朝のはじまりはきみ

久しぶりに激しく衝突した。
お互いに虫の居所が悪かっただけの実のない喧嘩だ。たしかきっかけは俺が宍戸さんの呼びかけに返事をしなかったなんて、そんな些細なこと。俺にとっては些細なことでも、宍戸さんにとっては癪に障るようなことだった。俺は買ったばかりの本に夢中になっていて、宍戸さんは俺からの反応が欲しかった。「聞こえてんのかよ」「ちょっと、あとにしてください」「あっそう。もういい」「もういいってなんですか。あとにしてくださいって言っただけなのに」そこからは売り言葉に買い言葉で引っ込みがつかなくなった。何年も前の出来事を持ち出して俺の悪いところを指摘する宍戸さんと、同じく解決したはずの問題を重箱の隅をつつくみたいに掘り起こす俺。鬱憤をぶつけ合ってどこにも帰結しない言い合いは、宍戸さんが無言で寝室にこもってしまったことで一旦終了した。
そして一晩明けて今朝、俺たち一言も口をきかず、いつもは駅まで一緒に行くのにわざと時間をずらして家を出た。
さっさと謝ってしまえばいつもの日常に戻れるとわかっているはずなのに、そんな簡単なことが俺たちには出来なかった。
たとえば、それぞれ主張があって打開策を探るために意見をぶつける喧嘩であったならば、根底にはお互いを想い合う気持ちがあることを理解しているから謝罪の言葉だって繰り出しやすかっただろう。
しかし今回のはただイライラをぶつけただけ。発散のために傷つけあっただけの言い争いだ。
何年も一緒に過ごしているとその違いを互いにわかっていて、だけど俺たちにはまだ柔軟になりきれない未熟さがあるから、どちらも自分は悪くないという気持ちが心のどこかにあってごめんっていう一言がなかなか言えなくなってしまう。
先に家を出た宍戸さんの姿はもう見えない。車道を通り過ぎる車の音がいつもより尖って聞こえるのは、まだ苛立ったままの自分を引きずっているからかもしれない。
昨日の喧嘩を反芻しながらひたすら駅までの道を急ぐ。胸にもやもやと居心地の悪さを感じつつ、アスファルトに落ちた自分の陰を踏みつけた。

一日の仕事が終わり最寄り駅についたころには夜の九時を過ぎていた。路線が混じる駅前はこの時間でもまだ多くの人でごった返している。
この時間だと、すでに宍戸さんは家に帰り着いている頃だろう。今朝のことが引っかかりまっすぐ帰る気になれなくて、改札を出て少し歩いたところで呆然と佇んでしまった。
もともと怒りの感情があまり長続きしないタイプだ。俺は今朝の自分の憮然とした態度を悔い始めていた。
昨夜ソファーで眠った俺は、朝になり宍戸さんが寝室のドアを開けた音で目覚めたけれど狸寝入りを決めこんだ。リビングに入ってきた足音が近くで一度止まって、額を埋めるようにくっつけていたソファーの背が少しだけたわんだ。宍戸さんが手をついたんだ。そして俺をのぞき込んでいたんだと思う。何か言おうとしていたのかもしれない。けれど寝起きのせいで狭量な器がいつもよりさらに狭くなっていた俺は、それに反応するほんの少しの思いやりでさえ持つことが出来なかった。
あのとき謝らなくとも、ただ一言「おはようございます」と言えていればこんなに気まずい思いはしなかったかもしれない。
どうしていらない意地を張ってしまったのか。昨日吐いてしまった暴言の数々がすべて宍戸さんの記憶から消えてくれたらいいのに。後悔はだんだん羞恥に変わり、縋る思いで星の見えない夜空を見上げた。
視界の端では居酒屋やカラオケ店の看板が突き刺すように煌々と光を発している。その中にネットカフェの文字を見つけた。さながら街灯に群がる羽虫のように店の入口に吸い寄せられる。前に一度利用したことがあるから勝手は知っていた。ここで映画一本分くらい時間を潰すのはどうだろう。名案だ。遅い時間に帰れば宍戸さんは眠っているだろうし、寝ている人とは喧嘩にならない。まだお互いが火種になりうる可能性が残っている状況で、わざわざ油を注ぎあうことはないと思った。
一緒に住んでいるとこういうときに少し困る。クールダウンするために距離を置くことも出来ないし、生活していればいやでも顔を合わせなければならない。喧嘩しないことが一番だとわかっているのだけれど、恋しく思っていても別々の価値観を持った人間同士、衝突してしまうのは避けられないみたいだ。
