夢を見た。
長太郎が笑っていた。
なにもない草原に一つだけ置かれたベンチに座って、俺の隣の長太郎がくすくす笑っている。
なにが面白いのか聞いたら、長太郎は何もない向こうの方を指さして、楽しそうな音楽が聞こえる、と言った。
俺には何も聞こえない。
目を凝らしてみても、遠くの方は霧雨にけぶって何も見えない。
長太郎はまだくすくす楽しそうに笑っている。
俺が何も聞こえないと言っても、長太郎はただ笑って俺を見るだけ。
いつしか霧雨が俺たちを包み、長太郎の姿も見えなくなっていった。
目が覚めて、部屋の真っ白な天井を見た時、とてつもない焦りを感じた。
何故かはわからない。
とにかく、心が急いて苦しくなった。
いつもは頭がしっかり働き始めるまでだいぶ時間が必要なのに、今朝に限ってはもう脳みそがフル回転している。
いや、ただ血が巡っているというだけか。
さっきから心臓がバクバクいって、大量の血液を俺の体に送り出している。
なんだ?
なんで俺はこんなに焦っているんだ?
今すぐ言わなければならないことがある気がする。
何を、と頭が答えを導き出すより先に、俺の右手は枕元のスマホを取って長太郎に電話を掛けていた。
なんで長太郎?
コール音が鳴り始めてから、自分が掛けた相手の名前を認識する。
どうして俺は長太郎に電話をしているんだ?
何を話そうと言うんだ?
自分の行動に理解が追い付かないまま、スマホは長太郎へと発信を続けている。
そして繋がった。
恐る恐る、スマホを耳にあてる。
ゴソゴソと音が聞こえ、それから長太郎の声が聞こえた。
「ふぁい」
明らかについ先ほどまで眠っていた声だ。
そこでようやく、俺は今がまだ朝日が昇りきっていない早朝だということに気が付いた。
「宍戸さん?」
さっきよりも幾分かはっきりした声で長太郎が俺を呼ぶ。
それだけで俺の心臓は、また大量の血液を俺の体にポンプした。
「ちょ、長太郎」
カラッカラの喉から絞り出すように声を発する。
長太郎の名前って、こんなに呼びにくい名前だっただろうか。
いや呼びにくいんじゃない。
意識しなければ呼べなくなっているだけだ。
でも俺はどうして意識なんか?
「こんな朝早くにどうしました?」
はっきりとした声だけど、まだ少し眠気を含んでいる。
またゴソゴソと音がして、長太郎が布団の中にいるんだと言うことが分かった。
そりゃそうだ。寝ているところを俺が起こしたんだから。
「あ、えっと」
「はい?」
「好きだ」
俺は何を言った?
一瞬心臓がポンプを止める。
そして突如、肋骨の中でさっきよりも大きく打ち鳴らして俺の体に血液を流し込み始めた。
スマホの向こうから何も聞こえなくなる。
押し黙る長太郎の無言が、俺が放った言葉がいかに奇抜かを如実に物語っている。
こんなこと言うつもりはなかったんだ。
しかもこんな朝っぱらに、わざわざ叩き起こして言うなんて。
最悪のタイミングだ。
というか、そもそもこんなこと長太郎には言わないでおこうと思っていたんだ。
俺の中でいつの間にか育ってしまった長太郎への想いは、最後まで俺の中に閉じ込めておくつもりだった。
いくつも鍵を掛けて、奥に奥に仕舞って、たまに開きそうになる蓋にまた鍵を掛けて、もっともっと奥に押し込んできた。
そうやって必死にひた隠しにしてきたのに、どうして俺の口は閉じていてくれなかったんだ。
なんで俺自身の願いを、他でもない俺が聞き届けてくれなかったんだ。
あんな夢を見たせいだ。
ふたりきりの世界で、俺のわからないことで長太郎が笑っているのがなんだかすごく嫌だった。
俺と長太郎しかいないのに、長太郎に干渉するなにかが遠くにいる。
その遠くのものに心動かされている長太郎がいる。
長太郎の側には俺がいるのに、俺には長太郎の世界のことがなにもわからない。
見えない、聞こえない、一緒に笑えない。
でもそれは当然のことだった。
だって俺と長太郎には、テニス以外にはなにもない。
趣味が違う。好きな食べ物が違う。興味のあることも、得意なことも全然違う。
俺たちの間には共通項というものがそれほど多くはなくて、それはつまり、テニスがなかったら繋がりを持っていなかったかもしれないということだ。
何もない草原に二人きりだったとしても、俺が長太郎のことをもっと知りたいと思っていたとしても、長太郎は俺ではなく長太郎の世界を見ている。
その世界に、俺は入れてはもらえない。
入れてもらえる資格も権利も、俺は持ってはいないのだから。
わかっている。
こんなの、ただの嫉妬だ。
でも嫉妬する権利すら、俺は持っていない。
俺は俺の気持ちを土深く埋め込んで、芽を出さないようにしてきたのだ。
長太郎のことを好きだという気持ちをなかったことにしようとする俺は、長太郎の世界の外側に居続けることしか許されていない。
それを覚悟の上で気持ちに蓋をしたのに、あの夢が俺の本当の願いをあからさまにしてしまった。
長太郎に気持ちを伝えたい。
伝えて、そして、長太郎の世界に入れてほしい。
もっと長太郎のことを知って、俺の世界を長太郎の色で染めてみたい。
長太郎の好きな音楽、長太郎の好きな場所、長太郎の好きな絵画、長太郎の好きな季節。
長太郎が愛するものたちで俺を満たして、長太郎が楽しそうに笑っていた理由を知りたい。
長太郎の世界に入れてもらったあとに見える霧雨の向こうの世界。
俺はそれを見てみたかったんだ。
「宍戸さん」
鼓膜を震わせたその声には、もう眠気は含まれていなかった。
はっきりと、そしてしっかりとした長太郎の声。
頭から血の気が引いて、けれど手は汗でぐっしょりだった。
「宍戸さんは、俺のことが好きなんですか?」
「いや、あの、忘れてくれ。寝ぼけてたんだよ。冗談、そう、ショーダンだからさ」
「寝ぼけてたら、宍戸さんは俺に好きって言うんですか?」
「それは……でもほんと、ふざけてただけだから。まじで忘れて。ごめんな変なこと言って」
「忘れていいんですか?」
「え」
「本当に忘れちゃっていいんですか?」
「……」
「宍戸さん。ねぇ、答えてください。本当に、宍戸さんの気持ち、忘れちゃっていいんですか?」
「あ……でも……」
「俺は忘れませんよ。宍戸さんに好きだって言ってもらったこと、忘れません。忘れられるわけないじゃないですか」
長太郎は、俺も好きです、と言った。
その瞬間、払っても払ってもまとわりついて鬱陶しかった霧雨が、朝日の光とともに晴れていった。