せっかくの日曜日だというのに、朝から宍戸さんの様子がおかしい。
どんな風におかしいのかというと、ぼーっとして、なんだか動きもゆっくりしている。
まさか風邪でもひいたんじゃないかと思って熱を測ってみたけれど、体温計に示された数字は三十六度をちょっと上回ったくらいの平熱で、宍戸さんには「大げさなやつだな」と呆れられてしまった。
病気ではなさそうだとわかっても、どこか調子が悪いんじゃないかと心配せずにはいられない。
まさか、俺の知らないところで宍戸さんにとって何か悪いことが起きたんだろうか。もしも、そのせいで落ち込んで塞ぎこんでいるなんてことになっていたりしたら一大事じゃないか。
だってあの宍戸さんが心ここにあらず、まるで覇気のない姿を晒すなんてありえない。
どうにかして元気づけなきゃ。でもどうやったらいいんだろう。
励まし方がわからない俺は宍戸さんの背をおろおろとついて回ることしかできなくて、宍戸さんはそんな俺に怪訝そうな瞳を向けた。
うろたえていても何も変わらないし、宍戸さんを元気にすることも出来ないと早々に悟った俺は、二人で分担している洗濯と掃除を全部一人で請け負い、宍戸さんには休んでいてもらうことにした。
宍戸さんは、家事は二人ですることに決めただろって掃除機のコードを伸ばそうとしたけれど、俺だって譲る気はなかったから、笑顔の圧力で有無を言わさず要求を飲みこませるという最終奥義を発動し、からくもリビングのソファーに座っていてもらうことに成功したのだ。
はじめは居心地悪そうにしていた宍戸さんだったけれど、少ししたら観念したのか、背もたれに体を預けて窓の外を眺めはじめた。
天気のいい朝だ。
半分だけ開いていたカーテンを全開にしたら、陽光が部屋と宍戸さんを照らした。
ベランダに続くガラス戸を開けると、冬にしては穏やかなそよ風が吹いて、宍戸さんの髪を揺らす。
きっと気分も晴れるに違いないと思った。
太陽は偉大なのだ。
そして、宍戸さんには太陽がよく似合う。
「なぁ」
ソファーにいる宍戸さんが、ベランダで洗濯物を干す俺に話しかけてきた。
「どうしました? あ、寒かったですか? 閉めましょうか」
「いや、そのままでいい」
「そうですか? これ干したら終わるので、お茶淹れますね。お昼までのんびりしましょう」
「だったら先にお湯沸かしとくか」
「あっ! 俺がするんで! 宍戸さんは座っててください」
慌てて持っていたバスタオルを物干し竿に掛けた。ガラス戸を閉じてベランダを後にする。
「そこにいてくださいね! すぐ! すぐお茶淹れてくるんで!」
洗濯かごを放り出してキッチンに駆けこんだ。“あっという間にすぐに沸くポット”に水を注いでスイッチを押せば、マグカップとハーブティーのティーパックを用意している間にお湯が出来あがる。
カップに注ぐと、うっすら草木色に色づいたハーブティーから優しい香りが立ちのぼった。
カモミールには気持ちを落ち着かせる効果があるって、むかし学園のお茶会で教えてもらったんだっけ。
二つのカップを持ってリビングに戻ると、宍戸さんはソファーの片側を開けて待っていてくれた。
「お茶、熱いから気を付けてくださいね」
俺から受け取った宍戸さんは、カップの中を覗き込んで香りを楽しんでいる。
なんとなくゆるんだように見える表情にほっと安堵して、隣に腰掛け一口啜った。
宍戸さんは、ふぅと息を吹きかけてお茶を冷まし、そして一口啜って、ゆっくり背もたれに沈んだ。
テレビの音も、会話もない、静かな時間が流れる。
いつもだったら、暇さえあれば宍戸さんに何かしら話しかけてしまう俺だけど、柔らかな日差しと隣に座る宍戸さんに触れた肩があたたかくて、言葉がないことにまったく寂しさを感じなかった。
息を吸って吐くたびに、体の芯からほぐれていって、まどろみの海を宍戸さんと二人で揺蕩っているみたいだ。
眠たいのとも、気怠いのとも違う、ふわふわして、とても優しい、穏やかなひととき。
「なんか、いいよな。こういうの」
宍戸さんが、カップの中の水面を見つめながら呟く。
「気を張らずにいられる時間っていうか、無防備な時間っていうか。そういうのって一人でいるときにしかできないと思ってた」
ぽつり、ぽつりと、漂わせるように宍戸さんは言葉を紡いだ。
「頑張らなくていいんだよなぁ」
「頑張る?」
「肩の力抜いていていいっつーか、なんかよくわかんねぇけど」
「それは、ありのまま、ってことですか?」
「あー、そんな感じかも」
宍戸さんはまた一口、ハーブティーを啜った。
「そっか」
「ん?」
「あ、いえ、独り言です」
「なんだよ、気になるだろ」
「えっと……朝から宍戸さんの元気がないなーって思ってたんですけど、そうじゃなくてリラックスしてただけだったんですね」
「だからなんでもないって言ったじゃねぇか」
「だって、宍戸さんはいつも朝からよく動くのに、今朝はそうじゃなかったから心配で」
うーん、と唸りながら、宍戸さんは横目で俺に視線を寄越した。
「俺な、本当は昼まで寝ていたい派なんだよなー」
宍戸さんは少しおどけた声で打ち明けた。
「えっ、そうなんですか? てっきり朝に強いものだとばかり」
「涙ぐましい努力の結果だ」
「知らなかった……」
ちょっとショックだった。
一緒に暮らし始めて何か月も経ったのに、宍戸さんが無理をして早起きしていただなんて、全然気づいていなかったから。
「知られないようにしてたんだよ」
「どうしてですか」
「かっこわりーだろ」
「そんなことないのに」
「だけど、おまえの前でかっこつけんのは、もうやめた」
宍戸さんが寄りかかってきて、肩に感じる体温がより高くなった気がした。
「今日、目が覚めた時におまえがいてさ、それでいいんだよなって、なんでかわかんねぇけど思えたんだよなぁ」
「え?」
「なんてな」
宍戸さんは俯きがちにカップに口をつけている。
まどろみの海が突然姿を変えた。
見渡す限り、一面満開の花畑だ。
青空が広がって、白い雲がぽっかり浮かんで、色とりどりの花々が揺れている。
この気持ちをどう伝えたらいいんだろう。
大好きな人が、俺の前では気取らず、気負わず、そのままの姿でいようって思ってくれた。
そう思えたきっかけが隣で寝ていた俺だったなんて、そんな些細なことに心を動かしてくれたことが嬉しくて仕方ない。
このたまらない気持ちを表す言葉なんて、この世にあるのだろうか。
「宍戸さん」
俺の喉を通って、宍戸さんの耳に届く。
「俺、宍戸さんのこと、好き、です」
探し当てた言葉は、あたりまえに俺の中にある、宍戸さんへの想いだった。
「おう」
ぶっきらぼうな声が返ってくる。
宍戸さんはそれ以上、何も言わなかった。
ただ静かにカップに口をつけて、そしてときどき、ふぅと心地よさそうにため息をついた。
俺は肩に感じる温かさがこれからもずっと傍らにあるよう、窓際の陽だまりに祈っていた。