はじめて好きな人とキスをする長太郎の話

鳳宍webオンリー『月夜に誓う』開催おめでとうございます!

前回書いた『はじめて好きな人に誕生日プレゼントをおくる宍戸さんの話』から数年後、高等部に進学した二人の話。

中等部のころに始まった宍戸さんとのお付き合いは、高等部に進学しても続いている。
テニスをして、お昼と下校は一緒、そしてときどき手を繋ぐ。
あのころから変わったことといえば……なんだろう、あまりないのかもしれない。
隣にいられる時間が増えても宍戸さんを前にしてドキドキするのは昔も今も変わらないし、宍戸さんが話す言葉や俺を見る瞳にいちいち心が弾んで、胸があたたかくなる。
すごく大切で、大好きな人。
先輩で、恋人の、宍戸さん。

高等部に進学して、はじめての一学期終業式の帰り道。
今日は部活がないから、宍戸さんは夏服のシャツ姿だ。
制服のままで一緒に帰るのは久しぶりだった。
宍戸さんは夏になってからというもの、運動したあとにシャツを着るのは肌に貼り付いていやだと言ってTシャツのままで帰ることが多くなった。
制服に着替えて帰ることが一応の決まりではあるから、宍戸さんはスラックスには足を通す。
でも上半身は汗で湿ったTシャツから洗い立てのTシャツに着替えたあと、シャツには袖を通さない。
だらしないと周りの先輩たちに小言を言われても、宍戸さんは帰るだけだからいいんだよと言ってさっさと部室を出てしまう。
夕方の風に吹かれる宍戸さんの背中を追いかけるとき、宍戸さんのにおいに混ざって洗剤の香りがした。
宍戸さんには夏がよく似合う。
Tシャツの裾を翻して歩く宍戸さんが俺を振り返る。
追いつくと、隣に並んだ俺を見上げて目を細める。
部活終わりに宍戸さんを追いかけるのは、その瞬間が好きだからだ。
今日は部活がないので宍戸さんは着替える必要がない。
Tシャツ姿を追いかけることはできないけれど、たまには制服のシャツ姿もいいなぁと横目に盗み見ては思う。
アイロンのきいた半袖のシャツは、まっすぐに伸びた宍戸さんの背中をより一層魅力的にさせると思う。
真っ白い布地が日に焼けた肌を引き立てていて、これもまた夏らしくて宍戸さんによく似合う。
「あちぃー」
宍戸さんは襟のボタンをふたつ開けて、喉もとから涼しい空気を取り込もうとしながら気だるそうに言った。
「こんなに天気いいのにテニスできねぇのかよ」
「設備点検ですからねぇ。しかたないですよ」
宍戸さんはシャツの胸もとを掴んで豪快にパタパタさせ、また「あちぃ」と言った。
雲一つない快晴の昼下がり。
頭のてっぺんがジリジリと焦げつきそうな日差しだ。
「明日から夏休みですねぇ」
「長太郎は高等部にきて初めての夏だもんな。宿題いっぱい出ただろ?」
「はい。びっくりするほど」
「だよなー。俺も去年ビビった」
中等部のころとは比べものにならないほどの夏休みの宿題。
進学して勉強することが増えたのだから当然といえば当然なのだけれど、教室内であちこちからげんなりしたため息が聞こえきたことを思い返す。
「二年生も宿題たくさん出ましたか?」
「去年と同じくらい」
「ってことは来年もこうなのかぁ」
一年後の夏休みも同じ思いをすることは避けられないらしい。
他愛のないことを話しながら歩いていると並木道にさしかかった。
宍戸さんは木陰に寄るようにして歩き、日に当たっていた俺の腕を引いた。
陰の中を二人で歩くと、葉っぱが日差しを遮って宍戸さんと俺に木漏れ日を落とす。
隣を歩く宍戸さんを見下ろせば、宍戸さんのこめかみを流れる汗に光が反射してキラキラ輝いていた。
「一緒にやるか?」
「え?」
木々にとまる蝉たちの声で宍戸さんの声が聞こえにくい。
宍戸さんの方に体を傾けると、宍戸さんは首を伸ばして俺の耳元に顔を寄せた。
「宿題。図書館とかでさ、涼しいし」
「図書館」
宍戸さんの指先が俺の指先を探る。
しっとりとした人差し指を俺の小指に引っ掛けて、宍戸さんは続けた。
「ほら、去年はおまえ大会あったし、俺も合宿とかあったし、夏休みはあまり会えなかっただろ。だから今年は」
「図書館」
