あいのはなし

『かたちあるもの』の続きです

顔面を涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃにした長太郎を玄関で見送って、さて、と踵を返したところでようやく実感が湧いてきた。じわじわと熱を持ち始めた頬を手の甲で拭う。
「あ~~……」
ついに渡してしまった。
長太郎に婚約指輪をもらったあと、こっそり調べてこっそり買っておいた俺の給料三か月分。と、プラスちょっと。
結婚情報誌やそういった類のウェブサイトには指輪への費用を抑えて結婚式に費やすのが最近の傾向だと書いてあったけれど、もらったエンゲージリングがどう見ても費用を抑えたものには思えなかったから、かといってブランドを調べてものの値段を特定するのはダサすぎるし長太郎に悪いと思ってしたくなかったから、オーソドックスに三か月分の金額を目安に探して、でも探しているうちにいっぱしに目が肥えてきて、長太郎に似合う指輪はどれか目移りしまくって、悩みまくって、黙って長太郎のエンゲージリングを持ち出してサイズを指定して、やっと買ったマリッジリングを、ついに、ついに渡してしまった。
「うわぁ……」
これは想像以上に照れる。
あいつ、よく普通な顔して俺にエンゲージリング渡せたな。
いや、普通っていうか、あれはアクシデントでタイミングがしっちゃかめっちゃかになって動揺していた顔か。ディナーのあとは部屋でずっとデレデレしていたしな。
糊のきいた真っ白なシーツの上で、長太郎は眩しそうにリングをはめた俺の指を見つめて、ときたまそっと触れては嬉しさを抑えられないといった様子で微笑んだ。もっとうるさいくらいに喜ぶかと思ったのに、ぐっと幸せを噛み締めるような顔をするから、それはそれはいじらしくて、あの夜俺は長太郎を甘やかさずにはいられなかったのだ。
「……はぁ」
さっきからため息ばかりでる。
胸やけするほどの甘い感情が湧き水のようにあふれて、留まりきれずに漏れ出してしまうのだ。
長太郎の指にはめるとき、正直ものすごく緊張した。俺の手は震えていなかっただろうか。
実のところ、俺は一ヶ月以上前に指輪を買っていた。
それを後生大事にクローゼットの奥底に仕舞いこみ、今日まで渡せなかった心中を察してほしい。
万が一にも拒否されることはないだろうと頭ではわかっていたのだが、一度長太郎に同棲の誘いを断られた経験が俺に臆病風を吹かせたのだ。だから、さっきのタイミングで渡したのは、驚かせてやろうというちょっとした意趣返しでもあったことは否定できない。
朝っぱらから襲われたのがムカついたから仕返し、なんて言ってみたけれどそんな感情はどこにもなくて、むしろチャンスではないかと、俺は長太郎が身支度を整えている間ずっと布団をかぶって自分を鼓舞していた。とにもかくにも隠し事は性に合わない。勢いで言っちまえ。忙しい朝のどさくさに紛れて渡しちまえ。ずるいとは思うけれど、それが今の俺にできる精一杯だった。
長太郎はいつも俺に振り回されている気でいるかもしれないが、俺の方がよっぽどあいつに振り回されていると思う。
「はーっ」
自分を落ち着かせようとわざとらしく息を吐いた。
リビングに戻って、二度寝するには目が冴えてしまったから電子レンジで温めた牛乳を手にソファーに腰を沈める。テレビを付ける気にもなれず、しばらくの間ぼーっとしていた。
ふと、ダイニングテーブルの卓上カレンダーに目がとまる。
雪だるまが羽子板を持ったイラストの横に一月の文字。
ということは来月は二月なわけで。
「しまった、もうすぐあいつの誕生日じゃん」
クリスマスを過ぎ、正月を過ぎ、そろそろ今月が終わる。
