狐の嫁入り

木々の隙間から見える青い空に、もこもこのひつじ雲が浮かんでいます。
幼稚舎の林間学習でししゃも山に来ていた長太郎は、小枝を拾いに林の中に入ったまま帰り道がわからなくなっていました。
小枝を探しに来たのは同じ班の若に言いつけられたからです。
班ごとにお昼ご飯を作ることになって、長太郎は包丁の使い方がまだあまり上手ではないので火の当番になりました。
火の当番は料理当番の人が困らないように火の管理をしなければなりません。
火が消えてしまったら料理が出来ないからです。
料理当番の若はカレーの鍋でジャガイモを茹でながら火の勢いが弱くなっていることに気付き、長太郎に燃料になる小枝を探してくるよう言いました。
火が消えてはたいへんと、長太郎は一生懸命小枝を拾い集めました。
しかし、一生懸命になりすぎて、いつの間にか林の深いところまで来てしまったのです。
「どうしよう。日吉君……先生……」
拾った枝を両手で抱えた長太郎は、心細い気持ちで涙が溢れそうになります。
林の中は太陽の光があまり届かず、岩には苔がびっしり生えています。
時々カラスの鳴き声が頭の上の方から聞こえてきて、そのたびに長太郎は驚き飛び跳ねました。
うろうろとあちこち行ったり来たりしてしまったため、自分がどちらから来たのかもわかりません。
地面は落ち葉で敷き詰められていて、足あとをたどることもできませんでした。
「僕、ここで死んじゃったらどうしよう」
今朝、家の玄関で笑顔で送り出してくれた家族の顔がまぶたに浮かびます。
もう二度と会えなくなってしまったら。
悲しくなった長太郎はとうとう泣き出してしまいました。
山道を歩きなれていない足は棒のように重く、草むらを進んだせいで脛には葉っぱに切られた細かな傷が出来ています。
怖くて寂しくて、もうそこから一歩も動けません。
ほっぺたを流れる涙が、秋の始まりの風に吹かれて冷たくなっていきますが、両手に枝を抱えている長太郎は拭うことも出来ませんでした。
「坊主、こんなところで何してんだ?」
突然、どこからか人の声がしました。
大人の声ですが、聞いたことがない声なので先生たちではないようです。
近くに住んでいる人がたまたま通りがかったのだと思い、長太郎はきょろきょろと辺りを見回しました。
ですが右を見ても左を見ても、くるっと振り返ってみても誰もいません。
「こっちこっち」
またどこからか声がします。
どうやら上の方からです。
長太郎は喉を反らして上を見上げました。
すると、大きな木の枝に腰かけてこちらを見下ろしている人がいるではありませんか。
長太郎は声を掛けようとして、息を飲みました。
その人の頭の上には大きなきつねの耳があったからです。
よく見ると大きな尻尾も生えています。
神社のお祭りで見るような白と赤の衣を着ていて、真っ黒で長い髪の毛をひとつに結わえています。
「おまえ迷子か?」
その人がまた長太郎に話しかけます。
長太郎はコクリと小さく頷きました。
「そうか。ここら辺には人間が入ってこれねぇように結界を張っておいたはずなんだけどな」
「……」
「子どもが入れるくらいの穴でも空いてたかな」
「……」
「なぁ、おまえ、さっきからぼーっと突っ立ってるけど喋れねぇの?」
「あ、あの」
「おっ、なんだよ、話せんじゃねぇか」
「お、お兄さんは、人、ですか?」
勇気を振り絞って長太郎が聞くと、木の上の生き物はまるで三日月みたいに目と口を細めて笑いました。
「俺が人に見えるか?」
「……み、見えません」
「だろう? 人間にはこんなにデカい耳も尻尾もついてないもんな」
そう言って木の枝を蹴ってふわりと軽やかに飛んだその生き物は、風に乗るようにして空中をゆっくりと降りてきました。
長太郎の目の前に着地した足にはなにも履いておらず、裸足のまま葉っぱの上に立っています。
痛くはないのかなとその足元を見つめていたら、温かい手のひらにそっとほっぺたを撫でられました。
「こんなに泣いて。怖かったな」
優しい声が、気を張って硬くなっていた長太郎の心を包みます。
長太郎は小さいころお母さんにあやしてもらった日のことを思い出して、また涙が出てきました。
「安心しろ。ちゃんともと居たところに帰してやるから」
「うぅ、うえーん」
