2/14→3/14

宍戸さんの2/14と、長太郎の3/14のお話。両片思いから始まる恋。

2/14

恋心を拗らせている自覚はある。
先輩という立場を利用してそばに居続けここまできた。
そのせいで、今更進むことも引くこともできなくなっている。
同じ大学に通う長太郎は、去年の秋ごろに一人暮らしを始めた。
長太郎が自炊に苦戦しているのをいいことに、しょっちゅう押し掛けては夕飯をともにしている。
部屋に上がり込んでいる手前、食材を買っていくのはもっぱら俺の役割だった。
何を食べるか前もって相談するときもあれば、俺の独断と偏見で見繕っていくときもあった。
カレーを煮込んでみたり、ハンバーグを焦がしたり、うまくいってもいかなくても長太郎と狭いキッチンに立っていると楽しくなってしまう自分がいる。
やれ指を切るな、やれ塩を入れすぎるなと、世話を焼いてしまうのも仕方のないことなのだ。
長太郎は俺の言うことを素直に聞き、料理の腕前もだいぶ上がってきたように思う。
もう手助けはいらないかもしれない。
それでも押し掛ける行為をやめられないのは、ひとえに燻らせすぎた片思いが俺を突き動かすせいだ。

さて、本日は一年で一番悩ましい日、バレンタインデーであり長太郎の誕生日である。
長太郎がもらってくるチョコレートを横目に一喜一憂するのが毎年の恒例行事だ。
恋愛事情に無頓着な長太郎は、義理本命にかかわらず俺とチョコレートを共有しようとする。
そのご相伴にあずかり、長太郎に贈られたチョコレートの半分は俺の胃に収まってきた。
どんな想いが込められているか痛いほど理解できるから、部外者の俺が食べてしまうことに罪悪感がないとは言えない。
だが同時に、彼女たちの想いごと嚙み砕くことで安堵している自分もいた。
最低なやつだと自分を蔑んでみては、同時にチョコレートを贈ることもできない臆病者と憐れんでもみる。
毎年この日は長太郎の誕生日を祝いたい気持ちとチョコレートを巡る憂鬱さで、胸の奥がしっちゃかめっちゃかになるのだ。
「今日もうち来ますよね?」
大学の構内ですれちがった長太郎は、いつもどおりの屈託のない笑顔で言った。
「あぁ、行くわ。誕生日だろ。なんか食いたいもんあるか?」
「えぇ~別にいいですよ。もう誕生日を祝うって年でもないし」
「でも」
「いいですって。普通で」
適当に持ち寄りましょ、と言い残して長太郎は去っていった。適当が一番ややこしいというのに。
男同士というのはさっぱりしたもので、誕生日にプレゼントを贈りあうなんてことはしない。
去年の俺の誕生日だって何ももらっていない。長太郎と安い居酒屋で飲んで、酔っぱらったまま近所の公園でシーソーをした。なんでそうなったのかは覚えていないが、ひたすらに笑っていた気がする。
だからプレゼントをやりたくてもお返しなんて口実は使えないし、突然プレゼントを贈ったら今までそんなことしなかったのにいきなりなんだという話になる。
ノリで押し切ろうにも、柄じゃないことをして白けてしまうのが関の山だろう。
どうしたものかと思いつつ、最寄り駅に直結している百貨店の食品階に足が向いた。
ケーキでも買っていくべきかといくつかの洋菓子店の前を行き来しては、決心がつかず一歩を踏み出せない。
さらに悪いことに今日はバレンタインデー当日だ。
あちこちの店でチョコレートが全面的に売り出されていて落ち着かないったらない。
浮足立った雰囲気にまいってしまって立ち去ろうとした矢先、出口へ向かう途中に期間限定の催事場があった。
全国から集めたご当地ラーメンの催事のようで、見たことのないパッケージの袋麺が所狭しと積まれている。華やぐ洋菓子店群とは真逆の趣きがあり、ついついほっとしてしまった。
もうこれでいいか。うまそうだし、面白いし。これなら形式ばったプレゼントにはならない。
興味のひかれるデザインのものを数個買ってみた。ビニール袋に詰められたそれらは食べたことのないものばかり。味は想像できないが、まずくはないはずだ。
収穫を得たことでだいぶ気持ちが楽になって、帰り足にさっきの洋菓子店で小さい箱のチョコレートを買った。
トリュフが二つ入ったそれを、ビニール袋に紛れ込ませてみるくらいの冒険は許されるんじゃないか。
なんだと聞かれたら、もらった義理チョコが混ざったとか、コンビニで見かけたから買ってみたとか、いくらでも誤魔化しはきくだろう。
臆病者にはこれが精いっぱい。
微々たる可能性に賭けるくらいなら、今のままの関係でいい。
長太郎のそばにいられなくなると想像するだけで足元が揺らぐのだから、現状維持が最適解なのだ。
だからこのトリュフに想いを込めてはいけない。
ただの甘いかたまりを、長太郎が齧ってくれたら十分だ。