なんであと数週間我慢できなかったんだ。
俺の誕生日にエンゲージリングをもらったわけだし、お返しに長太郎の誕生日にマリッジリングを渡すのがスマートな流れだったのではないのか。そんなことにも気づかないほどに冷静さを欠いていたのか俺は。
「あー……くそ」
冷めたホットミルクを一気に飲み干して、マグカップをシンクの中に置き去りにした。
足早に進めば、今朝の名残か歩く振動で腹の奥がほのかに疼く。だが、そんなものはまるっと無視だ。
寝室の扉を勢いよく開けて、半ばやけくそで羽毛布団にダイブした。
シーツに染み込んだ長太郎の匂いと俺の匂いが混ざり合う。
今はもう慣れ親しんだその匂いに、部屋に少しだけ残っていた青臭さが入り混じって、俺は再び朝の顛末を頭の中で反芻し、「わーっ!」と叫び声を枕に染み込ませた。

家を出る支度をしなければならない時間ギリギリまで布団に突っ伏していたかった俺は、メールの受信を知らせる機械音でしぶしぶ顔を上げた。
確認すると、会社は自宅待機を午前中から本日いっぱいに延長したらしい。社員の安全を優先したということだろう。会社の判断に心の中で称賛の拍手を送りながら、降りやまない雪の中、体を凍えさせて帰ってくるであろう長太郎のことを思った。
あのあと、駅に着くころには泣き止んだだろうか。真っ赤に目元を腫らせたまま仕事をしてはいまいか。
なんだか少し悪いことをしたかもしれないと、今更ながら心配になってきた。
「……なんか作るか」
罪滅ぼしではないけれど今日は大事な日になるわけだし、夕飯に長太郎の好きなものを作って待っていよう。
温かいものがいい。
大したものは作れないにしても、せめて心の底からほっとできるような食事で迎えてやれたら。
「そうだ」
時間はたっぷりあるし、前に長太郎が実家に帰ったときに好物だからとタッパーいっぱいに持ち帰らせられた牛肉の煮込み料理、あれを作ってみよう。
仰向けに寝転んでスマートフォンでレシピを調べれば、さほど難しいものではなさそうだ。
勢いをつけて体を起こした俺は、長太郎のスウェットを脱ぎ捨てて外に出るための身支度に取り掛かった。
この大雪でも駅前のスーパーなら開いているかもしれない。
閉まっていたら無駄足になってしまうわけだが、防寒のためのダウンを着込んだ俺は、傘を片手に一縷の望みをかけて家を出た。

「ただいま帰りましたぁ」
「おかえり」
鼻の頭を赤くして帰ってきた長太郎をキッチンで出迎える。夕方というには遅く、夜というにはまだ早い。定時よりも早く退勤していいことになったと予め連絡があったから、その時間に合わせて夕食の準備を進めていた。
「まだ雪降ってるか?」
「朝よりは弱まりましたけど、まだ少し」
マフラーを外しながら鍋の中身をのぞき込もうと背中にくっついてきた長太郎からは、冬の無機質な匂いがした。長太郎は鍋から匂い立つ香りを吸い込みながら俺の耳元に頬擦りしてきて、その冷たさで反射的に鳥肌が立つ。
「おいしそう」
「おまえ冷てぇよ」
同時に発したちぐはぐな言葉に、顔を見合わせて笑った。
「宍戸さん、おかえりのキスしてください」
俺の腰に腕を回し、少し首を傾けた長太郎の顔が近づいてくる。そのひたいをぺちんと叩いた。
「外から帰ったら?」
「あー、手洗いうがいです」
「よろしい、行ってこい」
制止されてしょげた長太郎は、俺に叩かれたひたいを左手でさすった。
薬指には今朝贈った指輪がひときわ存在を主張していて、それが目に入った瞬間、俺の心臓はドクリと跳ねた。せっかく料理に没頭して忘れかけていたのに。恥ずかしいような、嬉しいような、春に芽吹く草花のようにムズムズして居たたまれない。背を向けて洗面所に向かう長太郎に今すぐ抱きついて、ぎゅーっとしてやりたくなる。
