あきうらら

秋晴れ、空が高い。
窓際にはこじんまりした丸テーブルと、アンティーク調の装飾が施された椅子が二脚。
その片方に腰掛けて外を見ると、黄に色を変えた楓の葉っぱが切りそろえられた芝生の上にちょうど着地したところだった。
「晴れてよかったね」
「うん。ねぇ、亮くんは?」
次に落ちる葉っぱはないか目を凝らしたままたずねると、テーブルを挟んだ先から声が返ってきた。
「まだみたい。宍戸さん遅いなぁ」
声の主である叔父は、スーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出してため息をついた。
どうやら亮くんから連絡はなかったようだ。
私の視線に気が付くと困ったように眉を八の字にして穏やかに笑んだ。

叔父はパートナーである亮くんのことを宍戸さんと呼ぶ。
十代からの付き合いと言っていたからかれこれ四十年近くともに過ごしてきただろうに、いまだに部活の先輩後輩だった頃の癖が抜けないらしい。
私がまだ小さかった頃、あれは叔父と亮くんが私をチーズケーキの美味しいカフェに連れていってくれたとき、好きな人のことを名前で呼びたくないの? と叔父に聞いたことがある。母も父もお互いを名前で呼びあっていたから、叔父がなぜパートナーのことを名字で呼ぶのか不思議に感じたのだ。
目の前でコーヒーを飲んでいた二人は一度顔を見合わせて、亮くんはそのままコーヒーを飲み続け、カップをソーサーに置いた叔父はなぜか背すじを伸ばして私に微笑んだ。
大人の微妙な心の機微を何も知らない少女だった私を、叔父は隣の亮くんの顔色を伺いながら、気持ちは呼び名ではかれるものではないんだよと諭した。
「そんなこと言って、本当は亮くんって呼んでみたいんでしょ」
子どもの無邪気さは残酷だ。
「呼べば?」という亮くんの瞳と、「呼んでみて!」という私の瞳を交互に見比べてどんどん眉尻を下げていった困り顔を今でも覚えている。

「お茶でも飲んだら?」
「うん……そうするよ」
テーブルの上の白いティーカップにはまだ半分以上紅茶が残っている。
叔父はソーサーに手を添え、一分の無駄もない所作でカップを口元に運んだ。無駄のないという表現では温かみに欠けるかもしれない。私が身内でなかったら、たおやかなラインのカップを片手に窓の外を見つめて憂いを含んだため息を漏らすナイスミドルを前に頬を染めていたことだろう。
叔父は私の母の弟だ。
二人はまるで真逆の性格をしている。
母は彼女の正義に基づき迅速かつ大胆に行動を起こす。
他人を巻き込むことは多々あれど、母自身と彼女を取り巻く人々に幸福がもたらされる結果を常に求めて生きている。だからなんだかんだいってみんな、母に振り回されるのは嫌いじゃないんだ。
そんな母を万物を照らす太陽に例えたならば、叔父は砂漠のオアシス。私の休息地、それが叔父だった。
エネルギッシュな母に憧れ、私はときどき疲弊した。日に当たりすぎて熱中症を起こすのと同じ。勉強もスポーツも友達付き合いも、なんでも精力注いでいたかった。だけど人間にはそれぞれキャパシティというものがあって、学生の頃の私は過ぎる努力で気持ちのバランスを崩してしまうことがたびたびあった。
そんな時、決まって私は叔父と亮くんの家に逃げ込んだ。
「好きなだけ居たらいいよ。あっ、宍戸さんに迷惑かけちゃだめだからね」
なぜかいつも、何も言わなくても叔父は私の状況をわかってくれているようだった。
もしかしたら同じような経験をしたことがあったのかもしれない。母のようになりたい私、追い付けない私。叔父にも私と同じように憧れを追った時期があったのだろうか。
叔父は私に何も聞かなかった。母との間に立ってくれたこともあった。
優柔不断にも思えるけれど、柔らかに微笑む心優しい人。私の前で叔父はいつもにこにこ笑っていた。
子どもから大人に変わる頃。世の中のことが少しずつ見えるようになって、マイノリティーというものがあることをわかるようになって、私は初めて叔父の強かさを知った。
意外だった。あの心優しい叔父が戦う姿なんて一度も想像したことがなかったから。
戦う相手はあまりにも強大だった。そして、彼が平和を願った世界だった。
亮くんと生きていくために、経験しなくてもいいつらいことだってあったはずだ。私には彼の苦悩を推し測ることしかできない。どんなことがあったか聞いたこともなければ、彼が歯を食いしばる姿を見たこともない。
けれど、亮くんと一緒に生きることを絶対に諦めなかったという事実があるから、今の叔父がある。
母と仲睦まじく話す叔父を見て、ああ、同じ血が流れている、そう思った。
母も叔父も、願いを叶える術を知っていて、それを成し遂げる頑固さを持ち合わせているのだ。
いつだって叔父は何が一番大切なのかわかっている。それ以外のことは多少うまくいかなくてもなんとかなることを知っている。
実は大人になった私が心からそれを理解できたのはつい最近で、私の知らなかった彼らの感情を想像できるようになって、少しだけ涙が出た。
ほんの、少しだけ。