木の枝をぎゅっと抱きしめて泣き出してしまった長太郎の背中が大きな手のひらに撫でられます。
その手は何度も何度も、溢れてくる長太郎の涙を拭ってくれました。

気がつくと、長太郎は林の入り口に立っていました。
腕には小枝が抱えられていて、涙にぬれていたはずのほっぺたはすっかり乾いています。
「あれ、僕……」
長太郎はさっきまで背中を撫でてくれていた温かい手の感触を覚えているのに、どうやってここに戻ってきたのかまったく思い出せませんでした。
「おい! 鳳!」
向こうから長太郎を呼ぶ若の声がしました。
枝を抱えて走っていくと、鍋の中のジャガイモはさっき切って入れられたばかりのように硬そうです。
長い間林の中をさまよっていたはずなのに、まるで時間が経っていないようでした。
長太郎は首を傾げましたが、班のみんなが忙しく動き回っているので慌てて手伝いに加わりました。
その夜、テントの中で寝袋に包まれながら昼間の不思議な出来事を思い出し、長太郎は小さな胸がほこほこと温かくなるのを感じました。
あの人が木の上からふわりと舞い降りてきたときの、風になびく黒い髪が忘れられません。
木漏れ日がキラキラと反射してとても綺麗だったのです。
長太郎はもう一度優しいあのお兄さんに会いに行きたくなりました。

次の日は朝ごはんのあとに写生の時間がありました。
水筒をぶらさげた長太郎は、スケッチブックと色鉛筆を抱えて、一人こっそり林の中に入っていきました。
ポケットの中には、また脛を葉っぱで切っても大丈夫なように絆創膏が入っています。
苔の生える岩で滑らないように気を付けながら深く深く進んでいきました。
どれくらい歩いたでしょうか。
長太郎は大きな木がたくさん生えている薄暗い場所までやってきました。
「おーい、おーい」
空に向かって声を掛けます。
「おーい」
しかし誰の返事もありません。
長太郎は少し待ってみることにしました。
苔の生えていない岩を探して腰かけます。
スケッチブックを広げて膝の上に置いた長太郎は、緑の色鉛筆で絵を描き始めました。
目の前に広がる林の風景です。
長太郎は絵を描くことが好きなので、夢中になってスケッチブックいっぱいに色を塗り重ねていきました。
時を忘れて没頭し、もう少しで完成しそうだというとき、突然雨が降ってきました。
見上げた空は青く明るいのに、パラパラと雨が長太郎とスケッチブックを濡らしていきます。
慌ててスケッチブックを閉じた長太郎は、すぐ近くの大きな木の根元にぽっかり穴が空いているのを見つけました。
その中で雨宿りをしようと、体を小さくして潜り込みます。
木の穴の中は静かで、耳を澄ますと葉っぱに当たる雨の音が聞こえてきます。
ポツポツ、ポツポツ。
心地いい音色が、長太郎には子守歌に聞こえました。
穴の中のほのかな温かさのせいもあって、長太郎はまぶたが重くなってきました。
「ちょっとだけ、寝ちゃおう」
長太郎は木の穴の中で丸くなり、スケッチブックを枕にして眠ってしまいました。
夢の中で、長太郎は温かい手のひらに頭を撫でられていました。
優しい歌声が聞こえてきます。
『ねんねんころりよ』
長太郎は毛布のような柔らかいものに包まれています。
それは温かくて、いい匂いがして、長太郎を守ってくれているようでした。
とてもとても優しい夢でした。

心地いい揺れに目が覚めると、長太郎は誰かの背中におぶられていました。
その背中の温かさが夢の中で感じた温かさと同じだったので、長太郎はしばらく自分が目覚めていることに気が付かないほどでした。
ぼーっとしていた頭がだんだんはっきりしてきて、長太郎は目の前で揺れる黒髪に気が付きました。
そっと顔を上げてみると、頭に大きな耳があります。
「お、起きたか坊主」
昨日会ったお兄さんの声です。
会いたかったお兄さんに会えたことが嬉しい長太郎は、後ろからぎゅーっと抱きしめてしまいました。
「おいおい苦しいって」
「あっ、ごめんなさい。つい嬉しくて」
「嬉しい?」
「はい。僕、お兄さんにまた会いたくてここに来たんです」
長太郎がそう言うと、大きな耳がピクリと動きました。
「昨日新しく結界を張り直したはずなのに……またどっか穴が空いてやがんのか?」
「え? なんですか?」