「んんっ」
頬が緩んでいる気がして、しかめ面になって咳払いをしてみた。
これが幸せというやつか。
今までと何かが大きく変わったわけでも、誰かに認められたわけでも、誓いを立てたわけでもない。
それなのに、あの細い金属の輪っか一つで、こうも満たされてしまうものなのか。
あの指輪が、所有でも、束縛でもなく、俺たちが二人で生きていく「かたち」としてこれからも在り続けるならば、贈った意味は十分にあったのかもしれない。
コトコト、鍋の中で大きめにカットした野菜と牛肉が煮えている。欧米では最も一般的な家庭料理の一つだそうだ。ひとつひとつが柔らかく、蕩けあいつつある。まさに、今日という日にふさわしい一品だ。
「俺も手伝いますね」
スーツからカットソーとチノパンというカジュアルな服装に着替えた長太郎が戻ってきた。鼻の赤みが引いてきて、冷たかった頬にも血色が戻った気がする。
「作ってるのってビーフカッセロールですよね? わざわざ材料買いに行ってくれたんですか?」
「おう。駅前のスーパーは開いてたから」
「宍戸さん、今日はずっと家にいるんだと思っていました」
「そのつもりだったんだけど……」
「?」
じっとしていられなかったからと正直に言うのは躊躇われて、鍋の火を止めた俺は長太郎の左手を取った。蛍光灯を反射してキラリと光るマリッジリング。その光に吸い寄せられるように唇を寄せた。
「し、宍戸さんっ」
薬指の根元に口づけたまま長太郎を見上げると、帰ってきたときよりも真っ赤な顔をしてこちらを凝視している。自由な方の右手で口元を覆って、「や、あ、そんなっ」とあられもない声をあげるから段々面白くなってきてしまった。
「お、王子様みたい……」
「誰が」
「宍戸さんがです!」
「ふはっ」
ちゅっ、とわざと音を立ててもう一度指輪にキスをしてから、俺は長太郎の両手を掴まえて指を絡めた。追い越されたままの身長差を縮めるために、踵を浮かせて背伸びする。合わせた唇は乾燥していて、あまり意味はないとわかっていたけれど、潤してやりたくなったからぺろっと舐めてやった。
「おかえり」
「ふふ、今ですか?」
「したいって言ってたじゃねぇか」
「今日の宍戸さんは、タイミングのセオリーに囚われないんですね」
「セオリー?」
「何でもない日の朝に突然結婚指輪渡してきたし、今だっておかえりには遅すぎるタイミングですし」
「朝っぱらから寝込みを襲うのはタイミングいいって言えんのか?」
「えーっと……お互い様ですねぇ」
長太郎は誤魔化すように俺のひたいに口付ける。
「宍戸さんはしないんですか?」
俺の左手に指輪がないことを言っているのだろう。絡めた指をそのままに、長太郎は俺の薬指の付け根を器用に撫でた。
「おまえ、俺に自分で付けろって言うのかよ」
「あっ」
そうか、とたった今気付いた顔をして、長太郎はキュッと唇を引き結んだ。
「あとで、俺に嵌めさせてください」
「言い方がやらしい」
「も~、そういう風に捉えるからでしょ!」
「うそ、ごめんって、あとでな」
軽いキスを交わして、俺たちは夕飯の支度を再開した。

スプーンで簡単に崩れるまで煮込んだ牛肉とバゲット、それと少しの赤ワイン。ダイニングテーブルで向かい合い、いつもと変わらない夕飯の光景だ。
「ん~! おいしいです!」
「おまえんちの味には負けるけど、初めて作ったにしてはうまく出来たよな。まぁ煮込むだけだし」
「そんなことないですよ! 宍戸さんの愛情が煮詰められた味がします」
「なにそれ」