「……なに。俺の話聞いてる?」
「すみません、聞いてますよ。ちょっと、へへ、宍戸さんから図書館にお誘いされるなんて」
「なんだよ。おまえが好きそうだと思ったから」
離れていく指先を追いかけて手を繋ぐ。
すると宍戸さんは俺の手を握り返した。
躊躇いのない動作に嬉しくなる。
宍戸さんは暑くてシャツを着るのはいやがるのに、俺と手を繋ぐのはいやがらないでくれるんだ。
「いいですね、図書館。宍戸さんと勉強してみたいです」
にっこり、宍戸さんの目を見て微笑みかける。
こうすれば宍戸さんが笑い返してくれることを知っている。
宍戸さんは納得いっていないひと睨みを俺に寄越したけど、すぐに繋いだ手を大きく振って吹き出すように笑った。

部活休みに待ち合わせた図書館。午前中の早い時間はまだ来館者もまばらだ。
待ちに待った宍戸さんとの勉強会……のはずだったんだけど、俺のノートは真っ白のまま、一向に宿題が進む気配がなかった。
なぜなら、宍戸さんと肩を並べて勉強をするというシチュエーションにドキドキがとまらなくなってしまい、なにも手につかなくなっているからである。
これにはさすがの宍戸さんも呆れ顔だ。俺だって自分がこうなってしまうとは予想だにしていなかった。
このままではいけないと何度もシャープペンを持ち直してテキストに向かっては、長いため息がとまらなくなって胸を押さえてしまう。
うっかり口を開こうものなら宍戸さんの勉強姿について熱弁してしまいそうだ。
私服の宍戸さんが俺がまだ習っていない上級生のテキストを広げ真剣なまなざしで宿題に取り組んでいる姿を間近にして、どうして平常心を保っていられるというのか。
だがここは図書館、静かにしなければならない。
葛藤しながら胸を押さえて肩で息をする俺を、宍戸さんは片手で頬杖をついて見ていた。
そんな姿にもときめいてしまってついに「かっこいい」と声が漏れてしまうと、宍戸さんは諦めたように首を振って「帰るか」と言った。

「すみません、すみません!」
図書館からの帰り道。
平謝りで頭を下げる俺を、宍戸さんはカラッとした声で笑った。
「ほんっと、おもしれーやつ」
「だってぇ」
「勉強するだけなのに」
宍戸さんはからかい混じりに俺の腕を拳で小突いた。
学年が違う俺たちは一緒の教室で勉強したことがない。当然、机を並べたこともない。
だから、図書館での勉強会は俺にとって貴重な体験すぎたのだ。
宍戸さんの隣にいるのはコートの中が一番長いから、縦横無尽に動き回る姿は毎日のようにみている。
でも静かに集中して考え込んでいる姿を見るのは新鮮だった。
宍戸さんの涼しげな目もとや、襟足のかかったうなじや、袖から伸びた日焼けした腕が、まるでいつも見ているものとは別のもののように見えてドキドキした。
コートの中の宍戸さんも、机に向かう宍戸さんも、同じ宍戸さんなのに別人のようで、俺は違う人に恋をしてしまうのかと錯覚しそうになった。
そんなわけない、どの宍戸さんは宍戸さんだって頭ではわかっているのに、どうしても目を離すことができなかったんだ。
「どうするよ。宿題おわんねぇぞ」
あんなに集中できない姿をさらしたというのに、宍戸さんは俺と一緒に宿題をすることを諦めないでいてくれるらしかった。
「図書館はだめだしなぁ」
「あの、だったら」
俺も宍戸さんと一緒に夏休みの宿題をしたい。
思いつく場所はひとつしかなかった。

「ねぇー母さんー、コーラとか買ってなかったっけー」
「買ってないでしょ。誰も飲まないのに」
「え~~」
ダイニングと部屋を行ったり来たりする俺を喧しそうに眺める母さんの視線が痛い。
宍戸さんとは、一旦解散して昼ご飯を食べてからうちに集合することになった。
図書館がだめならうちで勉強会しませんかという俺の誘いに乗ってくれたのだ。
今は一時五分前。もうすぐ宍戸さんが来てしまう。
昼食のあと部屋の片づけをしていたら、あっという間にこんな時間になっていた。
いつもは宍戸さんがうちにくるときは前もっていろいろ用意しておくのに、急に決まったものだから宍戸さんに出す飲み物もお菓子もない。宍戸さんは炭酸の入ったジュースが好きなのに。