進むことも引くこともできない拗らせすぎた片思いは、形を変えずに俺の中にあり続ける。
これからも、きっと。

3/14

宍戸さんが帰ってしまった部屋は、心なしか肌寒くなる気がする。
冬のせいじゃない。
きっと、宍戸さんのそばにいることで高揚していた気分が普段通りに戻ってしまうせいだ。
今日は誕生日だった。
特別なことをしたかったわけではなくて、宍戸さんを呼んでいつものようにありあわせの晩ご飯を食べられればそれだけで幸せ。
だからなにもいらないと言ったのに、宍戸さんは手土産をもってきてくれた。
俺へのプレゼントだったと自惚れていいのだろうか。
気まぐれに買ってきたと言っていたけれど、見たことのないパッケージの袋麺はそこらのスーパーで買えるようなものではないはずだ。
それに、買い物袋の奥底に隠すように入っていたチョコレート。宍戸さんはコンビニで買ってきたなんて言っていたけれど、ああいったブランドのものがコンビニで売られているだろうか。
やっぱりそうかも、とムズムズする口端を押さえながらベッドに突っ伏して、さっきまでのことを思い出す。
買い物袋の底に隠された小さな箱を開けて、まぁるいチョコレートを頬張った。
噛み砕くと、甘い味が口のなかいっぱいに広がる。
そのとき感じた宍戸さんの視線。
宍戸さんはラーメンをすすりながら、横目でこっそり俺を見ていた。
目が合ったわけじゃない。でも、わかる。ときどき感じる、普段とは違う宍戸さんの視線。
無関心を装ったあの瞳に見つめられると、うなじのあたりがゾクゾクする。
話しかけると宍戸さんは俺から目線をそらして、当たり障りのない言葉を発して、それから他意のないまっすぐな瞳で俺を見る。ふざけあって、笑い合って、普段通りのなにも変わらない宍戸さんになる。
だから、やっぱりそうかも、と思うのだ。
目は口ほどに物を言う。
なんともいえない空気感でわかっちゃうことってあるでしょう?
宍戸さんは俺のことをただの後輩とは違う気持ちで思っているかも。
なんて、俺の願望が思わせる勘違いかもしれないけれど、どうしても舞い上がってしまうのだ。
だって今日は誕生日なのだから。
しかもバレンタインデー。
宍戸さんからのチョコレートだなんて、たとえその気がなかったとしても、そう結び付けて浮かれてしまうじゃないか。
仕方ないよ。そうだったらいいなって、ずっと思ってきたんだから。
「はぁ……好きだなぁ」
漏れてしまった声が、自分でも引いちゃうくらい甘ったるくてびっくりした。

そうこうしているうちに一か月が過ぎた。
三月十四日。言わずと知れたホワイトデー。
宍戸さんとは、今日もうちでご飯を食べる予定になっている。そのついでにクッキーを作るので食べていってくださいとメッセージを送った。
せっかくのホワイトデーだ。バレンタインデーにもらったチョコレートのお返しをしたい。
たとえ宍戸さんにそんな気がなかったとしても、完全なる俺の自己満足であったとしても、気持ちを返す真似事をさせてほしいのだ。
午前中は講義がないので、ひとりキッチンに立って下準備をする。
小麦粉とバターと砂糖を混ぜて、クッキー生地を作った。調べたとおりに分量を量ったし、失敗はしないはず。多分。
宍戸さんは夕方に来ると言っていたから、午後の講義のあと帰ってきてから焼いても間に合う。
一緒に焼きたてクッキーを食べるんだ。