どんな味だよと茶化してみたけれど、間違いなく想いはこもっていると思う。
長太郎が好きなもの、長太郎を温めるもの。
買い物しながら、野菜を切りながら、おたまで鍋をかき混ぜながら、長太郎のことばかり考えていたから、本当に俺の気持ちが混ざってしまっていてもおかしくはない。
「今日はずっとふわふわした気分のまま仕事していた気がします」
「真面目に働けよ」
「仕事はちゃんとしましたよ。でもどこか落ち着かなくて。だって、タイピングしてるときに視界に光るものがあってなんだろうって見ると指輪なんですよ? 落ち着いてなんていられないでしょう」
「うわぁ、おまえ絶対ニヤニヤしてただろ」
「し……っないように頑張りましたって」
「どうだか。つーかそれ付けたまま仕事したのか?」
「え? しましたよ? だってつけたまま送り出されたからケースもないし、無くしたくないからつけてました」
「誰かに気づかれたりとか」
「それが誰からも。みんな窓の外の大雪ばかり気にしてましたから」
長太郎は大きな肉の塊を頬張って、おいしいとにこにこしている。嬉しそうな長太郎を見ていると、指輪に気づかれてなにか詮索されたらどうするんだ、なんて小言はどうでもいいことのように思えてくる。
けれど。
「それあまり外で付けるなよ。あと余計な事言わないように」
「わかってますよ。隠しているわけじゃないけれど、まぁ、めんどくさいですもんね」
めんどくさいと容易に言えるほどに現実と折り合いをつけて来られたのは、悪いことではないと思っている。
さして大したことではないはずなのに、俺たちの恋愛には説明が必要らしい。
だから、「めんどくさい」。これは逃避でも問題の先送りでもない。
「でもたまにならいいですよね。休日とか、デートするときとか」
「あー、まぁたまになら」
「やった! 宍戸さんもしてくれますよね?」
俺の空いたグラスに気づいた長太郎が注ぎます?とボトルを持ち上げる仕草で聞いてきたから、もういいと首を横に振った。
「気が向いたらな」
「そんなこと言って、ちゃんと付けてくれるって知ってますから」
笑みを浮かべながら、長太郎は皿の中の人参をスプーンで二つに割ろうとしている。
伏せた目元に、長い睫毛が影を落とした。この睫毛に涙が絡む様は綺麗だけれど、長太郎が悲しむくらいなら一生見ることが出来なくなってもかまわない。
「どうしました?」
「なにが」
一口大の人参をスプーンで掬って、長太郎はまっすぐ俺を見た。
「何か言いたそうだったから」
「別に」
「そうですか? 俺のこと見てたから言いたいことがあるのかと」
人参は、俺を見据えたままでいる長太郎の口の中に消え咀嚼される。そして喉仏が上下して、その体に取り込まれた。
長太郎は俺の目線によく気が付く。何を考えているのかを見透かされることもしばしばだ。
そんなに俺はわかりやすいだろうか。それともこいつの観察眼が人並外れているのか。
「言いたいこと、ねぇ」
残っていた最後の肉のかけらを口の中に放り込んで、空になった皿にスプーンを置いた。
「これは提案なんだけど」
席を立って、まだ食べ終わっていない長太郎を見つめ返せば、丸い瞳が少しの困惑を湛えている。
「したいことが出来たから俺は先に風呂に入ろうと思う」
「へ?」
「おまえも一緒に入るなら、今日はなにもしないで寝る」
「は、はい」
「でも、長太郎が皿を洗って、キッチンを片付けて、おとなしく待っていられるなら」
「いられるなら?」
「俺は野暮用を済ませられる」
「野暮用?」
首を傾げている長太郎の背後に回って、皿に添えられている左手に触れた。まだ指輪のない俺の左手で、長太郎の手の甲に浮き出た血管をゆっくりとなぞる。
