Dear My Spook  ~後編~

Dear My Spook  ~前編~
Dear My Spook  ~中編~

※幽霊長太郎×吸血鬼宍戸さん
※死ネタ含みます
※医療にも不思議なものにも明るくない素人が書いた妄想です
※ハッピーエンド

鳳に手を引かれ、誰もいないリノリウムの床を進む。
街で一番大きな病院だ。
宍戸はその存在を知ってはいたが、実際に足を踏み入れたことはなかった。
ここは人間が産まれ、病み、快復し、または死す場所だ。
生命力漲る生気もあれば、今にも消えそうな生気もある。
大きな建物の中をマーブル模様に蠢く生気たちに酔いが回りそうで、宍戸は病院という場所が好きではなかった。
鳳は迷いのない足取りで宍戸を誘導する。
人気のない大きな廊下を曲がるとき、鳳は一度だけ宍戸を振り返った。
点滅する非常灯に照らされた鳳の頬が、いつもより青白く見えた。
どこに連れて行くのか、そう問おうとしたが儚げに微笑まれては口を噤むほかなかった。
静かな病棟に宍戸の足音だけが微かに響いている。
窓ガラスは冷えた気温に白く曇り、二人が通り過ぎればまた元通りになる。
宍戸は鳳の足下を見た。
足はあるが、歩いているのは床ではなく空間だ。だから宍戸と違って足音は鳴らない。
これが幽霊でなくてなんだと言うのだろう。
屋根の上で言葉を交わしてから一向に口を開こうとしない鳳に、宍戸は一抹の不安を覚えた。
宍戸は鳳からあらゆるものを与えられてきた。
食事から身の回りの世話、セックスに至るまで、宍戸の欲するものすべてを鳳は不足なく捧げた。
それなのに、先ほどの宍戸の問いかけには明確な答えを与えてくれない。
理由もなく拒否される経験は鳳に出会ってから初めてのことで、宍戸は自身が想像以上に狼狽えていることを自覚し唇を噛んだ。
狭まった通路を進んでいくと、入院しているであろう患者の気配がよりまばらになってきた。
ここは個室の病棟のようで、かつ、ネームプレートに名前の無い空室が目立つ。
鳳はその通路の一番奥の部屋の前で足を止めた。
繋がれている宍戸の手が、冷たい手のひらに強く握られる。
「つきました」
囁くような声に宍戸が鳳を見上げると、青白い頬を強ばらせた鳳は宍戸を見つめ返し、そしてドアに手をかけた。
「おい、勝手に入っていいのかよ。おまえは人間からは見えないかもしれねぇけど俺は違うんだ。不法侵入なんて厄介なことにでもなったら」
小声で諫める宍戸を余所に、鳳はドアを引いていく。
「問題ありません」
「んなわけねぇだろ。大体誰の病室だっていう……んだ……」
宍戸の目がドア横のネームプレートをとらえた。
そこに書かれている名前に絶句する。
ドアを開け放った鳳に手を引かれ病室に踏み入れた宍戸は、背後にドアの閉まる音を聞きながらその場に立ち尽くした。
繋いでいた手を離した鳳は部屋の中を進み、ベッドを通り過ぎて病室のカーテンを開け振り向く。
淡い月明かりに照らされた鳳のまっすぐなまなざしに見つめられ、宍戸の瞳が揺れた。
そして宍戸はゆっくりと視線をベッドに向けた。
そこには、たくさんの管に繋がれた鳳長太郎が眠っていた。

「ここには五年前から居ます」
「五年前って……」
「宍戸さんに、幽霊の姿で会ったあのころから、ですね」
ドアのそばで立ち尽くしたままの宍戸を、鳳はベッドに腰掛けて見つめていた。
だが宍戸の視線は鳳ではなくベッドに横たわる体に注がれたままで、鳳は寂しげにまぶたを伏せた。
「黙っていてごめんなさい」
「どうして」
「それは、幽霊のふりをしていないと宍戸さんのそばにいられないと思ったから」