「いや、なんでもない。それより、だめじゃねぇか。こんな山ん中に一人で入ってきて、怪我でもしたら危ねぇだろ」
「ちゃんと絆創膏持ってきたから大丈夫です」
「ばんそうこう? なんだそれ」
「絆創膏、知らないんですか?」
知らないというお兄さんに教えてあげたくて、長太郎はポケットに手を入れようと体を捩じらせました。
そのせいでバランスが崩れ、お兄さんがよろめきます。
運の悪いことに木の枝が突き出していて、お兄さんの顔がぶつかってしまいました。
「つっ……!」
「だ、大丈夫ですか?!」
「平気平気、ちょっとぶつかっただけ」
「でも、顔から血が……」
「あー、切れちまったか。気にすんな。こんなのすぐ治る」
「だめです! 傷は早く手当てしないと、バイキンが入っちゃうって先生が言ってました」
頭の後ろで長太郎が何度も降ろしてくださいと言うので、お兄さんは仕方なく長太郎を地面に降ろしました。
長太郎は水筒の水でハンカチを濡らし、お兄さんの目の上に出来た傷にそっとあてました。
赤い血がハンカチに滲みます。
お兄さんは水が沁みるのか顔をしかめましたが、長太郎がごめんなさいと謝ると大丈夫と言って平気な顔をしました。
長太郎には、痛いのに泣かないで我慢するお兄さんがとてもかっこよく見えました。
傷を綺麗にした長太郎は、ポケットから絆創膏を取り出してお兄さんの傷に貼りました。
「ありがとな」
「い、いえ」
お礼を言われたら、なんだか胸の中がくすぐったくなってほっぺたが熱くなりました。
傷の手当てをするので一生懸命だった長太郎は、お兄さんの顔がとても近くにあることに気がついてどぎまぎしてしまいました。
お兄さんの瞳は髪の毛と同じく黒くつやつやしていて、目元はスッとしています。
長太郎も長太郎のお姉さんもクリッとした目をしていたので、お兄さんの目元は自分と違ってとても涼やかですてきだなと思いました。
立ち上がったお兄さんは長太郎に背中を向けてもう一度しゃがみました。
背中におぶられるのがなんだか急に恥ずかしくなってきて、長太郎は自分で歩けると伝えました。
「そうか? じゃあ危ねぇから手繋いでやるか」
差し出された手のひらに長太郎の小さな手を添えると、お兄さんはぎゅっと握って歩き出します。
長太郎は真っ赤になった顔を見られないように、足元ばかりを見つめて歩きました。
こんなにドキドキしたのは初めてです。
けれど、ピアノの発表会のドキドキとも、林の中で迷子になったときのドキドキとも違っていて、長太郎は自分の心臓がおかしくなったと思いました。
「坊主、もうここに来ちゃいけねぇぞ。ここには人間の子どもを食おうとするやつもいるからな」
びっくりすることをお兄さんが言い出したので、長太郎の心臓はまた違ったドキドキになりました。
「お、おばけが出るんですか?」
「んー、おばけか。そうだな、おばけみたいなもんだ」
「おばけは苦手です……」
「ははは、おまえはお化けが嫌いか」
「友達は好きだって言うけれど、僕は……怖い」
「怖いままでいたほうがいい。人間は大人になるとだんだん怖いって感情を忘れていって、ちょっと気をつければ避けられたようなことであっけなく命を落とす。怖いってのは生き物の本能だ。おまえはそれを忘れないでいてくれよ」
お兄さんは少し難しいことを言いました。
長太郎にはその言葉を全部理解することが出来ませんでしたが、怖くてもいいと言われたことで少し救われたような気持ちになりました。
「おにいさんも、おばけなんですか?」
「俺? 俺は、そうだな、人間は神様って言ったりもするけれど、妖怪とも言ったりするしな。昔からここら一帯を見回りしているだけの暇人ってとこかな」
「神様!? お兄さんは神様なんですか?!」
「あはは、こういう反応久しぶりだぜ。おまえは神様を信じるんだな」
「だってサンタさんもいるから神様もいるでしょう? 会ったことはないけれど」
「サンタ? あぁ、たまに空を飛んでる赤いやつか」
「見たことあるんですか!?」
「ふふ、どうだろうな。秘密だ」
お兄さんは唇に人差し指をあててにっこり笑いました。
大人なのにいたずらっこみたいな笑顔をしていて、長太郎はまたドキドキしてしまいます。
落ち着かなくて目が泳いでしまった長太郎は、視界の端に揺れる大きな尻尾が気になりました。
黄色い毛がフサフサしていて、触ったらとても気持ちよさそうです。