そして耳元で囁いてやったのだ。
「はめてくれるんだろ?」
たっぷり五秒、俺の手の動きにくぎ付けになっていた長太郎はやっと意味を理解したのかガバっと振り向いて、
「ど、どっちの意味ですか!?」
と声をひっくり返した。
ほんのり桜色に染まった必死な顔を笑ってやって踵を返した俺の背に、長太郎の「おとなしく待ってます!」の返事が飛んでくる。
慣れないことをしたせいで熱くなった頬をごしごし擦りながら、俺は俺の準備をするためにダイニングを出て風呂場に向かった。

「宍戸さんがあんな風に誘ってくれるなんて、びっくりしたけど嬉しかったです」
鎖骨を甘噛みしながら、長太郎は長い指で俺の中をゆっくりかき混ぜる。
一定の間隔で前立腺の膨らみが押し上げられて、そのたびに徐々に蓄積していく射精感を逃がしたくて俺は長太郎の背に爪を立てた。
セックスに慣れきったはずの後孔が、ことさら時間をかけて拓かれていく。
まるで初めて体を重ねた夜みたいに、長太郎はしつこいほど丹念だった。
あの時と違うのは、その指先が既に俺の気持ちいいところを知っているということ。早まる呼吸と体の震え、それと熱くなる体、そういう機微から俺の限界点をわかっていて、反応を見ながら敢えてささやかな刺激で追い詰めてくる。既に体の至る所に口づけられ、吸われ噛みつかれたあとで、今朝の性急なセックスとは真逆のじれったい愛撫にそろそろ我慢するのがつらくなってきた。
「っふ、ん、」
「ここ、準備してくれてる間、俺ちゃんと待っていられましたよ」
「うん、ぁあっ」
「宍戸さん、すごく気持ちよさそうな顔してる」
うっすら笑みを浮かべて、長太郎は俺の唇に吸い付いた。挿し込まれた舌は熱く、唾液を絡めとるように俺の舌の表面を撫でてから上顎に触れた。
「んっ」
さらさらとした味蕾に粘膜をくすぐられればうなじがゾクゾクして、たまらずまぶたをぎゅっと閉じた。
俺のこんな反応を、長太郎はじっと見つめているに違いない。俺にはわかる。だって今、おまえ笑ったろ。合わせた唇をきゅっと引き上げて、満足そうに笑っただろ。
流れ込んでくる唾液を飲み込んで、俺は長太郎の舌先に歯を立てた。まぶたを開けて見つめ返せば、困ったように長いまつ毛が揺れる。
「怒らないでくださいよ」
「……怒って、ねぇよ」
「ちょっと舞い上がっちゃいました」
噛みついたのを執拗な愛撫への抗議と受け取った長太郎は、俺の中から指を引き抜いた。
ぐずぐずになったそこから、たっぷり入れられたローションが留まり切れずに漏れ出る。見れば、俺の腹には亀頭から溢れた先走りで小さな水たまりができていた。
「それにしたってしつこい」
「だって、宍戸さんのことドロドロにしたくなったんですもん」
悦べばいいのか怖がればいいのか、こいつの言い回しはたまに俺をどきりとさせる。
それを悪く思わない自分に、もっとどきりとする。
「分かってます? 結婚初夜なんですよ?」
「初夜って言ってもなぁ」
「あっ、今『散々ヤリまくっといて初夜もクソもねぇだろ』って思ったでしょ」
「よくわかってんじゃねぇか」
「も~~」
ベッドの下には、脱ぎ散らかした長太郎の服と、風呂上がりに俺が腰に巻いていたバスタオルが乱雑に重なり合っている。タオルを拾い上げて手についたローションを拭った長太郎は、箱からコンドームの束を取り出して一つをちぎった。
「っていうか、いつになったら指輪付けさせてくれるんですか?」
俺の両膝を割り開いて間に入った長太郎がコンドームを陰茎に装着しながら聞いてきた。そのくせ行為を止めるつもりはないようで、後ろに宛がった亀頭をゆっくりと埋め込んでいく。
「んぅ……っ」