帰ったらまず宍戸さんの寝顔に謝ろう。そして明日の朝はちゃんとおはようって言おう。
心の中で決意を固め、受付を済ませた。自分のブースに向かう途中で映画のDVDが並んでいるコーナーに立ち寄る。割と最近のものまで取り揃えているようだ。アクションからラブストーリーまで、国内外に問わずありとあらゆる作品があいうえお順に陳列されている。
その中のひとつ、見覚えのあるパッケージの前で足を止めた。
「これ……」
懐かしさに思わず手に取ってしまったのは、魔法学校が舞台のファンタジー映画。
あれはまだ宍戸さんと付き合うようになる前、高等部に進学したての頃だったと思う。宍戸さんと二人きりで映画館に行った。本当はテニス部の何人かで行く予定だったんだけれど、一人、また一人と別の用事が出来てしまい結局残ったのは俺たち二人だけだった。当時、すでに宍戸さんに告白をしてしまっていた俺は思いがけず舞い降りたデートのチャンスに浮かれた。きっと宍戸さんには俺の考えていることがバレていたと思う。それでも映画を観に行く予定をキャンセルしないでくれたのはただの気まぐれだったのかもしれないけれど、暗い映画館の中で隣に座っている間は宍戸さんを独り占めしているようで心が躍った。手を握れたわけでも何かが進展したわけでもなかったけれど、学校の外で、しかもテニス以外のことに二人の時間を費やす経験ってあまりなかったから、それだけで俺にとっては特別な思い出になったのだ。
棚にはDVDに並んでブルーレイディスクも置いてあった。あの時は隣の宍戸さんのことばかり気にしていたから内容はうっすらとしか覚えていない。今から見始めれば終わる頃には深夜に差し掛かっている。時間的にもちょうどいい。どうせならきれいな映像で観てみよう。ブルーレイディスクの方を一枚手にとって、ブースに向かおうと映画のコーナーを出た。
通路で自分のブースがある方向を確認していると、今し方受付に来た新規の客と店員のやりとりが聞こえてきた。
その声に耳を疑う。小声ではあったが俺の鼓膜を震わせるのは聞きなれた彼の声だった。
「まさか」
確かめようと店の入り口に足が向かってしまう。受付の前に立って用紙に記入しているスーツ姿は、紛れもなく仕事帰りの宍戸さんだった。
「あれ、長太郎?」
人に見られている気配を察知したんだろう。パッと顔を上げた宍戸さんは俺の姿に驚いて目を丸くした。
そして俺が手に持っているディスクに視線をやると受付に向かって
「やっぱりペアシートありますか」
と言った。
店員は手慣れた様子で淡々と業務をこなし、流れるようにブース番号の割り振られたレシートをフォルダに留めて宍戸さんに渡した。その一部始終を立ち尽くしたまま眺めていた俺を、宍戸さんは手招きして呼んだ。俺の足は無条件に宍戸さんに向かうようにできている。
「宍戸さん、あの」
「それ、一緒に見ようぜ」
「え?」
「その映画」
「でも」
「いいから」
俺の手からディスクを抜き取ると、宍戸さんは迷いのない足取りで通路を進んだ。
まさかこんなところで出くわすとは思いもよらなかった。どうして宍戸さんもここに居るんだろう。もしかして俺と同じように昨夜のことを気まずく思っていたんだろうか。だとしたら互いに互いを避けていたわけだから複雑な心境ではあるけれど、俺に対して強気でいていいはずの宍戸さんがこの場所を逃げ場に選らんだという事実が、思考回路が似てきた証しに思えて俺を喜ばせてしまう。
「違う違う」
なにを馬鹿なことを。昨日の喧嘩がなかったことになったわけではないんだ。ぬぐえない気まずさと一緒に、一度もこちらを振り返らずに歩く宍戸さんの背中にもどかしい気持ちが膨らんでいった。
通路を曲がって少ししたところで宍戸さんは足を止めた。手元のレシートと見比べてブースの番号を確かめると、一度もこちらを見ることなく入っていった。
ペアシートはその名の通り二人で利用できるブースだ。テレビとパソコンとゲーム機、それからクッションが二つ。フラットな室内で楽に足を伸ばすことが出来る。
奥に陣取った宍戸さんは足を崩して胡坐をかいていた。靴を脱いで上がりこみ、その隣に正座する。
「なんで正座してんの」
「だって」
俺たち喧嘩中なんですよ?
