「ただいま帰りましたぁ」
玄関を施錠する金属音からややあって、リビングのドアが開いた。足元を這うような冷気とともに帰ってきた長太郎は、鼻の頭と頬を真っ赤にして、髪の先が少し濡れている。
「おう、おかえり。なんだ、雨降ってきたのか?」
「雪ですよぉ。今日に限って折りたたみ傘忘れちゃって。うぅ、寒い」
室内干しスタンドをエアコンの近くに広げた長太郎は、濡れたコートを掛けて、ひとつ鼻をすすった。
「ついに降ったか。今日寒かったもんな」
「宍戸さんが帰ってくるときにはまだ降ってなかったんですか?」
「まだだったな。降りそうだなとは思ったけど」
「えぇ、なんでわかるんですか?」
「なんつーか、雪の匂いがしたから?」
学生のころ、冬でも夜遅くまでテニスコートにいたとき、何度か空気の匂いが変わる瞬間を感じたことがある。無機質なその匂いは、氷を噛み砕いたときの味に似ていて、そしてしばらく経つと雪が降ってきた。きっとあの空気の匂いは、雪が降る空の匂いだ。
「そんなの、わかんないですよぉ」
どんな匂いか話してやったら、長太郎は眉尻を下げながら寒そうに肩をすくめた。
「おまえ、先に風呂入れ。今お湯入れてやるから」
「あっ、いいです、自分でやります。宍戸さんはごはんの支度してくれてるし。何作ってるんですか?」
「鍋焼きうどん。支度つっても切って煮込むだけだけどな」
「おいしそう。いいですね、うどんのお鍋。五臓六腑に染みわたりそう」
長太郎はジャケットをソファーの背にかけ、シャツを腕まくりしながら風呂場に向かった。手洗いうがいをする水音のあと、浴槽を洗うシャワーの音が聞こえてくる。
俺はネギやしいたけを切りながら、このまま雪は降り積もるだろうかと年甲斐もなくワクワクしてしまって苦笑した。
長太郎が風呂から上がるタイミングを見計らって、鍋に玉子を落とした。少し過熱してから火を止めて蓋をすれば、いい半熟具合になるはずだ。
「は~、あったまった。お風呂って天国ですね」
寒さではなく、血色のよくなった頬の染め方をして、長太郎が出てきた。キッチンに入ってきて、俺を後ろから抱きしめる。背中と、吐息のかかる首筋がじんわり温かくなって、長太郎からは冬の匂いではなくシャンプーの香りがした。
「よかったな。温まったじゃねぇか」
「はい。お先にいただきました」
「こっちも、もう出来たぞ」
鍋の蓋を開けて見せてやると、長太郎は「わぁ」と声を弾ませた。
「あぁ、おいしそうなにおい。やっぱり冬は鍋ですね」
「早く食おうぜ」
「じゃあ鍋、テーブルに持って行きますね」
鍋敷きだけ置いておいたダイニングテーブルに、長太郎が鍋を、俺が食器を用意する。彩りの副菜はないが、鍋の中でくったり煮込まれた具材とうどんと、出汁の香りをたっぷり含んだ湯気に食欲をそそられた。
「そういえば日本酒ありませんでしたっけ」
「お、いいな」
「持ってきますね」
冷蔵庫に日本酒の瓶を取りに行った長太郎は、小さめのグラスも二つ片手にまとめて持ち、ニコニコしながら帰ってきた。席につき、うどんを取り分けているあいだ、長太郎はグラスに日本酒を注ぐ。最後に乗せた半熟の玉子は、うまい具合に火が通りつやつやしていた。うまくいってよかった。長太郎が好む柔らかさだ。
「日本の冬って感じですね」
「これなら寒いのも悪くないよな」
「確かに」
グラスを傾けて、「乾杯」の代わりに「いただきます」と声を合わせた。出汁の染みたうどんをハフハフ言いながら啜って、熱くなった喉に冷たい日本酒を流し込む。大人になってよかったと、しみじみ感じる瞬間だ。
「これでこたつがあったらいいのになぁ」
「あー、いいよなこたつ」
「昔、日吉のうちに遊びに行ったときに入ったことがあります。誰がみかんを取りにいくかじゃんけんしたりして、楽しかったなぁ」
「うっそ、おまえんちってこたつねぇのかよ」
「なかったんですよねぇ。あったらフォルも喜んだんじゃないかな」