「宍戸さん、渋滞につかまってるって。間に合うとは思うけど……」
「いいよ、ちょたくん。まだ時間あるしゆっくりしてようよ」
「ゆっくりって言ったって」
叔父は心配そうに窓の外を見つめた。こちら側の窓からは建物の入り口は見えないから亮くんが到着したか確認は出来ない。叔父もそれを知っているはずなのに気を揉んで居ても立っても居られないらしい。
ちょたくんとは叔父のことである。
彼は誰からも長太郎と呼ばれていたから、言葉を話せるようになった幼い私はみんなの真似をしてちょーたろーと呼んだらしい。流石に体裁が悪いということで、大人たちは亮くんと同じようにくんを付けて呼ぶよう矯正しようとした。しかし舌足らずな子どもにはちょうたろうくんと発声することが難しく、徐々に簡素化されていき最終的にはちょたくんに落ち着いたというわけだ。
「ちょたくん」
「なぁに」
「なんでもない。お茶もっといる?」
「ありがと。でも大丈夫」
カップの紅茶はあまり減っていないようだった。

それにしても、と思う。
昔から、彼の隣に並んで歩くと熱のこもった視線を頭のてっぺんあたりに感じる。それは道行く女性たちから彼のかんばせへ注がれたものだった。
叔父はわかりやすくモテる。長身だし、フォーマルスーツのよく似合う体つきをしているし、皺が増えたとはいえそれすらも魅力にしてしまう類のずるい顔立ちをしている。
最近も、街中で待ち合わせをしたときに私くらいの年齢の女の子に声を掛けられているところを見た。でも残念。ちょたくんが好きなのは亮くんなのだ。間に割り入った私は彼女のふりをして叔父の腕を引いてあげた。そしたら彼は、彼女のふりをお願いできるくらい大きくなったんだねって感動しだしたのだ。心外だ。いつまでも小さい女の子だと思われていては困る。だから進言した。「いつも指輪つけていたらいいのに」そうすれば悪い虫は寄ってこないのに。「そうだね」と、彼は左手を見つめて言葉を濁した。