「すでに甘ぇよ」
玄関に一歩踏み入れた宍戸さんに開口一番つっこまれる。
部屋中がクッキーの焼けた甘いにおいに包まれていて、洗面所で手洗いを終えた宍戸さんは胸いっぱいに息を吸い込みながらキッチンに入ってきた。
「おいしそうなにおいでしょ」
「本当に長太郎が作ったのか?」
「やだなぁ、疑ってます? って言っても混ぜて焼くだけですけどね」
オーブンレンジを開けて鉄板を取り出すと、甘い香りがいっそう濃くなった。
「よかったぁ。焦げてない」
「すげぇな。クッキーだ」
「正真正銘のクッキーですよぉ。さ、食べましょ! コーヒーと紅茶、どっちにします?」
二人分のコーヒーを淹れつつ冷ましたクッキーを皿に並べて、リビングに持っていく。
リビングテーブルに向かい合わせに腰掛けた宍戸さんは、さっそくクッキーをひとつ摘まみ上げて口に運んだ。
驚いたように眉を上げて咀嚼しながら、俺に向かってうんうんと頷いている。
「うまいじゃん」
「口に合いました?」
「おう。長太郎も食えよ」
ほっと胸をなでおろしてクッキーを頬張ると、ほのかに温かく優しい甘みが口の中でほろほろと崩れていく。
「あ、おいしい」
「な」
宍戸さんはクッキーをまたひとつ摘まんで口の中に放った。
気に入ってくれたようで、三個目、四個目と次々に放り込んでいく。
「宍戸さんって甘いもの好きでしたっけ」
「普通。でも、これはうまい」
モゴモゴさせながら答えた宍戸さんは、コーヒーを流し込んで一息ついた。
「頭使ってたから腹減っててさ。助かったぜ」
「えぇーそうなんですか? 講義で? もしかして今日、忙しかったですか……?」
多忙なときに誘ってしまって悪かっただろうか。
「レポートが、ちょっとな」
「すみません。そんなときに呼んでしまって」
「別に、大丈夫だって。ここに来るのは、むしろ」
宍戸さんは不自然に言葉を切る。
一瞬目を泳がせたと思いきや、またひとつクッキーを頬張って自ら口をふさいでしまった。
こういうところだ。
こういう些細なブレーキが俺を喜ばせてしまう。
いつもの宍戸さんだったらしないような目線や行動や言葉から感じられる、俺を意識しているのではという期待。
宍戸さんが見せる小さな小さなほころびが積もり積もって、もうほとんど確信といっていいのではないかと焦れったくなる。
いっそ言ってしまおうか。宍戸さんのことが好きですと、思い切って気持ちをぶつけてしまおうか。
でも、万が一俺の気のせいだったら目も当てられない。
気が逸って玉砕したなんてことになったら、宍戸さんはもうこの部屋には来てくれなくなってしまうだろう。
確かめたいけれど、間違いたくない。
間違いたくないけれど、やっぱり確かめたい。
ほの甘いクッキーに絆された、ほんの少しの出来心だった。
「チョコレートのお返しです」
「……え?」
「今日はホワイトデーですから」
目を丸くした宍戸さんと視線がかち合う。
その瞳が揺らいで、俺の期待を確信に変えた。
もう少し宍戸さんの背中を押したら、言ってくれたりしないかな。
俺のことを、好きだって。
「宍戸さん、びっくりしてます?」
「なに、が」
「俺がチョコレートのこと、気づいてたの」
「は」
「俺はね、宍戸さんがくれたチョコレートが甘かったこと、あれからずっと忘れられないんですよ」
クッキーをひとつ頬張る。ほのかな甘み。あの日のチョコレートは、この何倍も甘かった。
「クッキー、まだ残ってますよ」
「おまえ」
皿を差し出した俺の手を見つめる宍戸さんは、眉間にしわを寄せて俯いた。
しまった、と思った。
俺はなにかを間違えた。
「どうしてそんなにつらそうな顔をするんですか?」
「そんな顔してない」
「してます」
「してねぇって!」
宍戸さんの瞳に射抜かれる。
俺をまっすぐに見る宍戸さんは険しく表情をこわばらせていた。
怒っているかのようで、それでいて取り返しがつかないことをしてしまったかのように怯えているようにも見える。
こんな宍戸さんを見るのは初めてだった。
「俺のこと、怖いですか?」
「……は?」
「そう見えます」
宍戸さんの喉仏が上下する。
ゆっくりと目線が外れていって、また深刻そうに眉根にしわを寄せた。
宍戸さんが何かを考えている。
また宍戸さんの気持ちにブレーキをかけて、飲み込んでしまった。
俺が踏み込んだのは、宍戸さんの不可侵領域なのか。どんなに言い当てても本心を見せてくれるつもりはないらしい。
無力感に襲われて、とてつもなく悲しくなった。
「どうしてですか」
「……」
「俺のことを、好きなくせに」
鼻の奥がツンと痛くなって、喉が絞られるように苦しくなる。