「そうじゃなくて……」
絞り出すような宍戸の声にまぶたを開く。
宍戸の瞳は管に繋がれた体ではなく、鳳を見つめていた。
「そうじゃなくて、おまえがこうなったのは……」
「あぁ、この体のことですか」
鳳は立ち上がりベッドを見下ろした。
そして静かに語りはじめた。
「交通事故です。二十歳を過ぎたばかりでした。怪我は大したことなかったんですけど、頭を強く打っちゃったみたいで。目を覚ます可能性はほどんど無いに等しいって。生命活動はしているのに、二度と起きあがることはないでしょうね」
「そんな」
「はじめはショックでしたよ。こんな風に体から抜け出てお化けになっちゃって。でもなっちゃったものは仕方ないし、人ってあっけなく死ぬんだなって思いました。だけど、両親はそうは思えなかったみたいで」
鳳の家は街でも有数の名家だ。未来のある息子の早すぎる死を受け入れられない両親は延命措置を望んだ。十分な資金もあった。いつか目を覚ますかもしれないというわずかな希望を捨てることができなかった。
悲しむ両親に、鳳は何度も訴えた。
死なせてくれて構わない。悲しみを抱えたまま生きるのはやめてほしい。
だが鳳の声は届かない。見えないし、触れることも出来ない。
それから五年間、鳳の体はたくさんの管に繋がれ、このベッドの上で生かされ続けている。
「つまり、おまえは」
「生き霊って言うんですかね。けど、この体に戻ることもできないし、死んではいないから幽霊でもないし、よくわからないものになっちゃいました」
いつものようにへらりと笑って見せた鳳を見つめる宍戸の表情が険しく歪み、鳳は唇を引き結んだ。
事故のあと、目を覚まさない自分にすがりついて泣き暮らす両親を見ていることに耐えられなくなった鳳は、病院を飛び出し、街を浮遊し彷徨った。
そのうち、行く宛もない魂は導かれるように宍戸の住む洋館へとたどりついた。
不思議な感覚だった。来たことがある気がした。
そして宍戸と出会い、鳳は幼い頃の記憶を取り戻した。
それからの生活は楽しかった。笑うことも、触れあうこともできた。
宍戸に抱いた恋心は、死に損ないの鳳にとって唯一の拠り所だったのだ。
「宍戸さんのそばにいることだけが、俺の存在理由だった」
「長太郎」
「宍戸さん、俺は宍戸さんの役に立っていたでしょう?」
鳳の言葉に、宍戸の胸が騒いだ。
まるで今にも消えてしまいそうな口振りに聞こえた。
この告白は最近の鳳の不調と関係があるのだろう。
鳳を引き留めなければならない、そんな気がした。
「役に立つだなんて、そんなこと……俺は本当におまえのことが好きで」
「……嬉しいな。俺も宍戸さんのことが好きですよ。心の底から愛しています」
柔らかく微笑んだ鳳が宍戸に背を向け、ベッドに眠る体から布団をはぎ取った。
白いパジャマのボタンを外し、上半身を露わにする。
突然の行動に驚いた宍戸が近寄ると、鳳は胸のポケットから空の輸血パックと点滴針を取り出した。
「まさか」
「あまり同じところに針を刺すと痕がバレちゃうんで、今日はおなかから」
宍戸を安心させるように小さく微笑んだあと、鳳は手慣れた手つきで自身の肉体に針を刺した。
腰骨の近くに刺された針から、細い管を通って輸血パックに鮮血が溜まっていく。
目の前で行われている行為を、宍戸はただ黙って見ているしかなかった。
「宍戸さんがごはん美味しいって言ってくれるの、いつも嬉しかったんです」
鳳の言葉に宍戸はハッとした。
鳳はいつも宍戸に血液を運んできた。
病院で盗んできたという鳳の言葉を疑いもせず、宍戸は鳳の献身を甘受した。