「もうすぐ来ちゃう」
「アイスティーなら冷蔵庫に入ってない? お姉ちゃんが買ってたやつ」
「えー、アイスティー? あのパックのやつ? 嫌いじゃないとは思うけど……。でもお姉ちゃんのでしょ? やめとくよ、勝手に飲んだら怒るもん」
「大丈夫じゃない?」
「そうやって、他人事だと思って」
他人事だもんねぇ、と母さんは膝の上でくつろぐフォルを撫でながら顔をのぞき込んでいる。
クーラーの効いた部屋で悠々自適に過ごしているフォルは、母さんからのちょっかいを嫌がるそぶりもなくニャアと高い声で鳴いた。
ちょうど同じタイミングで玄関のチャイムが鳴る。
「宍戸さんだ!」
「フォル~、宍戸くん来たって。フォルも一緒にご挨拶する?」
母さんはまたフォルの顔をのぞき込んだ。
「しなくていいってば!」
「はいはい」
「部屋にも来ないでね!」
「わかったから、早く中に入れてあげなさいよ。外で待たせたら暑いでしょう」
そうだった。宍戸さんが待ってる。
ダイニングを出て小走りで玄関まで急ぐ。
スニーカーをつっかけてドアを開けたら、昼前に会った姿のままの宍戸さんが汗を拭いながら立っていた。
「よ、ようこそ」
「おう。お邪魔します」
宍戸さんがうちにくるのは初めてではない。
何度もお互いの家に行き来しているのに、いつまでたっても玄関でのやりとりには緊張してしまう。
宍戸さんは慣れた様子で靴を脱いで揃えると、俺に断りを入れてから洗面所に向かい手を洗った。
水の流れる音を聞いていると、ふと背後に気配を感じた。振り向くと母さんがリビングのドアから顔を出していた。
「宍戸くん、いらっしゃい。いつも長太郎と遊んでくれてありがとう」
「母さん!」
来なくていいって言ったのに!
フォルを抱えながら廊下に出てきた母さんに、さっきしたばかりの約束を破られた。
洗面所から出てきた宍戸さんは丁寧に頭を下げて挨拶し、母さんの腕の中のフォルを撫で始めた。
礼儀正しい宍戸さんはうちの家族からとても好かれている。
お姉ちゃんも父さんもおばあちゃんも、みんな宍戸さんのことを気に入っていた。
フォルだってそうだ。うっとり目を細めたりして、俺に撫でられるときよりも気持ちよさそうにしちゃって。
遺伝子レベルで宍戸さんの魅力にやられてしまう家系なのだろうか。
そんなんじゃないな。宍戸さんは鳳家だけじゃなく、みんなに好かれる素敵な人だから。
「って、こんなところで立ち話させちゃ悪いでしょ!」
二人の会話が盛り上がりそうになってきて、慌てて間に入る。
このままリビングに宍戸さんを拉致されたらたまったものではない。
「宍戸さんは俺と宿題しにきたんだからね」
「あら、そうなの?」
母さんには昼ご飯のときに話しておいたのに、聞いていなかったのか知らない振りをしているのか。
「まぁ、一応」
宍戸さんははにかみながら頭の後ろを掻いた。
「そういうことだから、部屋には来なくていいからね」
「はいはい」
「絶対だよ!」
さっき簡単に約束を反故にされたので念には念を入れておかなきゃ。
宍戸さんの背中を押して、二階に上がる。
階下から「ふたりっきりがいいんだってー」「ニャァア」と一人と一匹の間延びした会話が聞こえたけれど、無視を決め込んで部屋のドアを閉めた。
「おまえの母ちゃん、相変わらず明るい人だな」
テキストの入った重いバッグを下ろした宍戸さんは、ラグにあぐらをかいて俺を見上げた。
さわやかな笑顔が眩しい。
図書館でみた真剣な表情とのギャップが俺を簡単にたまらなくさせる。
「自分の部屋なのに、なにボーッと突っ立ってんだよ」
胸の奥をぎゅーっとさせられながら宍戸さんの隣に腰を下ろす。
距離が近くなると、心なしか部屋の温度が上がったような気がした。
太陽の光をたっぷり浴びてきた宍戸さんから、夏の熱さがうつってきたみたいだ。
クーラーを効かせておいたはずなのに、このままじゃ汗ばんでしまいそう。
「そうだ、喉かわいてないですか? って言っても、ジュース切らしてたんでアイスティーくらいしかないんですけど」
「麦茶じゃないのが長太郎んちって感じするよな」
