ぼふん、と頭まで被っていた夏布団が潰される音とともに体に重みを感じて目が覚めた。顔を出してみると頬に濡れた髪の毛が触れる。風呂上りの石鹸の匂いをさせた長太郎に布団ごと抱き込まれて身動きが取れずにいると、
「ごめんなさい」
と、くぐもった声がした。
「俺も、ごめん」
まだ眠気を含んだぼやけ声で答えれば、長太郎は一層強く俺を抱きしめた。
「宍戸さんに、わかってもらいたかっただけなのに」
「うん」
「ひどいことを言ってしまいました」
「俺が言わせたようなもんだ」
「そんなこと」
「そうなんだよ」
カーテンの隙間から射し込む光はまだ暗闇を含んでいて、夜と朝の境目が部屋を満たそうとしている。
身動ぐと、長太郎は腕を緩め項垂れたまま体を起こし俺から離れた。剥いだ布団がベッドの端から滑り落ちる。向かい合えば、濡れた髪から滴ったのかはたまた涙か、雫がひとつシーツに染み込んだ。
「仲直り、しようか」
冬の季節はとっくに過ぎたのに、今すぐ触れないと洗い立ての体が冷えてしまいそうな気がした。でも触れた肌は当たり前だけれど温かくて、ほっと胸を撫で下ろした分だけ、自分がこの数時間どれだけ長太郎の帰りを待ち焦がれていたのかを痛感した。
事の発端はつまらない言い争いだった。長太郎のアパートに帰る途中、その日一緒に参加した大学の飲み会で俺が先輩に言い寄られていただとか別のテーブルのやつが俺に熱視線を送っていただとか、大部分は長太郎の勘違いとしか思えない非難を浴びせられて辟易した俺は酔いの勢いも手伝ってきつい言葉を叩きつけてしまった。
「いい加減にしろよ。なんで身に覚えのないことで俺がアレコレ言われなきゃなんねぇんだ」
「宍戸さんは自覚が甘いんですよ! いつも言ってるのに全然聞いてくれない。もっと警戒してください」
「ただの飲み会でなんで気ぃ張る必要があるんだよ。おまえにとやかく言われる筋合いはねぇ」
「なっ…! 俺は宍戸さんのためを思って」
「俺のためを思うんならゴチャゴチャ言うのやめろ」
めんどくせぇ、と苛立ちをアスファルトに吐き捨てるように口にすれば背後で長太郎が歩みを止める気配がした。しまったと思った時には遅かった。長太郎は俺がめんどくさいと言って対話を完結させようとするのをいやに嫌う。振り向いてみれば、拳をぎゅっと握った長太郎がまっすぐに俺を睨みつけていた。
「…めんどくさいってなんですか」
「わりぃ、言いすぎた」
「本気で悪いって思ってないくせに謝るふりするのはやめてください」
「…あ?」
瞬間沸騰器とまではいかないが気が長い方ではないことは自覚している。長太郎の言葉に臨戦態勢となった俺は突き付けられる視線をはじき返さんばかりに睨みつけた。
「俺の気持ちなんて何にもわかってないくせに」
「じゃあおまえが俺の気持ちを全部わかってるって言うのかよ。わかるわけねぇよな。わかってたらこんなどうでもいいことで喧嘩になんかからねぇもんな」
「どうでもいい? 宍戸さんにとってはどうでもいいことなんですか?」
「ああ、どうでもいい! いちいちめんどくせぇんだよ、おまえは」
「まためんどくさいって言った! ああそうですか、もういいです! 知りませんよ宍戸さんなんて! 宍戸さんなんか、宍戸さんなんか…」
「なんだよ、はっきり言えよ!」
長太郎は涙をためた瞳をキッと鋭くして、歪めていた唇を開き言い放った。
「宍戸さんなんか、だいっきらいです!」
裏返った叫び声が真夜中の住宅街に響き渡り驚いて目を丸くした俺とは対照的に、つらそうに伏せられた双眸からは雫がはらはらとこぼれ落ちた。
びっくりした。喧嘩をしたことは数えきれないほどあるけれど、人がいるかもしれない路上で声を荒げる長太郎は初めてで、その口から「嫌い」という言葉が発せられた事実に熱くなっていた頭が一気に冷え切っていくのを感じた。明らかな拒絶の言葉。はずみで言ってしまったにしては積もり積もった不満を吐露したような覚悟を決めた表情をしていたから、みぞおちのあたりがざわめいて喉がひりついた。
「ちょ、長太郎…?」
俺に背を向けた長太郎は腕で涙をぬぐって鼻をすすった。伸ばした手のひらは空を切って長太郎に届かない。
「少し、一人になりたいんで先帰っててください」
「でも」
「もう終電ないし、宍戸さん自分ち帰れないでしょ。合鍵で勝手に入ってくれていいんで」
涙声が夜に溶けて、長太郎は今来た道を戻っていく。その背中がついてくるなと言っていて、俺は遠ざかっていくあいつを見つめたまま呆然と立ち尽くした。
長太郎の部屋に着いてからも動揺は拭い去れなくて、シャワーを借りて置きっぱなしにしている自前のTシャツとハーフパンツに着替えたあとは何をするでもなくベッドに寝転んでいた。あいつは帰って来るだろうか。帰ってきたらまずなんて声をかけたらいいのだろう。迎えにいくべきだろうか。だがどこにいったか見当がつかない。そして狼狽える心を隠すように布団くるまってじっとしていたら、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