その血液が鳳自身のものだとは、微塵も想像だにしていなかった。
「宍戸さんには俺の血だけを飲んでいて欲しかった。でも幽霊のまずい血より、ちゃんと肉体のある人間の血の方が美味しいのは当然でしょう? だったらここにいる俺から調達すればいいかなって」
「おまえ……」
「あ、でもちゃんと取りすぎないように気をつけていましたよ。宍戸さんは、人間の命を大事にする人ですから」
子どものころから知っていますと、鳳は呟いた。
血管から針を抜いた鳳が、血液の溜まったパックをポケットに仕舞う。
パジャマのボタンを付け直していく鳳の指と、眠る肉体の腹が同じように青白く見えて、宍戸はわずかに眉根を寄せた。
いくら目覚めることのない肉体だからといって、身勝手に血を抜き取っていいものではない。
自らの意志で血液を提供する献血とは違うのだ。
それがたとえ本人の仕業であったとしても、決して許されることではないはずだ。
「長太郎」
宍戸の声に鳳が顔を上げる。
鳳を諫めようとした宍戸は、しかし、鳳の表情が曇っていることに気づき言葉を発することが出来なかった。
「わかっています。宍戸さんがこんな行為を許してくれないことくらい。でもどうしても、他の人の血を飲んで欲しくなかった。宍戸さんの体を巡るのは俺の血であってほしかった」
鳳の表情が今にも泣き出しそうに歪む。
おのずと差しのべてしまった宍戸の手を、鳳は強く握った。
「ごめんなさい。俺のことを許してくれなくたっていい。でも、どうしても最後に宍戸さんに知ってもらいたかった」
「さい、ご……?」
「宍戸さんに俺の血を運ぶのは今夜が最後です」
「どういうことだ」
「……俺の両親の心が決まったようです」
目を覚まさない鳳に会いに毎日足を運んできた両親は、五年という歳月を経てようやく前に進む決意ができたらしい。
「明日、俺の生命維持装置が外されます」
「それって」
「えぇ。明日、俺は死にます」
表情を歪めながら無理矢理に笑って見せる鳳を見上げ、宍戸はなんと言葉を紡いだらいいのかわからなかった。
宍戸は、しがみつくようにして鳳を腕に掻き抱いた。
冷たい腕が宍戸を抱きしめてもなお、宍戸は不安に駆られ鳳を強く抱きしめた。
肉体が死を迎えたら、今この腕の中にいる鳳はどうなってしまうのだろうか。
過去を知り己の存在を理解している魂は天に召される。だったら、鳳も他の魂たちと同じくこの世を去ってしまうだろう。
だから鳳は思い悩んでいたのか。
宍戸は唇を噛みしめた。
鳳の魂を思えば成仏した方がいいに決まっている。この世に彷徨うだけのあやふやな存在で居ることが魂の救済にならないことくらい、宍戸は十分理解している。
だが、宍戸にはこんなにも恋しい存在を失えるわけがなかった。
「なんとか」
「……ならないってことはわかっています。それは宍戸さんも、ですよね?」
宍戸はきつくまぶたを閉じた。
生命というものは、神でも仏でもない吸血鬼がどうにかできるようなものではない。
お互いがここに在り続けることを願っても、鳳の魂は生命の理によってこの世を去ってしまう。
今夜が二人にとって最期の夜となる。抗うことはできないのだ。
「宍戸さん、俺の最期のお願い、聞いてくれませんか」
「最期とか言うんじゃねぇ」
「はい。でも、お願いです」
腕を緩めても離れようとしない宍戸の黒髪を優しく撫でて、鳳は懇願した。
繰り返し、囁くように懇願し、やっと腕を緩めた宍戸の肩を抱いてベッドの上部へと誘導する。
そして眠る体の首もとをくつろげ、鳳はその首すじを宍戸に晒した。
「俺の血が流れています。どうか、噛んでくれませんか」