「お兄さんはきつねさんなんですか?」
「あぁ。人間の形にもなれるし狐にもなれる」
「すごい! 変身できるんですね!」
「あははは、そんなキラキラした目で見られたのは初めてだ。普通人間は俺みたいなものを見て怖がるもんだぜ」
「お兄さんは怖くありません。俺を助けてくれたもの」
長太郎はなんだか悔しくなって、お兄さんの大きな手をぎゅっと握りました。
泣いているところを助けてくれたこんなにいいお兄さんなのに、他の誰かに怖がられたことがあるという事実が許せなかったのです。
お兄さんはムッとしてしまった長太郎の頭を撫でて尻尾を触らせてくれました。
尻尾の毛は想像したよりもふわふわで柔らかく、そしてほのかに温かでした。
長太郎はさっき見た夢を思い出しました。
こんな風に柔らかいものに包まれていたような気がしたのです。
お兄さんは尻尾を動かして長太郎の顔をくすぐりました。
少しくすぐったかったけれど、肌にもふっと押し付けられた尻尾の柔らかさがなんとも言えない心地でした。
また歩き出したお兄さんと手を繋いで、長太郎は幼稚舎のことや友達のこと、習い事のことや家族のことをたくさん話しました。
お兄さんも、この山のことやこれから成る木の実のこと、最近生まれた野うさぎの赤ちゃんのことを話してくれました。
そうしているうちに二人は林の出口に着きました。
遠く向こうの方では、クラスメイトたちがいろんなところに腰を下ろして絵を描いています。
長太郎はお兄さんを見上げました。
ここでお別れをしなければならないとわかっていたからです。
林間学習は終わりに近づいていました。
明日の朝になったら長太郎は東京に帰らなければなりません。
ここはいくつも県を超えたところにあり、子どもの長太郎には一人で来れるような場所ではありませんでした。
「ほら、着いたぞ。みんなのところに帰りな」
お兄さんが長太郎の手を離します。
長太郎はお兄さんとさよならをするのがいやで、その手を強く握り離そうとしません。
困った顔をしたお兄さんはしゃがみこみ、長太郎の顔を覗き込みました。
「なに泣きそうな顔してんだ。おまえのいる場所はあっちだぞ。人間の友達とたくさん思い出を作りな」
「お兄さんとは、もう会えないんですか?」
「そうかもしれねぇし、そうじゃねぇかもしれねぇ。でもまた一人で勝手にこの山に入ってきてはいけないぞ。おまえみたいな小さな人間の子どもを食いたがってるやつらがいっぱいいるんだ」
「僕が、子どもだから……?」
「あぁそうだ。おまえが食われたら悲しむ人がいっぱいいるだろ?」
長太郎の頭の中に家族の顔と友達の顔が浮かびました。
きっとみんな、長太郎がいなくなったらたくさん探すだろうし悲しい思いをさせてしまいます。
長太郎にはそのことがわかっていたので、このままお兄さんと一緒に林の中にいたいと言えなくなってしまいました。
「僕、お兄さんのことをずっと忘れません。お兄さんに助けてもらったことも、おんぶしてくれたことも、尻尾を触らせてくれたことも全部、全部全部、ずっと忘れません」
長太郎は、ありがとうございましたと言ってお兄さんに頭を下げました。
大きな手のひらが長太郎の頭を撫でます。
涙が出そうになるのをグッとこらえ、長太郎は頭を上げました。
そこにはもうお兄さんはいませんでした。
辺りを見回してみても草と木が生えているばかりで、どこにも姿は見えません。
スケッチブックと色鉛筆が長太郎の足元に落ちているだけでした。
長太郎はスケッチブックをパラパラとめくりました。
すると、林の中で長太郎が描いた絵の中に、描いた覚えのないものが付け足されていました。
黒の色鉛筆のよれた線をよく見てみると、小さな人の隣に耳と尻尾のある大きな人が立っています。
長太郎にはそれがお兄さんの絵だとわかりました。
長太郎はスケッチブックを抱えて林の外に駆け出しました。
この絵は長太郎の宝物になりました。
体が大きくなり、たくさんのことを知って大人になっても、一枚の林の絵はずっと長太郎の宝ものでした。

 

 

 

「こんなに小さな林だったかなぁ」
大学を卒業した春休み、鳳は幼稚舎のころに林間学習で訪れた山に来ていた。
あの頃は広大な土地だと思っていたキャンプ場も、大人になって来てみればごくごく普通の規模の施設だ。
