草木も眠る丑三つ時。
月のない闇夜に、ぎょろりと光る目玉が二つと二つ。
音もなく木々を渡り、山のてっぺんの大杉に止まった。
戦火を免れたこの杉を、この土地の人間は御神木として崇めているという。
そんな信仰を知ってか知らずか、たとえ知っていたところで恐れ多いと仰ぐことなどなかったであろうが、暮れ染め装束に身を包んだ男が二人、並んで大枝に腰を下ろした。
明日にも攻め滅ぼされんとするこの里の信仰など知ったことではなかった。
人は男たちのような者どもを、乱破、忍びと呼ぶ。
彼らの雇い主は山向こうの領主である。
さりとて、彼らが忠誠を誓ったことなど一度として無い。
仕事をこなし、報酬を得る。
至極明快な損得勘定。それが、忍びの条理だ。
さて、大枝にて。
上背のある男が、里を見下ろし眼を細めた。
男たちの名を列挙すると、背の高い方を鳳長太郎、低い方を宍戸亮という。
本名かどうかは定かではない。名など、両の指ほど持っていた。
生ぬるい風にまぎれて衣擦れの音がする。
その音にこたえるように聞こえてくるのは、木の葉が擦れたような音。
再び、衣擦れのささやかな音。
二つの目玉と二つの目玉が視線を交える。
ピンと張りつめた静寂のあと、頭巾の下で口端を引き上げたのは宍戸の方だった。
「そんなに怒ることねぇだろ」
からかい口調で鳳の肩を小突く。
「ちょっと宍戸さん、矢羽音は」
「人の気配もねぇし、別にいいだろ」
衣擦れと木の葉の囁きのように聞こえた音は、矢羽音と呼ばれる忍び独特の暗号会話。
悪びれない様子の宍戸に嘆息し、鳳は袂にある密書に指を掛けた。
「こんな紙切れ渡すくらい、俺一人で出来るって言ったじゃないですか」
「なんだよ、一人寝して待ってろってのか。つれないねぇ」
今宵、依頼があったのは鳳にのみであった。
間者として潜り込ませた手の者に作戦実行を知らせる密書を渡すという、彼らにとっては目を瞑ってでもできるような簡単な仕事だ。
だから鳳は宍戸には知らせずに一人で済ませようと思った。
ましてやこの里の防備は堅くない。
わざわざ宍戸に付いてきてもらう必要などなかったのだ。
「そういう言い方はずるいですよ。たまには俺に任せてくれたっていいじゃないですか」
「あーあ、生意気なこと言うようになりやがって。子犬のように俺の後ろをついて回ってた頃の長太郎はどこに行っちまったのかな」
「なにを大昔のことを。俺はもう十分大人です」
「大人は『十分大人』なんて言わねぇんだよ」
数年前、宍戸が独り立ちし故郷を去るとき、その背を追ってきた鳳はまだ半人前の身分だった。
何度も里に帰れと突き放し、ときには立ち寄った村に置き去りにしたこともあった。
それでも執念で縋りついてきた鳳に、いつしか情が移ってしまったのは宍戸の落ち度だ。
忍びは根無し草。
いつ尽きてもおかしくない命を担保にして、戦乱の世を人知れず生きる者たちだ。
宍戸はその厳しさを嫌というほど知っていた。人が人であるための感情などとっくに捨てたはずだった。
それなのに鳳を懐に入れてしまった宍戸は、せめてこの男だけは永くこの世にあり続けてほしいと願ってしまった。
誰にも、鳳にさえ言えないこの想いを、宍戸は墓まで持っていくことにしている。
もっとも、墓など持ってはいないし、骨一つ残らない可能性の方が高いのだが。
「半人前のおまえを育ててやったのは俺だってのに」
「その通り。俺は宍戸さんに育てられたんだから、何の心配もなく立派に一人前の忍びです」
「はは~ん、そうくるか」
きらりと宍戸の眼球が光る。
宍戸がわざと放った殺気に、鳳は正しく反応し咄嗟に木の枝を蹴り上げ跳躍する。
しかし足首を掴んだ宍戸が、鳳の巨躯を大杉から叩き落とした。
体術に体の大きさなど関係ない。要は小手先の器用さだ。
背から地につく間際に受け身を取った鳳に、すかさず宍戸が飛び掛かる。
鳳は体勢を整えようとした寸でのところで捕らえられ、馬乗りにされて動けなくなった。
「まだまだ俺には及ばねぇな」
「くっ……!」
「及ばねぇのはもう一つ」
「っ!」
ひとまとめにされた両腕を頭の上で押さえつけられる。
間髪入れず突然股間を握りこまれ、鳳は身を固くした。