目を丸くして見上げてくる宍戸に、鳳はなおも懇願した。
「抜き取った血じゃない、今、この瞬間も俺の体を流れている血です。まだ生きているんです。今夜が最後なんです。明日俺の体がなくなっても……俺が消えても……忘れないでいてほしいから、だから……」
鳳は宍戸を見つめ、氷のように冷たい涙を流した。
頬を伝い、ぽとりぽとりと雫が零れる。
宍戸はその頬を包み、涙を拭った。何度も何度も拭い、溢れる涙で濡れる鳳の瞳を見つめた。
これは鳳にとって譲れない願いであることは宍戸にも伝わっていた。
無抵抗の人間に噛み付くなど、宍戸の信念に反する。
しかし、涙を流し懇願する鳳を無碍にすることなど宍戸には出来なかった。
宍戸は躊躇いながらもベッドに手をつき、上体を傾けた。
本当に噛み付いていいものだろうか。
逡巡する宍戸の鼻腔を人間の匂いが刺激した。それは嗅ぎなれた匂いよりも何倍も色濃い、生きた鳳の匂いだった。
何年も感じていなかったはずの本能的な空腹と牙の疼きが瞬時に蘇る。
鋭く伸びた牙を首すじに触れさせただけで、宍戸はこの肉体を求めずにはいられなくなった。
柔肌に牙が突き刺さる感触は宍戸の頭を痺れさせ、溢れ出る鮮血は宍戸の舌と喉を悦ばせた。
熱い血潮が宍戸の官能を揺さぶる。唇と舌が触れた肌は温かく、宍戸は涙がこみ上げそうになった。
宍戸はこのとき、恋しい人間に牙を剥くという経験を生まれて初めて味わっていた。
その背中を見つめる鳳も噛まれていないはずの首すじに痺れる痛みと甘い疼きを感じ、体の芯が震えるのを抑えることが出来なかった。
この愛しい吸血鬼に、己の肉体から直接血液を与えるということが、これほどまでに激しく魂を歓喜させるとは。
じゅるじゅると血液を吸い上げる音が、生命維持装置の機械音に混じって病室に響く。
宍戸は、この肉体が干からびるまで血を吸っていたかった。
鳳は、この肉体が枯れるまで血を吸い尽くして欲しかった。
首すじから顔を上げた宍戸がゆっくりと鳳を振り返る。
瞳孔は細く、獣のように鋭い。
口元を血で真っ赤に染めた吸血鬼のまなざしに射抜かれ、鳳は体温を持たない体が沸騰してしまうように感じていた。

充満している血液の香りも朝までには薄れるだろう。
月明かりで.満ちる病室には、首すじに二つ穴の空いた鳳長太郎の肉体だけが取り残されていた。


獣のような呻き声と、息も絶え絶えな喘ぎ声。
ドアも開け放たれたまま、服も床に脱ぎ散らかされたままの寝室で、二人はひとときたりとも互いを離すまいと体を繋げた。
鳳の怒張に貫かれ、シーツの上で背を弓なりに反らせて宍戸は達する。
宍戸の陰茎から吐き出された精液は鳳の腹を汚し、鳳はそれを手のひらで拭い取って啜った。
胸を大きく上下させながら宍戸はその様子を見上げ、腹の中できつく鳳を締め付ける。
いじらしい貪欲さをあざ笑うかのように律動が再開され、吐き出される精液に宍戸の腹の奥は侵略され続けた。
宍戸を抱き抱えようとする鳳の手は汗に滑り、シーツに沈んだ宍戸は朦朧とした瞳を鳳に向ける。
蹂躙されてもなお、そのまなざしは病室で吸血したときのまま情欲に燃えていた。
突如、宍戸の視界が反転する。
鳳によってうつ伏せにされた体に鞭を打ち、宍戸はよたよたと膝を折り曲げ腰を高く上げた。
アナルから漏れ出る白濁が震える太ももを伝う間もなく、再び堅いペニスに貫かれる。
突き上げられる衝撃に体がずり上がってしまうのが煩わしくて、宍戸は必死にシーツを掴んだ。
宍戸の意図を汲んだのか、はたまたひと突きごとに離れてしまうのを煩わしく感じたのか、覆い被さった鳳が体重で宍戸の体を押さえつける。