「あっ、麦茶の方がよかったですか?」
しまった。水出し麦茶のティーバッグはキッチンで見かけた気がする。作っておけばよかった。どうして気が回らなかったんだろう。
「いやいや、冗談だって。おかまいなく、ってやつ」
宍戸さんは遠慮するけれど、そういうわけにはいかない。
すぐに戻りますと言い残してダイニングに行くと、フォルがソファーの上で丸くなっていた。
グラスに氷を入れ、冷蔵庫から紙パックを取り出してアイスティーを注ぐ。
あとで怒られたら母さんにかばってもらおうと思ったけれど、振る舞う相手は宍戸さんなのだから思うほど怒られないかもしれない。
トレーにグラスを二つ乗せて部屋に向かう。
ドアを開けると、宍戸さんはなぜか正座をしていた。
「お茶持ってきました」
「あ、うん。ありがとな」
「どうしたんですか?」
「へ? なにが?」
「正座してるから」
ローテーブルにグラスを並べながら聞くと、「なんでもない」とつぶやいた宍戸さんはもぞもぞと腰をずらしてあぐらの体勢に戻った。
隣に腰を下ろして「どうぞおくつろぎください」とアイスティーをすすめる。
宍戸さんは「旅館かよ」とつっこみつつ、グラスに口を付けた。
「甘い」
「え、あれ?」
一口飲んでみる。
紅茶というよりはジュースに近い味がした。桃っぽい香りとフルーツのような甘さ。オーソドックスなアイスティーの味を想定していた舌が直接的な甘味にびっくりしている。
「長太郎んちって甘党なのか?」
「これ、おね……姉が買ってきたもので、すみません、こんなに甘いなんて知らなくて」
「でも美味いかも」
「そうですか? よかった」
「長太郎もこういう味が好きなのか?」
「え? うーん、どうだろう」
もう一口飲んでみる。
甘さの中にも、一応紅茶の風味はあるみたいだ。
それに案外さっぱりしていて、飲めなくもない。
「うん、好きかもしれません」
「かも?」
「……かも」
「ってことはそれほど好きじゃないんだな」
宍戸さんは断言した。
自分を納得させようとしていたことを見透かされた気がしてどきりとした。
「ど、どうして」
「長太郎って本当は好みがはっきりしてるのに、他人に気をつかって言えないタイプだろ」
「そんなことは……」
「おまえは優しいからな」
宍戸さんはアイスティーを気に入ったらしく、グビグビと喉に流し込んでいく。
複雑な気持ちだった。
見透かされて情けない気持ちと、よく見られていたということがわかって気恥ずかしい気持ち。
なにより、俺の本音を断言するほど宍戸さんが俺のことをわかっていてくれて嬉しい気持ち。
いろんな気持ちが入り混じって居たたまれなくなり膝を抱えると、勢いがついて宍戸さんの肩にぶつかってしまった。
「わりぃ」
「すみません」
声が重なって、目が合った。
顔が熱い。ほっぺたが赤くなってくるのが自分でもわかる。
宍戸さんはそんな俺の顔を見て目を丸くすると、伝染したかのようにじわじわとほっぺたを赤くしていった。
思わずお互いに目を逸らし合う。見つめ合ったままでいられないのは、俺も宍戸さんも同じだった。
静まり返った部屋には、窓の外の蝉の声だけが微かに響く。
気まずさとは違うのだけれど、何か話さなければと思えば思うほど言葉が出ない。
どうしても宍戸さんを意識してしまって顔が熱くなるばかりだ。
アイスティーを飲み干した宍戸さんがテーブルにグラスを置くと、氷がカラリと音を立てた。
「俺の、も、飲みますか」
やっと絞り出した言葉は途切れ途切れになってしまったけれど、声がひっくり返らなかっただけマシかもしれない。
テーブルの上を滑らせるようにしてグラスを宍戸さんの方にやると、宍戸さんは何も言わずに手に取った。
一息に半分を飲み干して、口元を手の甲で拭う。
また目が合って、胸の奥が尖ったもので突かれたようにグッと苦しくなった。
「なぁ」
宍戸さんはテーブルの上のグラスを揺らして氷を鳴らした。
「なんか、変な感じだな」
「変、ですか」
「こういう感じ、なんつーか、えっと」
宍戸さんは、珍しく歯切れの悪い言い方をした。
「あぁ、はは、こういう感じ、はは」