まだ謝ってもいないし謝られてもいない。昨日さんざん傷つける言葉を浴びせてしまった後悔で胃がぎゅっと締めつけられたままだ。
宍戸さんはテレビの電源を入れてディスクをセットした。日本語吹き替えを選択して再生すると、ややあってテレビ画面に配給会社のロゴが浮かび上がった。
「ん」
言葉少なに手渡されたのはヘッドホンだ。個別に仕切られた部屋だが天井部分が開放されているから大きな音は出せない。もちろん会話も声をひそめる必要がある。
ヘッドホンからはかすかにオープニングテーマが聞こえてきた。映画はすでに始まってしまっている。手の中のヘッドホンをじっとみつめたまま耳につけようとしない俺に、宍戸さんは何も言わなかった。
やっぱり、あやふやなままにしておくのはよくない気がする。静かにしなければならない空間だからといって、言うべきことを何も伝えずにいていいわけではないと思った。
謝ろう。まずはごめんなさいと、俺から先に言うべきだ。
けれど顔を上げて口を開いた俺の視界は、一瞬のうちに宍戸さんの顔でいっぱいになった。
唇に感じる宍戸さんの体温。キスされたんだと気付いたのは宍戸さんの唇が離れていったあとだった。
「え、あの」
「ごめん」
まだ唇同士が触れ合いそうな距離で、宍戸さんは俺だけに聞こえるくらい小さな声で言った。
「お、俺も」
慌てて謝ろうとしたのに、俺の耳は手の中にあったはずのヘッドホンを宍戸さんにつけられすっぽり覆われてしまった。聞こえてきたのは映画の冒頭、主人公が入学案内を受け取るシーンだ。なおも言葉を発しようとすると、宍戸さんはしーっと唇に人差し指をあてて声を出すなと俺を制した。そして自分の分のヘッドホンをつけてテレビに向き直ってしまった。宍戸さんの耳にも、俺の耳に聞こえているものとまったく同じものが聞こえている。これでは俺の声は届かない。横顔が映画を観ろと言っていて、開きかけたままの口を閉じるしかない俺は同じくテレビに向かい足を崩した。
映画のストーリーではこれから主人公が学校で学びながら友達との絆を深め、冒険に身を投じることになる。キャラクター達は感情豊かに生きていて、当時は同年代だったはずの彼らがやけにキラキラして見えた。
俺もあんな風に日々を謳歌していたんだろうか。今も変わらず隣にいてくれるこの人は、俺と過ごした日々を懐かしんでくれるだろうか。あの頃、映画館で宍戸さんの隣に座った俺は心だけがふわふわ浮遊していた。時は過ぎ一緒に暮らすようになったけれど、果たして地に足をつけて宍戸さんと向き合えるようになったと言えるのか、ときどきわからなくなってしまうのだ。未だに大人になりきれずに、いらない喧嘩で大好きな人を傷つけて、落ち込んで、きちんと謝ることもしないまま許されて、それで本当に隣にいる意味があるのだろうか。
胡座のまま背もたれにもたれかかった宍戸さんの隣で、膝を抱えて小さくなる。
空気の淀んだ裏路地のような、鬱々とした気持ちの俺を置き去りにして、物語は進んでいった。

心ここにあらずの俺だったが、二時間が経過する頃にはいつの間にか映画に没頭していた。大まかな内容しか覚えていなかったからほぼ初見のようなものだったし、ヘッドホンをつけていると雑音を拾うことなく役者の演技や音楽に集中してしまう。