押しつぶされた宍戸は満足な呼吸もままならないまま何度も腹の奥で達し、とめどなく精液を垂れ流した。
密着した肌が汗で滑り宍戸の体をうまく固定できなくなると、鳳は宍戸を振り向かせて抱き起こし自身を跨がせた。
力の入らない体を抱き抱えるようにして下から挿入を果たすと、濡れる宍戸の唇に舌を這わせ唾液を啜る。
胸を合わせてきつく抱きしめたまま後ろに倒れた鳳が、宍戸を下から突き上げ始めた。
自分の体重でより深い挿入を許してしまう。
更に張りつめた亀頭が鳳の腹に擦れて責め苦を味わう宍戸の声は、すでに嬌声すら発せないほどに枯れていた。
宍戸は洋館に戻ってきてから鳳に噛みついてはいない。
血を啜っていないのに、催淫の力は働いていないのに、二人は我を忘れるほどに欲情し溺れていた。
宍戸は鳳の体を自身の体に刻みこみたかった。鳳は自身の体を宍戸に刻みつけたかった。
これが最期の触れあいならば、鳳が消えるそのときまで繋がっていたい。
宍戸は杭で心臓を貫かれたようだった。
鳳は流れていないはずの血潮がたぎるようだった。
下から突き上げられている宍戸が深く達し体を震わせる。
その最奥に白濁を放つ鳳も同じく、快感に震え宍戸を掻き抱いた。
鳳長太郎という人間の生き血を飲み下し、その魂の迸りを腹に受け、そうやって宍戸亮という吸血鬼が構成されつつある。
そう感じてしまうほどに宍戸は鳳で満たされていた。
「たった、五年ぽっち、だ」
鳳の胸に倒れ込み、汗と白濁にまみれ自由の利かない体を預ける宍戸が、吐息の合間に呟く。
のしかかる重みを受け止め、宍戸の頬に張り付く黒髪をはらいながら鳳はそのひたいに口づけた。
「三百年生きてきて、たったの五年だぞ」
「うん」
「五年なんて、まばたきよりも短い。それなのに、おまえはもう、いってしまうのか」
「宍戸さん、ごめん、ごめんね」
「違う、謝るな。そうじゃないんだ。俺はただ」
宍戸の声が上擦り、顔を押しつけられた鳳の胸元に熱いものが流れる。
「俺は、俺はもう、一人はいやなんだ」
それは鳳が初めて耳にする宍戸の本心だった。
鳳は宍戸を抱きしめながら溢れてしまう涙を止められなかった。
孤独など平気な風を装っておいて、本当はとても寂しがり屋で心優しい吸血鬼なのだ。
この五年でいやというほどわかった。いや、それよりもずっと前から、迷子だった幼い自分を助けてくれたあのときから知っていた。
こんなに自分を愛し求めてくれる恋人をたった一人残し、明日鳳は消える。
なんて残酷で無慈悲なことをしてしまうのだろう。
宍戸を抱き抱えたまま体を起こした鳳は、両手で宍戸の頬を包み顔をのぞきこんだ。
快楽と悲しみで泣き腫らした目元に何度も口づける。
何度も何度も口づけて、愛していると繰り返し囁く。
互いに涙を止められなくても、冷たく優しい口づけは宍戸を癒した。
「生まれ変わって、宍戸さんに会いに行きます」
「そんなこと、出来るかどうか」
「それでも、会いに行きます」
宍戸は生まれ変わりなど信じてはいないし、広い世界で再びあいまみえるなんて不可能に近いと知っている。
けれど鳳が言うのなら、信じてみてもいいかもしれないと思った。
それに、どうせ潰えない命だ。百年待とうが、二百年待とうが、さして変わらない。
だったらこんな不確かな口約束に縋ったって、許されてもいいはずだ。
「叶うかどうかわからない願いを抱いて、生きろって言うんだな」
「はい。だから、宍戸さんはずっと俺を待っていてください」
「おまえが会いに来るまで死ねもしないのか」
「はい」
濡れる瞳は強いまなざしで宍戸を見つめている。