頭巾のため目元しか明るみにされていないが、鳳を見つめる瞳がきゅっと細められている。
屈辱に似た羞恥が、鳳の頭に血を昇らせた。
「ふざけるのも大概にしてください! 仕事の途中なんですよ!?」
「ふざけてんのはおまえだろ。俺に黙って出ていきやがって」
「それはこの仕事がすぐに済むものだって思ったからです」
珍しく語気を強める鳳を、宍戸は笑みを引っ込めて見下ろした。
情け容赦なく獲物を捕らえる忍びは、瞳の温度まで自在に操る。
「それが本物の密書ならな」
「……え?」
「戦は明朝、必ず起こる。ただし、俺たちの城が攻めるんじゃねぇ。この里が、俺たちに戦を仕掛けてくるんだ」
「どういう、ことですか」
宍戸は先刻仕事馴染みから得た話を鳳に言って聞かせた。
戦場となるはずのこの里は、とある城と秘密裏に通じていたという。
その城は宍戸達が雇われている城と敵対関係にあり、隣り合う国同士、互いの領地を奪うために戦を仕掛ける口実を欲しがっていた。
鳳にきた仕事というのは里にいる協力者に密書を届けるというものであったはずだが、実はこれこそが敵方の策略だった。
そもそもがこの仕事、依頼者は鳳の仕える城主ではなく、敵対する城の間者からのものだったのだ。
里に居るはずの協力者は敵方の人間であり、このまま鳳が里に下りれば、それこそ鳳自身が間者として捕らえられ戦の口実にされてしまうだろう。
このことにいち早く気付いた宍戸は、鳳を連れ戻すべくこの通り追ってきたのだった。
「だからまだ半人前だって言うんだ」
「すみませんでした……」
「俺を通さずおまえだけに仕事をもってくるやつなんて、その時点で怪しいと気づけ。おまえはまんまとダシに使われるところだったんだよ」
「そんなぁ」
宍戸に詰めの甘さを指摘され、鳳はがっくりと肩を落とした。
「おいおい、落ち込んでる暇なんてねぇぞ。おまえが罠にはまらなかったとしても、どっちみちあちらの城が痺れを切らして仕掛けてくる。戦になったら稼ぎ時だ。おまえには存分に働いてもらわねぇと」
宍戸の厳しい言葉はいつも鳳を奮い立たせる。
動揺していた瞳をまばたき一つで押し隠して、鳳は力強く頷いた。
感情を自在に操るのも忍びの術の一つだ。宍戸は満足そうに口端を引き上げた。
「あの、宍戸さん」
「なんだ」
鳳が居心地悪そうに目を泳がせている。
「その、そろそろ手を、どけてもらえませんか」
鳳の股間は、依然宍戸に鷲掴みにされている。
柔らかかったはずの手の中のものが心なしか形を成してきていることに気付いた宍戸は、またもいたずらに眼を細めた。
「なんだよ、若いなぁ」
「一つしか違わないじゃないですか!」
「そうだ、帰ったらよ、久々に房中術を指南してやるよ。おまえはここも半人前だもんなぁ」
「あっ! ちょっと、そんな風に触らないで!」
房中術とは交合を意味する。
鳳が初めて交わりを教えられた相手は宍戸だった。
それから攻め手としての性技を叩きこまれてきた鳳だったが、残念なことに今まで一度も宍戸を翻弄できたことがない。
「わかりましたから! か、帰ったら! 帰ったら!」
宍戸の手淫によって陰茎に血が集まってくるのを感じ、鳳は必死に抵抗した。
「よし言ったな。さっさと帰ろう。おまえの顔を見てるとたまらなくなりそうだ」
「……ほんとかなぁ」
鳳には宍戸の軽口がいまいち信用できない。
故郷を捨てて追い掛けるほど懸想しているのに、自分の気持ちはきちんと宍戸に届いているのかいないのか。
宍戸に憎からず思われていることだけは確かなはずだ。その証に、今夜こうして生き永らえているではないか。
それでもいつか、鳳はこの身を挺して宍戸を守ることができるようになりたいと願っている。
この時代、吹けば飛ぶような命でも、宍戸のために在れるのならば本望だ。
鳳の決意は故郷を捨てたあの日から何一つ変わってはいない。
「長太郎」
口あての布越しに押し付けられた唇のほのかな温かさ。
刹那、宍戸は暗闇に跳躍し、鳳はその陰を見上げた。
『待ってください』
影を追いかけ、影が舞う。
『帰ったら、ちゃんと口を吸ってくださいね』
葉擦れの音が、夜風に溶けた。