「っはぁ、すご、宍戸さんのなか、とろとろです」
「おまえが、そう、したんだろ」
長太郎が笑う。いつもの柔和な笑みで、しかし瞳の奥に獰猛な獣を隠して。
覆いかぶさる長太郎を見上げるとき、雲の多い月夜みたいだなと思う。薄明りでささやかに慈愛を注ぎ続けているかと思いきや、雲間から射抜くような強い光で情愛を突き刺してくる。
思えば始めからそうだった。長太郎に初めて好きだと言われたあの日から、ずっと。
「宍戸さん、もしかして、照れてます?」
「はぁ? っあ、なにが」
「指輪、んっ、付けるの」
「そんな、わけ、っふぅ、ん、」
見破られて腹の中がキュッと締まった。長太郎の言うとおりだった。俺らしくもない大胆な誘い方をしたくせに、いざ長太郎と向き合って左手を差し出そうとしたら照れくさくなってしまって、ごまかす様にベッドに引きずり込んだのだ。
「素直じゃ、ないなぁ」
「う、るせぇ……っ、ふぅ、ん、ちょうたろ、なぁ、もっと」
「してるときは、素直なのに」
腰を抱き上げられれば挿入が深くなる。否応なく反った背骨に走る電流が、脳に伝わり快感で満たした。パチュン、ぬちゅ、官能的な水音と共に揺さぶられて、甘受するしかない痺れが俺を責め立てる。
「もっと、して、いいですか」
強く奥まで穿っていいですか。そんなことわざわざ聞かなくたって、俺の返事なんて待つ気ないだろおまえ。
下唇を噛んで嬌声が漏れるのを抑えていた俺は、長太郎が腰を一層強く打ちつけた衝撃に耐えきれず喉を震わせた。濁音の混じった聞き苦しい声を押しつぶそうと咄嗟に手の甲を噛めば、させまいとする長太郎に両腕を引かれて拘束される。
「や、あっ、やめ、んんっ、くるし、」
「苦しい、だけですか? っ、奥、もっと開いて、俺を、入れて」
「んあっ、おく、もう、おくぅ、むり、だって」
「うそ、もっと、っ、いけます、よっ!」
「あぁっ、っ!」
最奥を無理やり拓かれて絶頂に誘われ、目の前がスパークする。逃れたくても逃れられない、暴力に似た快感が腹の底から全身を支配してしまう恐怖と愉悦。
それでも元凶である熱い怒張を離すまいと、うねる腸壁が食むように吸い付いている。
「うあ、あぁ、ぁ」
「ししどさん、ししど、さん、っ!」
縋るように俺の名を繰り返し、苦しそうにぎゅっと目を瞑って長太郎は果てた。
ぴったり密着したペニスが不規則に痙攣して、薄いゴム越しにでも精液が吐き出されているのがわかる。
腹の中が断続的に収縮するたびに俺も長太郎も身を震わせ、いつの間にか両腕は解放されていた。
呼吸が整うのを待たずに、汗でひたいに張り付いた銀色の前髪を梳いて皺の寄った眉間を揉みほぐしてやれば、眉尻を下げて、赦しを乞う涙に覆われた瞳が俺を見つめる。
無茶なセックスをしたあとはいつもこうだ。俺のことを痛めつけたとでも思っているのだろうか。
馬鹿だな。赦すもなにも、おまえを咎めたことなど無いというのに。
「ちょうたろう」
わかってる。貪るようなセックスをするときは、おまえが不安を抱えている時か俺に甘えたいとき。今回はそのどちらもだろう。
ごめんな、照れたりなんかして。揺らいだわけじゃないんだ。だから、そんな顔をするな。
「指輪、嵌めてくれ」
言葉じりが震えちまったのは、おまえの泣き虫がうつったせいだ。

「結婚ってなんだろうって、あらためて考えたんです」
汗と精液にまみれた体を洗い流して、心地よい疲労感に包まれながら湯船に浸かる。
俺の背もたれになった長太郎は左手をかざして呟いた。
「婚姻届けは受理されないし、籍を入れるっていう意味では別の方法もなくはないですけれど、そういう法的なことではなくて、結婚って、俺たちが二人で幸せになることを諦めないって、ちゃんと約束することなんじゃないかなって思ったんです」