クライマックスを前に物語は盛り上がりを見せた。主人公とその仲間が悪役のキャラクターと熱い戦闘を繰り広げる。主人公が放った魔法で悪役が怯んだシーンで思わず体がビクッと跳ねた。子どもみたいに興奮してしまって気恥ずかしい。誤魔化しついでに座りなおそうとしたら、左肩が宍戸さんの右肩に当たった。ハッとして即座に居住まいを正してしまうのは、未だに染み着いている後輩の性だ。狭いブースの中で大の男が二人。少し身じろぎすれば肩が触れてしまうような距離。すみませんと謝ろうとしたけれど、声を出したところでヘッドホンをしたままでは聞こえないことを思い出した。
やっぱり、きちんと謝れていないうちは気安く触れてはいけない気がする。たとえ宍戸さんがさっきのキスを仲直りのキスのつもりでいたとしてもだ。
少し、おしりをずらして宍戸さんから距離を取った。そんなに離れたわけではないけれどこれで肩は触れ合わない。
画面では戦闘の決着がつきそうという最高潮のシーンだった。しかし、目は映像を追い、耳は音楽とキャラクター達の会話を聞いているのに、意識は完全に宍戸さんに向いていて話の内容なんかちっとも頭に入ってきてくれない。体の左側半分がそわそわして落ち着かなくて、思い出の映画なのに早く終わって欲しいと思ってしまった。
そのとき、膝を抱えていた俺の左手に宍戸さんの右手が伸びてきた。引っ張られ、腕ごと体が傾く。勢いのまま宍戸さんの肩に俺の肩がぶつかった。咄嗟に離れようとしたら、手を繋ぎ直され強く握られた。
離れるな。
そう言われているみたいだった。
どうして、と考えるよりも先に、俺はその手を握り返していた。するとまた強く握られて、喉のあたりがきゅっと詰まった。泣きそう、と思った瞬間にはもう視界がぼやけていた。
ほっとしたんだ。こんな喧嘩は今までだって何度もしたことがあるし、お互いに、別れるとか家を出て行くとか、そんなつもりは微塵もないし大それた事態に発展することはないということをわかっている。けれどやっぱり悲しくて、やりきれない気持ちで苦しくて、好きだって言いたくて、好きだって言って欲しくて、そしてすごく寂しかった。
宍戸さんとの喧嘩は、二人で居るのにひとりぼっちになるみたいな孤独を俺に味わわせる。だから、強く手を握ってくれて、隣に居ろって引き寄せてくれて、宍戸さんとの繋がりを俺に思い出させてくれて、ああ、居ていいんだってほっとしたんだ。
ぽたぽた、涙をこぼし始めた俺をのぞき込んできた宍戸さんと目があった。困ったように笑って、もう一度キスをしてくれた。今度はゆっくり深呼吸するくらいの長さで、宍戸さんの唇の柔らかさと温かさ、それと少しかさついた質感もわかるくらいの触れ合いだった。
俺たちはエンドロールが終わるまで手を繋いでいた。あの日夢に見たシチュエーションは、数年の時を越えて叶えられた。

玄関のドアを閉めて、先に仕掛けてきたのは宍戸さんだった。ネクタイを引っ張られ前のめりになった俺の唇は湿った舌にべろりと舐められた。すかさず伸ばした舌で掴まえる。俺の首に回された腕。その強さと同じだけ宍戸さんを抱きしめて、押しつけるようにして舌の表面を擦り合わせた。
