つけられない。
「あっちぃ」
宍戸さんのこめかみから流れた汗がほっぺたを伝う。横目に滴の行方を追えば、あごの輪郭を沿って、さぁ垂れ落ちるぞ、というときにその手の甲に拭い払われてしまった。
「暑いですねぇ」
硬いアイスキャンディーを噛み砕く。メロン味に冷やされた歯がツンとしみた。
夏だ。
ラケットから腕に伝わる衝撃も、コートを満たす声援も、真剣勝負に肌がチリつくこともない、何度目かの夏。
雲の流れが遅い。
頭の中でハウリングする蝉の声と祭囃子がじわじわと俺の感覚を麻痺させていく。
まとわりつく湿気が呼吸を鈍くさせる。
呆然としていた俺は、宍戸さんの顔が近づいてくる気配に意識を引き戻された。
はっとするのと同時に耳たぶにひんやりとしたものが触れる。
それはアイスキャンディーに冷やされた宍戸さん舌だった。
耳の縁をゆっくりなぞって、甘く噛みつかれる。
「っ」
されるがまま息を詰めた俺の耳元で、宍戸さんがふっと笑むのがわかった。
「涼しくなった?」
「余計、暑くなりました」
立ち上がった宍戸さんは俺を見下ろして口端を引き上げた。
「じゃあ涼しいところに帰るかぁ」
食べ終えたアイスキャンディーの棒をタクトにして、調子を取るようにゆらゆら振りながら宍戸さんは歩き始める。俺は溶けかかったアイスキャンディーを全部口のなかにおさめてからその後を追った。
「暑いの、嫌いじゃないですよ」
追い付いてTシャツの裾を引けば楽しげな瞳に見上げられ、また俺を置いて歩き出す。
「俺も、暑いのは嫌いじゃないな」
「だったら」
「うん?」
「ちょっとだけ、暑くなることしませんか」
三歩前を行く宍戸さんが立ち止まって俺を振り返った。
「ちょっとだけ?」
「…もうちょっと、暑くなるかも…」
ふはっと息を漏らすように笑った宍戸さんは早く来いとあごを上げた。
「いいぜ。涼しいところで暑いことしよう」
アイスキャンディーの棒で指揮を執る宍戸さんの隣に並んで少し歩けば、俺たちの住むマンションのエントランスが見えてくる。
「花火が見れるかはおまえ次第かな」
部屋までついてくる蝉の声と祭囃子にも、宍戸さんの声は溶けなかった。