宍戸は鳳の頬を流れる涙に口づけた。
「今度は人間のままで会いに来い。おまえの血は美味かったから」
「それはそれは、嬉しいな」
「だから、なるべく早く」
会いに来いと宍戸が言う。はい、と鳳は宍戸に口づけた。
窓の外では太陽が高く昇っていた。

10

早朝。
陽の昇りきらないうちにバルコニーに出て、ひとつ伸びをする。
足の踏み場もないほど所狭しと並べられたプランターには、様々な種類の薔薇が植えられていた。
水をやり、雑草を抜き、丁寧に手入れする。
それが終わったら小さなガーデニングテーブルを水拭きし、洗い立てのクロスをかける。
椅子を整え、部屋に戻ってオーブンを覗くとちょうどパンが焼き上がったところだった。
水を入れたケトルを火にかけて、バターと手作りのアプリコットジャムをバルコニーのテーブルに並べる。
ポットにダージリンの茶葉を入れて準備は完了。
「さて、と」
キッチンを出てすぐにある寝室にノックをせずに入る。
狭い寝室の中は、その面積のほとんどをベッドが占めていた。
「おはようございます。もうすぐ朝ですよ」
こんもりと盛り上がるベッドの中心に声をかけるが、身じろぎ一つする様子がない。
そっと毛布をめくると、横向きに眠る無防備な姿が現れた。
「早く起きないと太陽に当たっちゃいますよ」
毛布を腰までめくり、寝間着の裾から手を差し入れる。
そして温かな肌を手のひら全体で撫でた。
「っっっっ! 冷てぇ!」
目を白黒させながら飛び起きたのは宍戸亮。三百歳を超える吸血鬼だ。
「何度も起こしたのに全然起きないから」
腰に手をあてて見下ろすのは鳳長太郎。
晴れて正式に幽霊となった、宍戸の恋人だ。

あの日、存在が消えてしまうまで離れまいとしていた二人は、日が昇り、そして沈んでも鳳が消えないことに首を傾げた。
生命維持装置が外されるのは今日だったはずなのに予定が変わったのだろうかと、二人は再び真夜中の病室に忍び込んだ。
そこに鳳長太郎は居なかった。
きれいに整えられたベッドと名前の入っていないネームプレートから察するに、彼の生命維持装置は予定通り外されたようだった。
しかしこの目で死んだことを確かめないとすっきりしないと言い出した鳳は、宍戸を連れて両親の住む実家まで出向き、そこで自分の通夜を目の当たりにした。このとき鳳は自分の死を実感して少なからずショックを受けた。
こうして鳳が死んだことがはっきりしたが、だったらなぜ魂は今もこの世にとどまり続けているのか。
二人はわけがわからないまま数日を過ごした。
そしてある日、鳳が宍戸に内緒で自分の肉体から余分に抜き取っておいた血液のストックが底をついた。鳳は背に腹を変えられず病院に輸血パックを盗みに行こうとしたが、なぜか洋館から出られなくなっていた。正確には、建物からは出られても空中で透明な壁に突き当たってしまうのだ。
まるで見えないドームに覆われているかのように閉じこめられてしまった鳳は、棺桶で眠る宍戸に泣きついた。
宍戸には、眠っているところを叩き起こしたことと、他人の血液を盗みに行こうとしたことをきつく叱られた。鳳自身の血液しか飲ませたくないとか言っていたくせにと、多少拗ねられもした。
宍戸の健康を思ってのことだったと平謝りした鳳は、洋館から出られなくなっていることを打ち明けた。
少し考え込んだ宍戸は蝙蝠の姿になり、鳳についてこいと告げた。
言われたとおりに、夜空に飛び立つ宍戸のあとを追いかける。すると、行き止まりだったはず空間をなんなく越え、どこまでも宍戸について行けた。
少し飛び、森の木の上に止まった宍戸は、ここから一人で行ってみろと鳳に指示した。