言葉はいらない。何度も喧嘩と仲直りを繰り返してきた俺たちは、キス一つでお互いの考えていることがわかるようになった。宍戸さんも俺も、「ごめん」と「好きだ」を言葉よりも肌の温もりで伝えたかった。単純だなって思うけれど、でもこの二つの気持ちがあれば仲直りって十分成立するんじゃないかな。どちらかの気持ちが欠けているときはいつまで経ってもギスギスするし、言葉で謝ってみたところで溶けきらなかったココアみたいにわだかまりが残る。触れ合うってことは、触れることを許し許されるってことだから、俺たちが触れたいっていう意志と触れられたいっていう意志をちゃんと持ち寄らないといけない。そこには思いやりとか尊重だとか、自分本位で居ては決して生まれない感情があって、だから触れ合いたいって思うとき、俺たちはお互いに愛情を向けているって実感出来るんだと思う。
口づけながら靴を脱いで、もつれ合いながら廊下を進んだ。二人、真っ暗な寝室に入るときにジャケットを脱ぎ捨てて、ベッドに乗り上げるときにベルトを引き抜いた。ネクタイに指をかけて宍戸さんに覆い被さったら、後頭部に回された手に引き寄せられて俺たちはまた舌を絡めた。
静かな部屋に、呼吸と衣擦れの音だけが響く。
ネクタイを引き抜いてワイシャツのボタンを外した。片手だろうとこれくらい造作もない。性急に服を脱ぎ散らかすのはこれが初めてじゃないから。
宍戸さんの舌先を吸ってから体を起こしてシャツも脱ぎ捨てる。宍戸さんは仰向けのままネクタイを解いて、シャツのボタンをひとつひとつ外しにかかった。シャツの裾がスラックスから出てしまっていて、前の方が少し膨らんでいる。伸縮性のない布地に押さえつけられて窮屈そうな宍戸さんの性器がかわいそうで、ファスナーを下げて下着ごとスラックスを脱がせようと手を掛けた。勝手知ったるなんとやら、宍戸さんは少し腰を上げて脱がせるのを手助けしてくれる。両足から引き抜けば、脱ぎかけのワイシャツと靴下を身につけたままの宍戸さんが俺を見上げていた。
何度、目にしてもたまらない気持ちになる。自分は偏った性癖をもっているとは思っていないけれど、なんというか、脱ぎかけの不完全さって全裸よりも刺激が強い気がする。もちろんどんな姿の宍戸さんでも魅力的ではあるんだけれど、仕事着であるスーツの脱ぎかけって日常を剥ぎ取られて非日常に引きずり込まれたみたいな風情を醸し出すというか、つまり、そそる。
ご馳走を前にしたときみたいに喉を鳴らしてしまった。俺の腰に宍戸さんが両足を絡ませる。ボタンを外し終えたシャツを大胆にはだけさせ、胸の尖りも勃ち上がった性器も隠すことなく俺に見せつけた。首すじから鎖骨にかけてくぼんだ凹凸と、胸の間から鳩尾を通りへそ、そして繁みにたどり着く肌の滑らかさ。呼吸のたびに開くあばら骨と波打つ筋肉。
俺の視線は宍戸さんの肌を自由に這った。すると宍戸さんは胸を反らしながら喉を晒し、動きだけで俺の視線を宍戸さんの瞳まで誘導した。そして目が合ったのがわかると、ゆっくり口端を引き上げ笑んで見せたのだ。
「……負けました」
「ははは」
手玉に取られてしまった。宍戸さんには俺の淫らな思考なんてお見通し。
広げられた両腕に誘われて抱きつくと、くっついた肌から温かさが伝わってきて肩の力が抜けた。俺の髪を混ぜる宍戸さんの指にあやされている心地だ。
「このまま黙ってしたいなら、それでもいいけど」
「いや、なんか、落ち着いたんでいつも通りしましょ」
「そーか? まぁ、おまえが静かだと落ちつかねぇしな」
「仲直りのあとにするときって、どう話したらいいかわかんなくなるんですもん」