長太郎のうちの猫がこたつにはいる様子を想像してみた。どことなく異国情緒漂う見た目の猫だ。こたつとのアンマッチさが際立って、少し笑ってしまった。
「あっ、ひどい、似合わないって思ったでしょ」
「わりぃわりぃ。でもそうだよな、猫はあったかいところ好きだもんな」
「冬になるとずっと膝の上に乗ってるし、寝るときは布団に潜り込んでくるし、可愛いんですよ」
「暖を取られてるだけじゃねぇのか?」
「それでもいいんです!」
膝の上で丸くなる姿は、確かに可愛い。長太郎に撫でられながら眠ったんだろう。あの手の温かさには抗えないってことは、俺もよく知ってる。
「おかわりいります?」
「おう」
ほろ酔い加減で、むかし雪投げやかまくらづくりをした思い出を話していたら、いつの間にか三玉分の鍋焼きうどんをふたりできれいに完食していた。体が温まって、うっすら汗までにじんでいる。グラスに残った日本酒がなくなるまで席を立ちがたくて、ゆったりとした時間を過ごした。
「片付けておくんで、宍戸さんもお風呂どうぞ」
「お、なんだよ優しいじゃん」
「俺はいつだって宍戸さんに優しいんですよ。知りませんでした?」
「そうだったっけ?」
「も~、すぐそうやって茶化す」
早く行ってきてください、と背中を押されて風呂場に向かった。
そろそろ日付が変わる時刻だ。
明日の朝、雪が積もっていたら早めに家を出なくてはいけない。普段はもう少しリビングでダラダラするところだが、今夜はさっさと寝ることにした。先にベッドに入っていた長太郎の隣に横たわると、ぬくくなったシーツと毛布が俺を包みこむ。
「温めておきました」
きっちり肩まで布団を被った長太郎が、キリッと眉をまっすぐにした顔をこちらに向けた。
「なんでドヤ顔なんだよ」
「出来る彼氏でしょ」
「どうだか」
恥ずかしげもなく言ってのけるものだから、調子に乗るなという制裁の意を込めて、冷えた足先を長太郎のすねにぴったりくっつけてやった。
「つっめたい!」
「おまえ、あったけー」
「なんでまたこんなに冷たくなってるんですか!」
「冬だからなぁ」
夏は何回も着替えるほど汗をかくのに、なぜか冬は冷え性じゃないかというくらい手足が冷たくなった。鉄みたいだと言われたことがある。熱されやすく冷やされやすい、比熱の小さい金属の性質に似ているという意味らしい。
「宍戸さんが冷たくなってると、なんだか落ち着かないんですよねぇ」
長太郎は俺の頬に唇で触れて、それから体をくっつけてきて背中に腕を回した。布団の中で足を絡めて、冷たいだろうに俺の足先にもぴったりくっついてくる。
「早くあったかくなって」
「変なやつ」
「だって」
長太郎にとって、俺は太陽のごとく熱い男なのだそうだ。燃焼エネルギーをもて余して、そして長太郎の行く道を照らす恒星であり指標なのだと。だから体温の下がった俺を前にすると温めずにはいられないらしい。
「あったけぇ」
布団の中に潜り込んで、長太郎の胸に顔をうずめ抱きしめ返した。長太郎の匂いと体温に心地よさをおぼえるようになったのは、いつの頃からだったっけ。
「もっとあったかくなれることします?」
「おやすみ」
ひたいで長太郎の鎖骨をグリグリ攻撃してやると、痛い痛いと泣き言が頭の上から聞こえてくる。俺に抱きつかれたまま、長太郎は照明のリモコンを取るために布団から腕を伸ばした。一瞬布団がはだけて冷たい空気が背中を冷やす。照明を落とした長太郎は、俺の背を温めなおすように手のひらでさすった。
「宍戸さん、フォルみたい」
頭のてっぺんに感じた温かさで、長太郎にキスをされたのだとわかった。フォルトゥナータにも同じように口づけてやったんだろうか。
猫ってやつは、一番心地よく過ごせる場所を、本当に上手に見つけるものだ。
奇遇だな。
俺の知っている一番あったかいところも、同じ場所なんだぜ。
「おやすみなさい」
声を潜めて、ぬくもりの檻に閉じ込めるように、長太郎は俺を抱きしめた。