「おばあちゃんに会った?」
「母さん? 来た時に会ったよ。あとはあなたたちだけだからって釘を刺されちゃった」
「そっか」
「あれ、どうしたの?」
「え?」
「難しい顔してる。緊張してるの?」
「なんでよ。してないってば」
「そう?」
「それよりさ、今日は指輪してるんだね」
「ああ、宍戸さんがね、今日はみんなに会うからしていこうって」
「デートの時にしかしないんじゃなかったの?」
「そっちのうちに遊びに行くときもしてたでしょ」
叔父は私に手を差し伸べて、頬にかかった前髪を指先ではらった。
「みんなに会うから?」
「うん」
その時、テーブルの上のスマートフォンが震えた。見えた着信表示には宍戸さんの文字。慌てて出た叔父は亮くんと一言二言会話して安堵したように表情を和らげた。通話が切れたスマートフォンを胸ポケットにしまった叔父は、すっかり冷めた紅茶を一口飲んでにっこり笑った。
「宍戸さん着いたって。足が速いからすぐ来るんじゃないかな」
「急がなくていいのに」
想像してみた。格式高い建造物の中を全力疾走する亮くんはちょっと面白いかもしれない。
「亮くんにかけっこの特訓してもらったなぁ」
なんだか私も走り出したくなって、ハイヒールの踵を軸にしてつま先を床から浮かせてみた。
「なつかしいなぁ。運動会でリレーに出たときだっけ」
「ちょたくん、バトンの練習してもすぐ落とすんだもん」
「はは。バトンって難しいよね。テニスだったらもうちょっと教えられたのにな」
「いいよ。ピアノ教えてもらったから」
ピアノの演奏に長けた叔父は、ときどき私の練習を見てくれた。叔父が以前使っていた楽譜をくれたり、一族の集まりのときには二人で連弾したりしたこともある。
私は叔父にピアノを教わることが好きだった。鍵盤の上を軽やかに跳ねる指先を見ているのが好きだった。
「また連弾したいね」
叔父が言う。考えていることを見透かされたのかと思った。懐かしいものを見るように、目を細めて私を見たから。
「ちょたくん、まだ弾けるの?」
「失礼な。指は覚えてるよ」
長くて節立った指がテーブルをタタタンと鳴らした。小指から人差し指まで素早く順番に接地させる。久しぶりに、この指が奏でる音楽に混ざりたくなった。母の実家、祖父母が住む家のグランドピアノは調律してあったはずだ。今年のクリスマスに二人でサプライズの演奏会をするのはどうだろう。誘ったら叔父は面白がってくれるだろうか。

「悪い! 遅くなった!」
「宍戸さん!」
「亮くん!」
勢いよくドアが開いてサファイアブルーのスーツに身を包んだ亮くんが転がり込んできた。白を基調としたこの部屋では目が覚めるようだ。
亮くんは息を整えながらよれたネクタイを直した。
「ごめんなさい。俺が置き忘れたばっかりに」
「いいって。ちゃんと確認しなかった俺も悪いんだし」
「絶対忘れないように何日も前から準備しておいたのに」
亮くんは駆け寄っていった叔父を見上げてわずかに口端を引き上げた。叔父の肘のあたりを軽く叩いて、まるで叔父を安心させようとしているみたいだ。
ちょっとした仕草ひとつひとつに二人の信頼関係が見て取れるのは、今も昔も変わらない。
「でも鞄ごと家に置いてきちゃったらだめじゃん」
呆れたふりしておどけてみせて、二人のもとへ歩みを進めた。
二人は私に気付くと並んでこちらに向き直った。どちらも神妙な顔をして私を見つめる。引き結ばれた唇が似通って見えた。長く一緒にいると顔つきまで似てくるのかもしれない。
「なんで二人してそんなにかしこまってるの?」
「だって、ねぇ」
「お、おう」
叔父と亮くんは顔を見合わせてコクコク頷いた。
そのタイミングがぴったりだったのが可笑しくて、思わず吹き出したらなぜか涙が零れた。
「お、おい泣くなよ」
「どうしたの? せっかく綺麗にしてもらったのにお化粧流れちゃうよ」
「流れないよ。涙に強いマスカラだもん」
もしかしたら自分で思っていた以上に気を張っていたのかもしれない。
いつもと変わらない様子の二人を目の前にして、緊張の糸が切れたのだろう。ほっとして泣いてしまうなんて子どもみたいで居たたまれないけれど、この二人の前でなら少しくらいいいよね。
「涙、拭きたいからちょうだい」
鼻をすすって、手を差し出す。
すると亮くんは鞄の中から白い包みを取り出した。
ちょうど手のひらに乗るくらいの大きさで、飾りについているリボンの形を整えた亮くんは叔父に目配せする。叔父は今にも泣きだしそうな表情をして頷いた。
二人以外誰も入らないように伝えておいた部屋の中ではクラシックミュージックが静かに流れ、ドアの外からは集まりつつある招待客の声が漏れ聞こえてくる。
窓からの光が私の背中を温めた。
両手で恭しく手渡された包みは軽い。
リボンを解いて出てきたのは、白い綿のハンカチだった。

サムシングフォー。
花嫁が結婚式で身に着けると幸せになれるという異国の言い伝え。
古いものは祖母の真珠のイヤリング。
新しいものは仕立てたばかりの真っ白なウェディングドレス。
青いものはストッキングガーターのリボン。
そして、借りものは叔父と亮くんが使っていたハンカチ。