つられて、わかってないのに意味もなく相槌を打ってしまう。
「な、こういう感じ。うん。なんだ、その、久しぶりっつーか」
「久しぶり?」
「なんかよ、ほら、付き合ったばっかの頃みてぇな」
「付き合ったばっかの……」
宍戸さんはグラスから手を離して黙り込んでしまった。
付き合ったばかりの頃、か。
あの頃、好きという気持ちだけが先走っていた。
思いが通じてもどう接したらいいのかわからなくて、すれ違っては一人で悩んで、それでも宍戸さんと離れたくなかった。
もどかしい、あの感じ。
宍戸さんが言いたいのは、こういうことなのかな。
今はもうすれ違うことは少なくなったけれど、ドキドキしてうまく言えないのは変わっていないのかもしれない。
部屋で二人きり。手を伸ばせば届く近さなのに、遠くも感じる。
横目で宍戸さんを見ると、うなじから背中に繋がる背骨が一つ、他より浮き出ているのが見えた。
制服のシャツやレギュラーユニフォームでは襟で隠れているところが、Tシャツだと露わになる。
そっと、自分のうなじを触ってみた。
指を滑り落とすとかたい骨にあたる。
宍戸さんの骨も俺のと同じようにかたいのだろうか。
想像して、触れてみたくなって、俺に触られた宍戸さんはどんな風に反応するのか妄想したら、顔がもっと熱くなった。
顔だけじゃない。頭まで茹で上がりそうだ。
「どうした? おまえ、さっきより真っ赤だぞ」
宍戸さんは心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「だって」
「だって?」
「うぅ」
「唸ったってわかんねぇって」
「考えてみたら、なんか」
「なにを考えたって?」
「……宍戸さんの」
「俺の?」
「宍戸さんの、うなじ」
「うなじが、なに?」
「の、下の、骨のとこ」
「はぁ? 骨ぇ?」
「……かたいのかな、って」
再び部屋が静まり返る。宍戸さんはポカンと口を開けて俺を見ていた。
だめだ、すごく恥ずかしいことを言った気がする。
なにをわけのわからないことを口走っているんだ。
耐えられなくなって、膝を抱えた腕に顔を埋めた。
本当に何を言っているんだ。骨がどうした。ただでさえ何とも言えない空気だってのに、わけのわからないことを言って宍戸さんを困らせてどうする。
ぐつぐつと茹った頭がグルグル回転して気を失いそう。
「触ってみるか?」
「えっ」
思いもよらない宍戸さんの言葉に跳ねるようにして頭を上げる。
口から出た声が自分でも驚くほど大きくて、反射的に両手で口元を覆った。
宍戸さんは一瞬目を丸くして、そしてニヤッと笑った。
「やっぱ、だめ」
「えぇ!?」
「はは」
宍戸さんがフローリングについたお尻をずらして、俺の方に体を向けて近づいてくる。
もともとそんなに離れてはいなかった距離が、じわじわと縮んでいった。
伸びてきた右手に頭を撫でられる。撫でられたときのいつもの癖で、反射的に目を細めて伏せてしまう。これは宍戸さんの手のひらをもっと感じていたいせい。
宍戸さんの手のひらの感触は、いつも温かくて優しい。眠れない夜があったとしても宍戸さんに撫でられたらイチコロで、きっと朝までぐっすりだ。
視線を感じて、伏せていた瞼を上げた。
俺を見ていた宍戸さんの目線が、ゆっくりと俺の瞳を離れて斜め下に動いていく。
目線を追うようにして、頭の上の手のひらが動く。
宍戸さんは俺の耳の後ろの髪の毛を撫でて、うなじに触れた。
動くなとも喋るなとも言われていないのに、金縛りにあったみたいに身動きが取れなかった。
宍戸さんの指先がうなじの真ん中を滑り落ちていく。
ぞくぞくぞくっと背骨が震えそうになって、息を止めた。
口元を押さえていた手に力がこもる。
俺がゾクゾクしたことを、宍戸さんにはバレてはいけない気がした。
体の芯が痺れるようなこの感覚は、急所を触られる怖さからくるものなのか、それとも俺が感じたことのないなにかのせいなのか。
メカニズムはわからない。
どうして宍戸さんに隠さなくちゃいけないものだと強く思ったのかも、今の俺にはわからなかった。