「話さなくても長太郎は顔に全部でるからな。なに考えてるかわかりやすすぎ」
「そんなことない、って言いたいところだけれど自覚はあるので反論しません」
宍戸さんは俺に抱きつかれたままベッドの横のチェストに腕を伸ばした。器用に引き出しを開けて中からローションの入ったボトルを取り出す。その様子を、俺は宍戸さんの胸にほっぺたを擦りつけて心臓の音を聞きながら見ていた。
「はぁ」
「おまえ、そんなとこでため息つくなよ」
「だって俺、どう転んでも宍戸さんがいなきゃ生きていけないんですもん。喧嘩するたびに身に染みて、情けなくなります」
はぁ、とまた一つため息をついて起き上がり、宍戸さんから受け取ったボトルのキャップを外した。片手に出した中身を温めながら、ボトルを置いたもう一方の手ではスラックスの前をくつろげる。口では情けないと言いながら、本能に忠実な俺の愚息は下着を元気に押し上げていた。
「喧嘩なんかしなきゃいいのに、どうして俺は学習しないのかな」
「いいじゃん、喧嘩。俺は嫌いじゃないけど」
「俺だって、俺と宍戸さんが喧嘩もしないような穏便な関係ってのもなんか違うなとは思いますけど、でもやっぱり気持ちのいいものではないですよ」
「そりゃそうだろ。意地をぶつけるから喧嘩になるんだからよ。エネルギーも喰うし痛みも感じる。でもそれって俺たちがこういう関係になる前からそうだったじゃねぇか」
二人だけで特訓をして、ダブルスを組んで、試合を勝ち抜いて、何度も感情をぶつけ合って、そして強くなった。あの頃と俺たちの関係を表す名前は変わったけれど、繋がりはなにも変わっていない。
「……そういうものでしょうか」
「ぶつかり合ったって離れたいとは思わないだろ」
「そりゃあ、まぁ……」
「ほらな。同じところに帰るしかないんだから、大丈夫なんだよ、俺たちは」
俺の体温でぬるくなったローションを宍戸さんの後孔に塗り広げる。マッサージするみたいにくるくる撫でていると少し括約筋の力が抜けてきた感覚が指に伝わってくる。宍戸さんがうまく脱力できたのを見計らってローションを足し、中指を埋めるようにゆっくり挿入していった。宍戸さんがため息より少し色っぽい息を吐き出して下唇を噛む。ここまでの手順がスムーズに進むように、俺はセックスのたびに神経を集中させた。宍戸さんの負担が軽いことが何よりも重要。そうじゃなかったら宍戸さんと体を繋げる資格はないと思っている。
「っん」
「苦しくないですか」
「だい、じょうぶ。指、増やしてもいける」
「はい」
ローションを足して人差し指も挿入した。ゆっくり出し入れを繰り返しながら、ときどき前立腺をそっと撫でる。足を開いたままヒクヒク揺れる腰と引き攣るように波打つ腹筋が艶めかしくて、俺はまた喉を鳴らしてしまった。
「興奮、しすぎ」
「だって」
乱れ始めた呼吸に控えめな嬌声を混ぜて、宍戸さんは笑った。さっきの挑発するように誘う笑みとは違って、楽しくて気持ちいいっていうときの飾り気ない微笑みだ。
「なぁ、もう、入れれば?」
「でもまだ」
「んっ、なんか、今日、気持ちいい」
「もしかしていつもよりいい、とか?」
「はは、俺も興奮してんのかも」
思わず強めに前立腺を押し込んでしまって、宍戸さんは眉根を寄せた。経験上、これは不快だったわけではなくて快感が走ったときの反応だ。
「ゴム、取ってくれませんか」