何か貸してほしい、二人みたいな夫婦になりたい。そうお願いしに行ったとき、叔父はぼろぼろ泣いて、亮くんは笑顔で喜んでくれた。
おめでとうと言ってくれて、女の子に貸せるようなアクセサリーは持っていないからとハンカチを貸してくれる約束をした。
交際している男性との結婚を考えたとき、思い描いたのは叔父の家で過ごしたあの日々だった。
ソファーでふて寝をしていると、キッチンからおいしそうな匂いが漂ってきて目が覚める。
寝ぼけ眼をこすりながらちょたくんと呟くと、対面キッチンの向こう側からおはようという声がして、続いて亮くんがおそようと言った。
「おそようってなんですか」「もう夜だからおはようじゃねぇだろ」「変な言葉覚えさせたら姉さんに叱られるからやめてくださいよ」「それくらいの分別はつくだろ。いつまでも子ども扱いしてやるなよ」「わかってますよ。あ、そろそろネギ入れてください」「ほいよ」
軽口をたたき合いながら手際よく料理を進める二人を、丸めた毛布を抱いてぼーっと眺めていた。
二人で、っていいなと思った。
鳳家の集まりにも彼らは二人で来た。亮くんの隣には叔父がいて、叔父の隣には亮くんがいた。
叔父が家族にどのように亮くんを認めさせたのか、そもそも衝突はあったのか、私のあずかり知らないところだ。でも私が物心つく頃にはすでに、亮くんは私たちの家族だった。
夫婦とは、家族とは。私にとって身近な夫婦とは両親であり、叔父たちだった。
そしてみんなが私の家族なのだ。
私の愛した人にも私の家族を好きになってもらえたら、それはとても嬉しいことだと思った。

「貸してくれてありがとう。幸せになれる気がする」
きちんとアイロンをかけられた、刺繍も飾りもない素朴なハンカチ。
目元にあてると柔らかい布がまつ毛の涙を吸い取ってくれた。
「気がする、じゃなくて、なるんだよ」
「一人じゃ難しいことでも、二人なら乗り越えられることっていっぱいあるから、だから大丈夫」
二人の涙ぐんだ笑顔を見せられたら、また涙が溢れてきてしまった。
身長がまだ叔父の腰にも満たなかったあの頃のように、泣き顔を隠すことなく二人に両腕を広げた。
抱き寄せてくれた二人の腕は日差しよりも温かくて、私をあやしてくれた大きな手のひらは何一つ変わっていない。
大事にしてくれてありがとう。導いてくれてありがとう。
言葉にするのは照れてしまうけど、いつか伝えられる日がくるだろうか。
「泣き顔が昔から全然変わんねぇな。長太郎とそっくり」
「似てないよぉ」
「似てませんよぉ」
声を合わせて反論する私たちを、亮くんは交互に見つめて笑った。
ドアをノックする硬い音のあと、式場担当者が顔をのぞかせた。
もうすぐ式が始まる時間のようだ。向かう前に涙で崩れたメイクを直さなければならない。
「じゃあな。先行って待ってるから」
亮くんは叔父の背をさすりながら私に手を振った。まだぐずぐずと鼻を鳴らしている叔父は自分のハンカチで涙をぬぐい、「綺麗だよ」と手を振って言ってくれた。
一瞬、二人の指輪が輝いた。
家族以外の人間と会う時はあまり付けないそれを付けてきてくれたのは、二人なりの祝いの気持ちだったのだろうか。
みんなに会うから。
新しく家族になる人たちのことも、みんな、と彼らは言ってくれたのだとしたら、なんて幸せなことだろう。
二人が出ていった部屋は静かで、だけどことさら明るく感じた。
メイクを直すために鏡の前に腰掛ける。折りたたんだティッシュで涙の溜まったまつ毛を押さえ、乾かすために手を扇にして風を送った。
まっすぐ自分の顔を見ると、泣いたせいか眉が下がってしまっている気がした。
なるほど少しだけ、叔父に似ている気がしないでもない。
「ふぅ」
まぶたを閉じて、深く息を吐いた。
二人はきっと、新婦側の席に並んで座って私たちを待っている。
顔を見たらまた涙を堪えられなくなってしまうかもしれない。
だからバージンロードは、まっすぐ前を向いて歩くことにする。