熱くなってくる目元を隠す前に涙がこぼれてしまう。
生まれつきゆるい涙腺が憎い。
声が震えてしまおうが、聞き苦しかろうが構わない。
胸いっぱいに重くのしかかる悲しみを吐き出さずにはいられなかった。
「気づかないとでも思ってたんですか。あんなに俺のこと見てたくせに。もうテニスしてないのに、しょっちゅううちに来て。俺たち、もうダブルスじゃないんですよ。学部だって違うし、一緒にいる意味なんてないんですよ。なのに、いつも隣にいるじゃないですか。なんでですか。俺といたかったからじゃないんですか」
頭の片隅で、ひどい言いがかりを口走っているなぁと呆れ果てている自分がいる。
だが暴走を止められず、勢いはどんどん増していく。
涙が口の中に入って塩辛い。
優しすぎるクッキーの甘さなんて、一瞬で消し去られてしまった。
「勘違いじゃないと思うんですよ。根拠はないけど、わかるんです。宍戸さんは俺のこと好きなんでしょう? なのに、どうしてそんなにつらそうな顔をするんですか。俺のことを好きなのは、つらいことなんですか。いやです、そんなの。俺は宍戸さんのことを好きだって思うとき、とても幸せで優しい気持ちになれるのに、宍戸さんはそうじゃないんですか?」
ほとんど泣き喚いていた。
最悪の告白だ。
こんなつもりじゃなかったんだ。宍戸さんの気持ちを聞いて、俺の気持ちを聞いてもらいたかっただけなのに。
泣き顔をさらしていたくなくて立ち上がる。
椅子が大きな音を立てて倒れたけれど、どうでもよかった。
寝室に逃げ込んでしまいたかった。
悲しい涙が枯れるまで泣き潰れてしまいたかった。
「長太郎!」
踵を返そうとしたとき、腕が力強い手に掴まれた。
振り返ると、宍戸さんがテーブルに手をついた不安定な体勢で俺を引き留めている。
テーブルが動いてずれた衝撃のせいか、皿から飛び出たクッキーがテーブルの上に散らばっていた。
「泣くな」
「泣きたくて泣いてるんじゃありません。宍戸さんが、宍戸さんが」
「悪かったから、頼む、もう泣くな」
掴まれた腕が熱い。宍戸さんの手のひらが、どんどん熱を帯びていくみたいだ。
宍戸さんは俺の腕を掴んだままテーブルを回りこんでそばに来た。
俺を見上げて、瞳を泳がせて、うつむいてしまう。
また、宍戸さんはブレーキをかけたと思った。
拒絶されたように感じて、目が熱くなって、鼻の奥が痛くなってくる。
「長太郎」
宍戸さんはうつむいたまま俺を呼んだ。
「なんですかぁ」
口を開くと、一緒に涙が溢れてしまう。
宍戸さんに掴まれていない腕で涙を拭っても、どんどん溢れて苦しくなる。
「俺は、怖いよ」
宍戸さんが小さくつぶやいた。
「ここに来られなくなるのが怖い。大学で会っても、目も合わせてくれなくなるかもしれない。二度と今までみたいに話すこともできなくなったらどうしようって、ずっと考えてた」
「俺はそんなこと」
掴まれた腕が強く握られて、何も言えなくなる。
宍戸さんは静かに続けた。
「さっき言われて、ハッとした。好きだって気持ちは、つらいものだと思い込んでた」
「え?」
宍戸さんがゆっくりと顔を上げる。
俺を見上げて、困ったようにちょっとだけ笑って、そして唇を引き結んだ。
「長太郎」
宍戸さんの唇が震えている。
細められた瞳は、次の瞬間、みるみるうちに潤みだした。
「俺は、おまえを好きでいても、いいか」
「いいに、決まってます」
宍戸さんの瞳から涙が零れ落ちてしまうより早く、俺の視界は水の膜でぼやけてしまった。
まばたきしても、拭っても、次から次へと止めどなく溢れてくる。
それでも懸命に涙を押しやれば、視界の先の宍戸さんは眉を下げて笑っていた。
「泣くなっつってんのに」
「宍戸さんだって」
俺の腕を掴んだままの宍戸さんの手を取った。
もう片方の手もあわせて、二人で両手を取り合う。
交互に「好き」と言い合えば、胸の中を占めていた悲しみはきれいさっぱり消えてなくなっていた。
繋いだ両手を見下ろす。
宍戸さんのかさついた指先は、俺の手をしっかりとつかまえていた。
「もうブレーキは、なしですね」
首を傾げながら目元を赤くして見上げてくる宍戸さんのひたいに、ほんの数秒だけひたいを合わせてみる。
どうしてそんなことをしたくなったのかはわからない。
わからないけれど、そうしたかった。
俺よりちょっとだけひんやりしている宍戸さんのおでこ。
一瞬なのに、この先もずっとこの体温を忘れることはないと思った。
ドキドキしながらひたいを離したとき、宍戸さんは「度胸があるんだか、ないんだか」と大げさにため息をついた。
それから俺たちは、泣き顔を突き合わせて笑った。