俺の指を柔らかい腸壁できゅっと締めて、宍戸さんは俺を見た。このまま愛撫を続ける俺を咎めるでもなく、中をかき混ぜられて内ももを震わせながら引き出しに腕を伸ばした。自分に付けるものなんだから自分で取れって言われても、なんの反発もなくそれに従うだろう。でも俺のちょっとした勝手を許容してくれたときって、懐に入れてもらえた気がして癖になりそうになるんだ。精神衛生上あまり喜ばれたものではないかもしれないけれど、宍戸さんが許してくれているうちでいいから甘えさせて欲しい。
「付けてやるか?」
「自分でします」
個包装を破いて、宍戸さんは潤滑油がまとわりついたコンドームを俺に手渡した。指を引き抜くと宍戸さんはひとつ息を吐いてシャツを腕まくりした。
「気合い入ってますね」
「あちーんだよ」
「脱がないんですか?」
「……」
「……ってやっぱり脱がないで!」
コンドームを付けることに気を取られていた俺は、素っ頓狂な返事で宍戸さんの気遣いを無駄にしてしまうところだった。慌てて訂正した俺を、宍戸さんは愉快そうに笑っている。
「あぶなー。せっかく色っぽい恰好なのにもったいない」
「必死かよ。笑わせんなって」
スラックスと下着をずり下げて、おなかを抱えて笑う宍戸さんの両足を押し広げ、どろどろに濡れたところに亀頭をあてた。
「そんなに面白いですか?」
腰を突きだしてゆっくり挿入している間も、宍戸さんはまだケラケラ笑って体を揺らしている。ちょうど前立腺のあたりをカリ首で擦るように行き来させたら、宍戸さんは俺の肩に手を伸ばして腰をよじった。
「ん、はは。あっ、それ、きもちい」
「もう、笑ってたら舌噛みますよ」
「ふっ、なに、激しくしてぇの?」
「していいんですか?」
中の温かさを味わいながら腰をグラインドさせると、宍戸さんの内ももが俺のわき腹を挟んで震え出した。ガツガツ突かれるよりゆっくり浸食するようにされる方が好きなくせに、どこまでも俺を挑発してくる宍戸さんが憎らしくて愛らしい。だから根本まで全部入ってしまうほど深く挿入した。そうすると宍戸さんは感じ入って唇が自然に開いてしまうんだ。間髪入れずに舌をねじ込んだら、喘ぎ声に似た吐息を鼻から漏らして柔い舌先が絡んできた。
「んむ、あっ、すげぇ、奥」
「宍戸さん、奥まで入れてじわじわ気持ちよくなるの好きでしょ」
「っ、ん、好き、かも」
「俺は、気持ちよくなってる宍戸さん、見るの、好きだから、激しくなんかしませんよ」
ゆっくり腰を引いて、また深くまで埋める。宍戸さんは俺の背を抱いて爪を立てた。ピリッとした痛みは一瞬しか感じない。爪を立ててしまったことに気付いた宍戸さんが指先の力を抜いて俺の背を抱き直すからだ。でもまた律動すれば、たまらず宍戸さんは爪を立てる。俺に傷をつけてしまうことを避けたいようだけれど、何度も穿って中が痙攣し始める頃には、俺を気遣う余裕なんてなくなってしまう。そして背中にか細い痛みを感じ続けるようになるまでそう時間はかからないことも、俺は知っていた。
「あぁっ、ちょうたろ、やばい、これ、すげぇ、好き」
「ほら、っ、ね、言ったとおり」
「んぅ、いいっ、あ、待って、まっ、そこ……ぉ、っっ」
「あー……狭いとこ、入っちゃいました」