言われたとおりに飛んだ鳳だったが、またもや見えない壁にぶつかりひたいを打った。
木の枝に人型になって腰掛ける宍戸のもとに痛むひたいをさすりながら涙目になって戻ると、宍戸はなぜか嬉しそうに破顔し鳳の髪をわしゃわしゃと混ぜ込んだ。
『よくやった長太郎!』
わけもわからず褒められた鳳は、その後、宍戸に取り憑く背後霊になっていることを聞かされた。地縛霊は土地に縛られその場所から動けないが、鳳は土地ではなく宍戸に縛られており、宍戸のそばを離れられなくなっていた。
鳳は大いに喜び、興奮して飛び回り、そして案の定空中の見えない壁に頭から激突し大きなたんこぶを作った。

「朝ごはんの準備はとっくに済んでますよ。焼きたてパンが冷めちゃうじゃないですか」
バルコニーに出た宍戸は、小言を背に受けながら伸びをした。
ここからは海が一望できる。まだ薄暗いが、陽の光を反射してキラキラ輝く海は宝石のように美しい。
あの洋館を去って数か月が経っていた。
鳳と二人で海を越えやってきたこの街で、宍戸は高台に建つ小さなアパートの一室を借りた。
この部屋を選んだのは鳳だった。人の住む場所から離れて生きてきた宍戸だったが、宍戸の身の回りの世話をしようにも彼から遠く離れることの出来なくなった鳳が生活の利便性を根気強く説いたのだ。買い物ひとつを取っても宍戸と一緒でなければ出歩けない。だから市場や商店街に近い場所に住んだ方が得策だったというわけだ。
「血と薔薇と紅茶があれば生きていけるんだから、わざわざ食いもんなんか用意しなくてもいいのによ」
鳳が引いた椅子に腰かけた宍戸が、テーブルに頬杖をつく。
「そりゃそうかもしれませんけど、せっかくこんな素敵なところで暮らしてるんだからパンくらい焼いてもいいじゃないですか」
パンと紅茶を運んできた鳳がテーブルに並べる様子を、宍戸はあくびを噛み殺しながら眺めていた。
「素敵なところってなぁ……」
「宍戸さんと違って俺は初めての海外暮らしなんです! 地中海にマルシェに、見たことないものばっかりで毎日楽しいじゃないですか」
「おまえの楽しいに付き合わされてる俺の身にもなってくれ。毎日あちこち連れまわしやがって」
「あちこちって言ったって近所でしょ。いくら不老不死だからって、散歩くらいの運動は必要ですよ」
テーブルの上のバスケットに手を伸ばした宍戸が白パンをちぎって口に運ぶ。
文句を言いながらも味はお気に召したようで、半分を食べ終わったところでアプリコットジャムにも手を伸ばした。
「宍戸さんはここに来てからお行儀悪くなりましたよね。前は髪がボサボサのまま部屋から出たりしなかったのに」
鳳は食事を続ける宍戸の黒髪を梳き、細いリボンで低めの位置に一つにまとめた。
宍戸は古来の吸血鬼らしく、身だしなみをきちんとすることを信条としていたはずだった。
しかし越してきてからはどうにもゆるく、悪く言えばだらしなくなった。
「なんでもしてくれるヤツが側にいるからな」
「それって俺のことですか? そりゃあ、なんでもしますけど」
「なんだよ、今日の長太郎は優しくねぇな。俺が人間の血ぃ飲まないかわりになんでもしますって言ったのはおまえじゃねぇか」
「それは宍戸さんが血を盗むのは良くないって言うから。昔は何も言わなかったくせに」
「じゃあおまえは他のヤツの血を飲む俺を黙って見てられんのかよ」
「それは……」
「ほらな」
宍戸は人間の血を飲まなくなった。
なぜか。鳳の生き血を味わった記憶を薄れさせたくないからだ。
代わりに幽霊である鳳の血を飲み、丹精込めて育てた薔薇を食べて生きている。
