ワンドロお題お借りしました。
「ひとつだけ、わがままを聞いてやる」
頭上から降ってきた声に、一呼吸おいて鳳は顔を上げた。窓際のフローリングに直に腰を落として足の爪を切っていたのだ。息を吸いながらそれが己に向けられた言葉だと認識し、切っている途中だった爪を切り終えたときに息を吐いた。
そして考えた。見上げた宍戸の表情は普段通りのものだ。今日が特別な日であるわけでも、喧嘩して仲直りしたあとでもない。宍戸にわがままを聞いてもらう道理はないはずだった。だったらなぜ、突如としてこんなことを言い出したのだろうか。こういうとき、鳳の思考はポジティブには働かない。もしや宍戸には自分に対して後ろめたいことがあるのではないだろうか、その罪滅ぼしでわがままを聞いてやるなど言い出したのではないか、そういえば昨日は帰りが遅かった、考えたくはないことだが万が一浮気でもされていたらどうしよう、浮気をする男は恋人に優しくなるというではないか、どうしよう、日曜の昼間っから呑気に爪なんて切っている場合ではなかった、どうしよう、どうしよう…!
「あーあー、真っ青になっちまって」
宍戸の腕が伸びてきて鳳の前髪を撫ぜた。指先は柔らかな銀髪を梳いて、手のひら全体で鳳の頭頂を撫でる。
宍戸には鳳が何を考えているか、その表情を見ただけでわかった。わかってしまうくらいに二人は深く時を重ねている。
宍戸は鳳を見下ろして小さくため息をついた。鳳を見つめる宍戸の瞳には揶揄い混じりの憐れみと、心配性の恋人を愛でる庇護の色が滲んでいた。
「先に言っとくけど、他意はないから」
「そうなんですか…?」
「ひでー。俺って信用ねぇの?」
「え、あっ、ちが、そういうつもりじゃなくて」
思考を見透かされていたことに狼狽える鳳は、なんとか取り繕おうと言葉を重ねた。「宍戸さんがそんなこと言うなんて珍しい」「びっくりしちゃって」「嫌って言うわけじゃないんです」「意外すぎて驚いちゃって」「本当に、びっくりしちゃっただけで」等々。
黙って聞いていた宍戸だったが、鳳のあまりの必死な姿に良心が痛んでくる。わがままを聞いてやると、なんの気なしに言ってみただけのことだったのだ。なのに鳳は宍戸の言葉の裏をあれこれ邪推しては不安がったり、ありもしないことに思い至ってしまったことを省みて弁明しようとしたりする。どうして素直に言葉通りに受け取れないのかと呆れたくもなるが、長らく片思いを拗らせてきた鳳のことを思うと強く言えない気持ちもある。鳳がこうなってしまったのは、半分くらいは自分のせいなのだろうと宍戸は思っていた。
いずれにせよ、軽率な提案がこんな結果を招いてしまったことは宍戸の本意ではない。
「いいよ、もう」
「えっ」
「さっきのはナシ」
「え~!?」
思い切りのいい性格なのだ。宍戸は話を切り上げることにした。
「待って」
頭のてっぺんから離れていく宍戸の手を取って、鳳は懇願した。
「ナシはいやです、ナシは」
「だって、おまえ考えすぎてしんどそうじゃん」
「しんどい!? しんどくないですよ。宍戸さんのこと考えるのはしんどくないです」
「あ、そう」
鳳の両手が宍戸の両手を取る。鳳の指先にこめられた力強さを感じ取った宍戸は、また一つ小さくため息をついた。こうなっては離してはくれないだろうとわかっているのだ。
下から鳳に両手を引かれてしまった宍戸は、仕方なしに腰を下ろした。
鳳が上体を傾けて宍戸に寄り添う。
日差しに温められたフローリングの上で、二人の距離がぐっと近くなる。
目が合って、どちらともなく顔を寄せ合った。
「キスしていいですか」
「わざわざ聞くなよ」
吐息が触れ合う。
「わがまま、聞いてくれるんでしょう?」
鳳の指先が宍戸の指先に絡んで、乞う。
「キスしていい?って聞くから、うんって言って」
「それがおまえのわがまま?」
「はい」
まっすぐに宍戸を見つめ、鳳は囁いた。
「キス、していい?」
絡んだ視線と指先。静まり返ったひだまり。なんて穏やかでロマンチックな昼下がりだろうと、鳳は頬が上気するのを感じた。
だが宍戸は唇を開かなかった。
かわりに勢い任せの口づけがお見舞いされ、勢いがつきすぎてバランスが崩れ、仕舞いには二人とも雪崩るようにして倒れ込んでしまった。
「ちょっと、宍戸さん!?」
「ナシって言ったからな」
鳳の胸に頬を押し付けたまま、宍戸が声を上げて笑う。
わがままを聞いてくれなかった恋人を、鳳の腕が囲う。
いっしょくたになった笑い声がひだまりに溶けた。