「骨って、ここのことか?」
宍戸さんは指先で俺のうなじの真ん中あたりにくるくると円を描き始めた。
そこが骨なのかどうか、正直に言うと触られている側の俺はよくわからない。
なにもかもがわからないことだらけなのに、気付けば首を縦に振って頷いてしまっていた。
何度も何度も、まるで宍戸さんの言うことが絶対であるかのように。
体の火照りが一向に冷めない。
頬も、目の奥も、耳たぶも熱い。
撫でられているうなじは、もっと熱い。
「長太郎に黙っていられると、なんつーか」
宍戸さんは俺のうなじに触れたまま俯いて黙り込んだ。
触れられているところから宍戸さんの体温が浸食してくる。
宍戸さんは今、なにを考えているんだろうか。
指先からうなじを通って俺の頭の中に聞こえてきたらいいのにな。
宍戸さんの指先が動いて、俺のうなじの骨を一回り撫でた。
ゆっくりと時間を掛けて顔を上げた宍戸さんは、わずかに上目遣いに俺を見た。
アイスティーに浮かぶ氷みたいな宍戸さんの瞳は、つやつやと滑らかな光を放っている。
宍戸さんは俺の目を見て、逸らして、また見てを繰り返した。
溶け始めた氷が水面に浮かんで揺らめいているみたいだと思った。
宍戸さんの手のひらが俺のうなじから離れていく。
ぬくもりが消えていくのが惜しくて、でも離さないでと言えないでいる自分がいやになった。
「なんか言わねぇの」
宍戸さんは、口元を覆っている俺の手の甲に触れた。
うなじを撫でたときと同じように、指先が甲のすじに沿ってスーッと一本の線を引く。
まっすぐな瞳に見つめられながら、魔法をかけられ自由を奪われたかのごとく俺の両手は宍戸さんの両手にとらえられていた。
宍戸さんにされるがままに自分の体が動いてしまうことに、なんの不思議も感じなかった。
指先がゆるりとからみ合う。
宍戸さんの顔が近づいてくる。
もう、目を逸らすことは出来なかった。
「どうする?」
「え?」
息がかかるほどの近さで、宍戸さんは囁くように言った。
「……する?」
「はい」
何をするのか、聞かなかった。
直感なのか本能なのか、俺の意志が迷うことなく宍戸さんを受け入れていた。
きっと、考えるより先に心がわかっていた。
俺がしたいと思ったことと、宍戸さんがこれからしようとしていることは同じことだと。
近づくと、近づいてくる。
俺と宍戸さんの距離がなくなる。
息をつめて、ほんの一瞬の出来事だった。
宍戸さんの唇に俺の唇が少しだけ触れ合った。
はじめてのキスは、感触を覚える間もなく離れていった。
体が勝手に動いた。
離れていく宍戸さんの手を引いた。
宍戸さん動きを止めたところで、もう一度唇をくっつける。
柔らかくて、あったかくて、もっとしたい。
気持ちを止めることはできなくなっていた。
宍戸さんのことを好きな感情でいっぱいになった心が、俺の体を突き動かす。
けれど、膨らみすぎてはちきれそうになった衝動をどうしていいのかわからない。
押し込めることもできず、ぶつけることもできない。
こんな気持ちになるのは生まれて初めてのことで、ひたすらに宍戸さんの指にきつく指を絡めて唇を押し付けることしかできなかった。
頭の芯がボーッとする。まぶたを開いていられない。
うなじがチリついて、体の力が抜けそうになる。
こんな感覚を、俺は知らない。
はじめて宍戸さんと手を繋いだ時だって、こんな気持ちにはならなかった。
満ち足りたかと思えば、次の瞬間には足りなくなる。
底の割れたコップのように、注いでも注いでも目減りしていく。
もっと、もっと、したくなる。
近づいて、いっぱい触れて、離したくない。
「ん……ちょ」
息の上がった宍戸さんの声にハッとして、意識がクリアになっていく。
まぶたを開いて見下ろすと、宍戸さんが俺の下にいた。
フローリングに寝そべる宍戸さんに覆い被さった体勢で、両手は絡んだまま繋ぎとめているような格好だ。
全身の毛穴から汗が噴き出た。
「あ、わ、」
喉の奥が詰まって言葉が出ない。
俺は一体なにをしていたんだ。宍戸さんを押し倒すだなんて! 夢中になりすぎて、こんな格好になっていることにも気付かないなんて!