頬張った長太郎の陰茎が硬くなるにつれて、徐々に口のなかがいっぱいになっていく。溢れ出る涎をそのままに唇で甘噛みしながらゆっくり頭を上下させると、頭の上で息を詰めたため息が聞こえた。
「ここで待っていてくれなかったら、どうしようって、っ、怖かった」
「んぅ」
「ごめ、なさい、俺が、めんどくさい、やつだから」
「そんなわけない」
咄嗟に口を離したせいで垂れた唾液があごを伝う。手の甲で拭いながら四つん這いのまま顔を上げれば、眉尻を下げた長太郎と視線が交差した。
「おまえは、めんどくさいやつなんかじゃない」
「でも」
「おまえが言いたいことを、俺にしてほしいことを、ちゃんと汲み取ってやれない俺が悪い」
「違う、宍戸さんは悪くないんです。俺が嫉妬深いのが、いけないんだ」
シーツに転がっているボトルをとってローションを手のひらに垂らした俺は、長太郎に跨がって後ろ手に後孔の周りに塗りたくった。回された腕に腰を抱かれ、尾てい骨に指先が這う。ぞくりと背すじをよじ登る快感にふぅと息を吐きながら、中指を差し込んで腸壁に潤滑油を塗りつけるように出し入れを繰り返せば、ぬちゃっと粘着質な水音が響いて柔らかく拓かれていった。
「っ、俺たちには、もっと、会話っつーもんが、必要なんだ。わかってるのに、俺が、…んっ、そういうの、得意じゃねぇから、おまえを不安にさせてる」
「宍戸さん…」
「んぅっ、もう、いいか」
熟れた蜜壷に亀頭を導いて、ゆっくり腰を落としていく。硬さを飲み込みながらその熱さに再び安堵する。長太郎の温度を感じていないとだめになってしまうんじゃないかなんて、弱気なことを思ってしまったのはなかなか明けない夜に焦れたせいだ。
「あっ、あ、っ、ふっ」
「ししどさ、ん、無理しないで、俺が動き、んむっ」
腰を掴む両手を絡め取って、言葉ごと唇を奪いとる。開いた歯の間から舌を滑り込ませて捕まえた舌先を擦った。律動するたびに繋がったところからローションが溢れ出る音が淫らで、繋いだ手では耳を塞げないから代わりにわざとリップ音を立てて舌を捏ね唇を吸った。
罪滅ぼしがしたかったわけじゃない。セックスを謝罪に使いたかったわけでもない。ただ、なかで張りつめる怒張を追いたてるように腰を振って、長太郎の一番傍に俺がいることを確かめたかっただけなのかもしれない。
「待って、ちょっと、もう、出そう」
「このまま、あっ、出しても、いい」
「だめ、んぅ…っ、くっ、それは、だめ、ですって、ば」
腰を上げたタイミングで倒れこんできた上体に押され、シーツに背をついた拍子にペニスが抜け出る。離れていった両手で器用にコンドームを被せた長太郎は、足の間に入って俺の腰を引き寄せた。性急に突き入れられた衝撃で背がしなる。シーツを掴む両の指は長太郎に絡み取られ、繋いだまま頭の上で縫い付けられた。
「俺だけなんて、そんなのいやです」
「んあっ、やめ、つよいっ」
「一緒に、気持ちよく、なりたいんです」
上半身の肌と肌を擦り合わせるようにして長太郎は俺のなかを穿った。二人の皮膚に挟まれ、どちらともなく噴き出た汗が合わさって伝う。自分でコントロールできない不自由さに反して、俺の体は先ほどまでとは比べ物にならないくらいに悦び高まっていった。
「与えてもらうばっかりじゃ、いやなんです」
「っ、じゃあ、くっ、…こたえろ」
「え?」
「俺のこと、まだ、ちゃんと、好きか」
刹那、最奥まで貫かんばかりに腰を打ち込まれて声を失う。息を吸い込むと反らした喉が震えて切羽詰まった音を発した。揺さぶられるたびにせり上がってくる焦燥に耐えられそうにない。いつ弾けてもおかしくない快感でいっぱいになりながら長太郎を見上げれば、同じく必死に絶頂の淵で踏みとどまる瞳が俺を射ぬいた。
「好きです! 大好きです! っ、ずっと、宍戸さんが、大好きです…っ、っ!」
ほぼ同時に達した俺たちは体を跳ねさせて精を吐き出した。なかで震える長太郎を感じながら射精すれば、不思議と満たされ胸の辺りがうずきだす。なりふり構わず抱き締めたいと思った。けれど、酸素を取り込もうと弾む胸を合わせたまま首もとに吐き出される荒い吐息と握り返される両手の熱さを、どうして手放すことが出来ようか。
息が整って体を起こした長太郎は、繋いだ手を離すことなく俺を引っ張り起こした。その表情はいつもの長太郎らしく柔らかくほどけている。
「今度から仲直りするときは手を繋ぎましょう。そうすれば俺たち、きっとまた素直になれます」
ね、と少し首を傾けて見せた長太郎の笑みで、俺は長い夜の終わりを感じていた。