紅茶は趣味だ。栄養補給ではない。
その他の食べものも紅茶同様栄養にはならないが、鳳が楽しそうに作るものだから文句を言いつつも食べている。
「ん」
宍戸がジャムを塗ったパンを差し出した。
鳳は伸ばされた手に顔を近づけパンに嚙り付く。咀嚼する鳳を見上げて宍戸は「どう?」と聞いた。
「んー、いい焼き具合です」
「うまくなったな」
散々文句を言うくせに、鳳の料理の腕前が上達することは喜ばしいようで、こうやって不意に褒めてくる。
鳳は頬を緩ませ、宍戸のひたいにキスを落とした。
「俺だって食べる必要はないんですけどね。でも宍戸さんと美味しさを共有できるから料理したくなっちゃうんですよね」
紅茶のおかわりを取りに嬉しそうに部屋の中に戻っていく鳳の背を見送り、宍戸は外の景色に目を細めた。
この街に辿り着いた日、近くの教会の前を通りながら鳳は言った。
『永遠の愛を誓うなら死んでしまえばいいんですよ。そうすれば、ずっと愛する人のそばにいることができる』
鳳の言うことは結果論であって、一度は永遠の別れを覚悟した宍戸にとっては諸手を挙げて賛同できるものではない。
だが命を失ってもなお宍戸のそばに居ようとした鳳だから、今もこうやってともに在る。
これはまぎれもない事実であり、永遠の愛などというものがあるのだとしたらそれは鳳のことを言うのだろうと、宍戸は傍らに浮遊する幽霊を見上げて思った。
「今日は何をして過ごしましょうかねぇ」
持ってきたポットから宍戸のカップに紅茶を注ぎながら鳳が言う。
日の高いうちはなるべく部屋の中で過ごすのが二人の日常だ。
丘の上の洋館と違ってこじんまりとしたこの部屋では、鳳の掃除の手もあっという間に行き届いてしまう。
宍戸も庭の手入れをしなくて良くなった分、時間を持て余していた。
「この薔薇さ、このまま食べてもいいんだけど、なんか美味く出来ねぇの?」
宍戸は紅茶を口に含みながらバルコニーに咲き乱れる薔薇を指さした。
いつも宍戸は薔薇の花びらをちぎってそのまま食べている。まずくはないが美味くもない。血の代替品としてこれからも食べ続けるわけだから、味が良くなることに越したことはないだろう。
そんな軽い気持ちだった。
「えっ! この薔薇、使ってもいいんですか?」
声を弾ませる鳳を見上げ、宍戸はしまったなと心の中でひとりごちた。
「前からコンフィチュールとかローズティーにしてみたいなぁって思ってたんですよ! でも宍戸さんが大切にしている薔薇だし、なかなか言い出せなくて。わぁ~嬉しいな! 宍戸さんのお許しが出たのなら遠慮なく!」
テーブルにポットを置いて、鳳はさっそく薔薇の吟味を始めた。
プランターに植えられた薔薇をひとつひとつ覗き込み、花の香りを確かめている。
宍戸は余計なことを言ってしまっただろうかと鳳の手元に視線を這わせた。
薔薇に触れる鳳の指の動きに見覚えがあり、ふと思考を巡らせた。
そしてある記憶に行きつき、宍戸はいたたまれなくなってカップに口を付けた。
近頃、宍戸を抱く鳳の手つきが変わった。
以前のように荒々しく翻弄するときもあるが、大抵は宍戸の体をいたわりながら拓いて昂らせる。その手の優しさに戸惑いを隠せなかった宍戸だったが、甘やかな快感に少しずつ慣れるにつれて、鳳から注がれる慈愛のようなものを心地よく感じ始めていた。
今、鳳は宍戸に触れるように薔薇に触れている。
花びらを傷つけないようにそっと指先を滑らせては、愛おしそうに見つめ微笑んでいる。
いよいよもって見ていられなくなった宍戸は、カップの紅茶を飲み干して立ち上がった。
視界に広がる海が朝日で煌めき始めていた。