バーベキューの貸し出し用品も新調され、テントを張った場所にはコテージが建ち並んでいる。
十年以上も時を経ればリニューアルしていてもおかしくないなと時が過ぎる早さに自嘲しつつ感心した鳳は、借りたコテージの一室に荷物を置き必要なものだけをバックパックに詰めて部屋を出た。
足は思い出の林に向かう。
当時はなかった柵を跨いで超えた鳳は、地図とコンパスを確認して林の中に進んでいった。
幼稚舎のころは膝まであった草も、今では簡単に踏みしめることが出来る。
しばらく歩くと、記憶の中にある苔むした岩を見つけた。
見上げた鬱蒼とした木々の重なりもあの頃のままだ。
鳳はバックパックから取り出した折り畳み椅子に腰かけ、スケッチブックに絵を描き始めた。
大学で絵画を学んだ鳳は、在学中に海外の大きな賞をとり画家の道へ進んだ。
まだ別の仕事と両立しながらじゃないと食べてはいけないが、この夏には小さいながらも個展を開くことが決まっている。
その個展で展示する絵の構想を練るためにここに来たのだ。
スケッチブックにサラサラと木々を描いていく。
あのころたどたどしかった線は迷いを無くし、絵の中の木は力強い幹や細かな葉の揺れが表現されていた。
だいたいのアタリを付け、色をのせようと色鉛筆を取り出そうとしたとき空から雨が降ってきた。
「あの時みたいだ」
空は明るいのにどこからか雨が降ってくる。
鳳はバックパックに荷物を仕舞い、記憶を頼りに穴の開いた木を探した。
それは思いの外近くにあった。
しかし、当然ながら大人になった鳳が入れるような大きさではない。
「こんなに小さな穴だったんだ」
奥行もそれほど深くはなく、よくこんな穴に入れたものだと当時の自分の体の小ささに驚く。
「そりゃあお化けが食べたくもなるはずだよね」
鳳はその木にもたれかかり空を見上げた。
木の陰で少しは雨宿りが出来る。
葉っぱから垂れ落ちてくる雨粒が鳳の頬を流れた。
あのとき、木の穴で眠ってしまった自分の側にいてくれたのはあの人だったのだろうか。
スケッチブックに絵を描き足しながら、あの大きな尻尾で自分を温めてくれていたのだろうか。
鳳は人ならざる青年との出会いを誰かに話したことはなかった。
ずっと自分だけの思い出にしていたかったのだ。
大人になった今ならわかる。
あのときの胸の高鳴りは、確かに恋だった。
そして今も、鳳はあの青年に恋をしている。
「随分とまぁ、でかくなりやがって」
突然林の中から聞こえてきた声に飛び上がった。
鳳の記憶が一気に色を持ち始める。
鬱蒼とした緑と、真っ青な空、白と赤の衣と、それから艶めく黒髪。
鳳には聞こえてきた声の主が何者かわかっていた。
十年以上もの間、一度だって忘れたことがなかったのだから。
「狐の神様!」
声が弾んでしまうのを抑えられない。
鳳は雨に濡れるのも構わずあちこちの木々を見上げてその姿を探した。
「ばぁか。ずぶ濡れになるだろ」
ふと、鳳に影が落ちる。
見上げれば、鳳の真上の枝に腰かけた男が着物の袖を広げて雨よけにし、鳳を雨粒から守っていた。
「あぁ……あぁ!」
「もう来るなって言ったのに、なんで戻ってきたんだ」
「あなたに、あなたに会いに来たんです」
鳳が男に向かって両手を広げる。
男はふっと笑みを湛えた。
目を輝かせる鳳の姿が、当時の少年の姿に重なって見えたのだ。
「なんの真似だよ」
「どうか降りてきてくれませんか。俺はもう、あなたを受け止められるくらい大きくなりました」
鳳の言葉に目を丸くした男を、なおも鳳は力強く見つめる。
その手は今や、男よりも大きく温かい。
男は自分の手を見つめた。
山の中で独りぼっちで生きてきた男は、迷子の鳳の手を引いたあの時以来、長く誰かと触れ合った記憶がない。
男が枝からふわりと舞い降りる。
気まぐれではあったが、男は鳳の手に触れてみたくなったのだ。
その体を、鳳はしっかりと抱きとめた。
「あぁ神様、ずっと、ずっとあなたに会いたかった」
鳳の腕に抱かれた男がおそるおそるその背を抱く。
撫でてやった小さな背中も、繋いで歩いた小さな手のひらも、今となっては懐かしい。
二人の再びの邂逅を隠すように、晴天の雨はなおも降りやまない。
名も知らぬ二人は、互いにそのぬくもりだけを知っていた。