「約束、か」
長太郎の手に重ねるようにかざした俺の左手の薬指で、マリッジリングが照明の光を反射した。
「はい。約束しあって、一緒に生きていくことを結婚っていうんじゃないかなって」
「ちゃんと考えてんだなぁ」
軽い気持ちで今日一日どんなことを考えて過ごしたかを聞いてみたら、こんな真面目な回答が返ってきてちょっと驚いている。俺の方がよっぽど浮かれていたんじゃねぇか。長太郎に背をあずけていてよかった。今はなんとなく、顔を見られるのが気恥ずかしい。
「宍戸さんはどう思います?」
どう、って言われても。
俺には長太郎のような誠意のある言葉は紡げない。だけど想う気持ちだけはきちんと伝えなければならないと強く思ったから、包み隠さずに胸の内を話すことにした。
「俺は……正直、結婚ってものにそれほど興味はないのかもしれない。かたちにこだわる必要はないって考えていたから指輪だっていらないと思っていたし、あの紙切れを燃やしたのだってそうだ。おまえほど真剣に考えたことがあったかと聞かれたら、とてもじゃないけどあるとは言えない」
「それは、わかってるつもりです」
「あ、悪いように取るなよ? 嫌だって言ってるわけじゃねぇんだ」
「はい。それも、わかってます」
湯船の中で長太郎の手を握れば、より強い力で握り返される。
「だから、おまえみたいにいろいろ考えてこの指輪を買ったわけじゃないんだ。ただ、お前が喜ぶと思ったから……俺は長太郎に何かを返したかったんだよ」
「俺に、ですか」
「うん。結局おまえなんだろうな。俺が自分でも予想していないようなことをするとき、その理由は全部長太郎なんだ。一緒に暮らそうって言った時も、指輪買ったのも、全部おまえだからだ。多分これが、意味、なんだと思う」
俺の言ったことはきちんとした回答になっていないと思う。けれど偽りのない俺の気持ちを、長太郎には知っていて欲しかった。
「意味……結婚の、ですか?」
「そう」
「俺が……意味……」
頭の上で長太郎がぽつりと呟いた。
沈黙の中で水面が揺れる。水音は反響して俺たちを包み込んだ。
「あー……俺さ、今まで言ってなかったけど、おまえのことすげぇかわいいと思ってんだよな」
黙りこくってしまった長太郎がまた何かいらないことで思い詰めてしまっていないか心配になって、頑なに秘密にしてきたことを口にしてしまった。
俺としては最後のカードを切ったつもりで少しでも雰囲気が明るくなればという配慮だったのだが、反して予想外の返球が飛んでくる。
「えっと、言いにくいんですけど、俺知ってました」
「へ?」
「宍戸さん、たまに言ってましたよ、酔っぱらったときとか眠い時とか。だから、その、知ってました」
「まじかよ……俺、意外とおまえのこと好きだな?」
「意外とってなんですか。宍戸さんは俺のこと大好きですよ。しかも結構わかりやすいです」
「いやいや、それは嘘だろ」
「それこそ今更ですよ。俺たち何年一緒にいると思ってるんですか」
そうだ、もう人生の半分以上をこいつの隣で過ごしている。
そしてこの先何十年と一緒に過ごしていくことを、今日約束した。
「ああぁ~~~」
「ど、どうしたんですか?」
本日何度目かの実感の波が俺を襲う。長太郎に体重を預け両手で顔を覆ったまま天井を仰げば、腹に回された腕が俺をぎゅっと抱きしめた。
結婚かぁ。そうか、これが、結婚か。
「なぁ、この指輪さ、いつから用意してたと思う?」
俺は腹を決めた。開き直った。
これからおまえに全部聞かせてやろうとおもう。
この指輪に込められた、滑稽なほどのおまえへの愛を!