興奮で沸騰寸前だった体は一転して血の気が引き、頭は混乱して真っ白になった。
「びっくりした」
「ご、ごめんなさい! こんなことするつもりじゃなかったんです! どうしよう、ごめんなさい」
「別に謝らなくていいけどよ」
「でも、あの、ごめんなさい! すぐどきますから!」
急いで体を起こそうとした。
なのに宍戸さんは俺の手を離さなかった。
「あ、あの」
「そんなに良かった?」
「え」
「しちゃったな」
キス、とはっきり言った宍戸さんは、おでこまで真っ赤にして笑っていた。
「あー、やっぱ恥ずいな」
ははは、と照れ隠しなのか、宍戸さんは鼻の頭にしわを寄せている。
その顔を見ていると、みぞおちの辺りがムズムズとしてくる。
宍戸さんのことが可愛く思えてどうしようもなくなると、いつもこんな風に落ち着かなくなる。
でも、いつもとは少し違う気持ちも湧いてきた。
宍戸さんのことを思いっきり抱きしめてみたい。
試合に勝ったときにするようなハグではなくて、もっと宍戸さんを近くに感じたい。
はじめてのキスで舞い上がっている自覚はあった。
でも宍戸さんも笑ってるし、少しくらい甘えてみても今なら許してくれるかな。
「宍戸さぁん」
「んー?」
「俺、今すごく、宍戸さんのことをギューッてしてみたいです」
「今?」
「いま」
「しかたねぇなぁ」
宍戸さんは俺の手を離して起き上がった。
あぐらに座りなおして、俺と向き合う。
そして、両手を大きく広げた。
「いいぜ。俺も長太郎のこと、思いっきりギューーーってしてみてぇ」
躊躇いなんてこれっぽっちもなかった。
飛び込んで抱きついたら、宍戸さんに力いっぱい抱きしめられた。
「あははは、苦しいです」
宍戸さんの指先が俺の背中を力強くつかまえる。
抱きしめられて、抱きしめる。
宍戸さんの首すじから宍戸さんのにおいがする。
ぴったりくっついてドキドキするのに、とても心地いい。
「おまえ、やっぱり体温高いよな」
「そうですか?」
「手ぇ繋ぐときいつもぬくかったからさ、抱きついたらどうなんだろうって思ってた」
「宍戸さんも、そういうこと考えたりするんですね」
「普通にするだろ。俺の考えてることなんか、長太郎とそんなに変わんねぇぞ」
腕をゆるめた宍戸さんが、俺のほっぺたを両手で包む。
「もう一回したい」
宍戸さんは俺の目をまっすぐに見つめて言った。
なにをしたいのかなんて、聞かなくてもわかった。
だって俺の考えていることと宍戸さんの考えていることが変わらないなら、きっと今、俺たちの気持ちは同じなのだから。
「俺も、したいです」
今度は暴走しない。
まぶたを伏せた宍戸さんの唇に、唇を寄せた。
もう一度、そっと触れて、離れて、目が合って、笑い合う。
「宍戸さんとキスするの、好きです」
宍戸さんと二人で覚えたキスは、どこまでも優しくてあったかい。
「俺も、おんなじこと思ってた」
俺にしか見せないふにゃふにゃな笑顔になった宍戸さんに、もう一度キスされる。
たまらなくなってまぶたをきつく閉じたら、またキスをされた。
「長太郎のその癖、いつまでたっても治んねぇな」
眉毛を下げて笑う宍戸さんは、俺のまぶたにも覚えたてのキスをくれた。