たまに宍戸さんの奥、狭くなって吸いついてくるところまで届いてしまうことがある。先っぽを甘噛みするみたいに捕まえられて、気のせいかもしれないけれど宍戸さんのおなかの中でぎゅぽぎゅぽ音がする。宍戸さんは快感から逃げられなくなって身も蓋もなく喘いでしまうし、そんなのを見せられたら俺も我慢なんて出来なくなる。ゆっくり自分を制しながら律動するのも限界があって、結局最後は迫ってくる射精感に従うまま腰を振ってしまう。気持ちよくて、俺を離さないでほしくて、終わってしまいたくなくて、でも絶頂ってのは訪れてしまうから、感じるままに宍戸さんに欲をぶつけた。
「あぁっ、あ、やめ、もう、~~っ」
体を強ばらせて俺にすがりつく宍戸さんを追い立てるように揺さぶった。声にならない声を喉から絞り出して息を止めた宍戸さんの中がひときわ狭く収縮するのと、俺がコンドームの中に精液を吐き出すのはほぼ同時だった。
宍戸さんは不規則にぶるっと体を震わせて、焦点の合わない瞳で俺を見つめた。荒く息を吐き出しながら、宍戸さんの中が俺を食み続ける。長い余韻に身を委ねる姿は艶やかに刺激的で、理性なんて白濁と一緒に捨ててしまった俺はうっすら弧を描く唇が無性においしそうに思えて、噛みつくようにむしゃぶりついた。

喧嘩のあとのセックスはすごい、ってのは真実だ。
あのあと完全にスイッチが入った宍戸さんに乗っかられて一回、体勢を変えいつもは嫌がる後ろからの挿入を許されて一回、腰の立たなくなった宍戸さんを組み敷いて一回。お互いにもう何も出ないというところまで求め合って果てた。最後の絶頂のあと電池が切れた俺たちは、汗と精液とローションでぐちゃぐちゃになったシーツの上で気を失うように眠りに落ちた。
しかし悲しいかな、本日は平日。けたたましい目覚まし時計の音に叩き起こされ、俺はうなり声を上げながら必死に重い腕を伸ばしてスイッチを切った。
「うぁー……宍戸さん……朝です」
こちらに背を向けて横たわる宍戸さんの肩を揺する。うなりながら煩わしそうに寝返りを打った宍戸さんの眉間には深く皺が刻まれていた。
「んー」
「起きましょ……仕事行かなきゃ」
「……」
「あぁ、このまま寝ちゃったんだった。お風呂先に入ります? もうちょっと横になっていたかったら俺さっと入って来ちゃいますけど」
「ちょうたろ」
「うわ、ひどい声。喉痛めちゃいました?」
「だいじょぶ。へーき」
のっそり体を起こした宍戸さんにならい起き上がった。
乾いた汗で肌がベタつくし腰はだるい。けれど俺より宍戸さんの方が何倍もだるいはずで、そうさせたのは俺なのだ。
「やり過ぎちゃいましたね」
「んー」
普段は寝起きのいい人なのになかなか覚醒しないのか、ひどく眠そうにしている。
心配になって手を差し伸べようとしたら、宍戸さんは奥歯まで見えるくらい口を大きく開けてあくびをした。
俺もつられてあくびが出てしまう。
手で口元を覆うのも億劫で、宍戸さんと同じようにくわっと大口を開けた。あくび特有の涙が滲んでくる。
口を閉じたところで宍戸さんを見たら、同じようにあくびのせいで涙目になった瞳でぼーっとこっちを見ていた。
二人とも素っ裸のまま盛大に寝癖をつけて、なんとも間抜けな姿だ。
「ふはっ」
「ははは」
なんだかおかしくて、どちらともなく気の抜けた笑い声が漏れた。
気怠くて動きたくない。けれど今すぐキスがしたい。そういう気分だ。
「おはよ」
「おはようございます」
昨日は言えなかったおはようを交わした。
宍戸さんと俺の、新しい朝だ。