宍戸さんの唇がひたいに触れる。温かさに思わずまぶたをぎゅっと閉じたら、皺の寄った眉間にも同じように口づけられた。
「次は?」
薄く瞼を開いたら宍戸さん顔がすごく近くてびっくりしちゃって、でも座り込んだ背中はロッカーにくっついてるから逃げることも出来ない。だからつい顔をそらしてしまって、そして後悔した。嫌がってると思われないかな。ビビってダセェって思われていないかな。けれど太ももに跨ったままの宍戸さんは何事もなかったかのように「長太郎、次は? どこにしてほしい?」と、見下ろした俺のあごの下を人差し指で撫でて言った。
試合中の好戦的で威勢のいい声とはまるでかけ離れた、穏やかで静かな声が甘く耳に流れ込んでくれば、魔法をかけられたみたいに二つの眼球が宍戸さんを映そうと動き出す。
「ほ、っぺた、に」
「ん」
やっと捉えた宍戸さんの瞳はほんの数秒視線を交えただけで伏せられて、そして右のほっぺに柔らかい唇が触れた。
ちょっとだけくすぐったい。でも、なぜか心地いい。
目の前に晒されている首筋からは、こうやって二人きりでくっついて誰にも言えないことをしているときだけに嗅ぐことのできる秘密の匂いがしてくる。部活のあとにシャワーを浴びた宍戸さんの匂いはボディーソープの香りと少しだけ汗の匂い。それから俺とは違う、男の人の匂い。
「次は?」
宍戸さんは、俺が宍戸さんにしてほしいことをひとつひとつ尋ねる。これには深い理由がある。
先々週俺から告白して、付き合うことになって、そして二人で初めてのキスをした。俺は宍戸さんのことがずっとずっと好きだった。宍戸さんが笑えば幸せな気持ちになった。好きでいることがつらくなって夜中に布団をかぶって泣いたことは一度や二度じゃない。そんな想いが成就したから、きっと感極まりすぎて頭がショートしてしまったんだと思う。宍戸さんの唇に触れた瞬間、信じられないことに俺はその場で気を失ってしまった。そして目覚めてみれば宍戸さんに膝枕をしてもらっている状態だったのでまた気を失いかけた。好きすぎて、大好きすぎて、欲しくて欲しくてたまらなすぎて、俺の体は宍戸さんのことを「触れれば興奮しすぎて命を奪いかねない危険因子」だと見做してしまったのかもしれない。優しい宍戸さんは俺が失神するくらいなら恋人同士がするようなことはしないようにしようと言った。だけどやっと想いが通じたのに触れ合うこともできないなんて悲しすぎる、そんなのいやだ、絶対にいやだと駄々を捏ねたら、俺を不憫に思って妥協案を提案してくれた。「なにもそんなに泣かなくても…」と言った宍戸さんのほっぺたがちょっと引きつっていたように見えたのは多分俺の気のせいだと思う。
宍戸さんの妥協案とは、俺に前もって次にする行動を言わせて心の準備をさせること。キス一つで倒れてしまうような蚤の心臓でも、自分で指定した場所への接触なら持ちこたえられるだろうって。提案通りにたずねられて、答える。そうしてキスしてみれば、記憶を飛ばさずに宍戸さんを感じることに成功した。こうやって慣れていけばいつか不意打ちのキスも余裕で受け止めることができるようになるはず。
それから毎日、俺たちはみんなが帰った部室に残って秘密の時間を過ごしている。
「えっと、次は」
「次は? どこ?」
かさついた親指に唇のふちををなぞられる。見上げた宍戸さんは緩やかに口端を持ち上げほほ笑んでいた。最近、宍戸さんはよくこういう顔をする。赤ちゃんを抱くお母さんみたいな、飼ってる犬のいたずらをゆるすときみたいな、そういう優しげな顔をする。二人きりのときにだけ見せてくれる表情が嬉しい反面、あやされている気がしてちょっとだけ情けなくもある。でも。
「好きです」
「え」
「あ、すみませ、えーっと、あの、つい」
「つい」
「はい、つい…好きだなぁって、思っちゃって。つい」
窓から差し込んだ夕陽が宍戸さんの頬を照らして、きれいだなぁって思った。そしたらつい口からこぼれてしまった。もしかしたら、告白して受け入れてもらえたから安心してしまって、好きって気持ちが前よりもっと溢れ出るようになっちゃったのかもしれない。
「そっか」
「はい」
「俺も」
宍戸さんのおでこが俺のおでこにくっついた。鼻の先どうしがちょんと触れたら手を繋ぎたくなって、宍戸さんのシャツを掴んでいた手を離した。すると宍戸さんはひたいをくっつけたまま手探りで俺の両手をつかまえて、すぐに指を絡めてくれた。
「なぁ、次は?」
「次は、」
くちびるに。
俺が五文字を言い終わるのを待って、宍戸さんは花に触れるようにそっと、キスをくれた。