だって、ずっと好きだったんだもん!

注意:女体化百合

青天の霹靂ってこういうことだ。
今日は二月十六日で、バレンタインデーの二日後で、つまり私の誕生日の二日後で、当日にお祝いできなかった代わりにちょっといいレストランでご飯食べようって誘ってくれた宍戸さんは珍しくスカートを履いていて、もうちょっと短かったら膝のラインがきれいに出ていいのにな、でも長めのタイトスカートも似合うかもなんてつい二時間前は思っていて、三十分前には白いワインでほっぺたピンクにしていつもより語尾が伸びたしゃべり方になってる宍戸さんかわいいなって思っていて、つい五分前にはレストランがサプライズで用意してくれたかわいいデザートプレートにきゃーきゃー言って、宍戸さんってばこういうの得意じゃないくせに予約の時に“ハッピーバースデーちょうたろう”って書いてくださいって電話口でどんな顔して言ったのかな、なんて想像したら口の端がにやけるの止められなくて「いつも以上にだらしない顔になってるぞ」って言われても嬉しくて、ショートケーキと色とりどりのフルーツできれいに飾られたプレートをスマホで撮って一生待ち受けにしますって言おうとした私に、明日雪降るらしいよって世間話するみたいなテンションで宍戸さんは
「そういえば彼氏できた」
って言ったんだ。
「……は?」
「バレンタインに告られたんだよ。普通逆だよな?」
「まぁ………は?」
「別に報告するようなことでもないんだけどさ。あ、ケーキ二個あんじゃん。こっちのやつ食べていい?」
「どうぞ…………は?」
殴られたみたいな衝撃を受けることって本当にあるんだ。
それから家に帰ってくるまでのことは正直なところ記憶が曖昧。
覚えているのは、宍戸さんが最後まで彼氏とかいう人の話をしなかったのと、デザートを食べ終わった後にオフホワイト色の包装紙に包まれたプレゼントをくれて、私が好きな色を覚えていてくれたことが嬉しかったことくらい。
頭の中はずっとこの包装紙みたいに真っ白で靄がかかったみたいだった。電車に乗ってまっすぐ家に帰ってこられたことは本当に偉いと思うけれど、自分が笑っているのか泣いているのか、顔の動かし方がわからなくなって玄関で呆然と佇んでしまった私を見たお姉ちゃんとお母さんを、家を出るときにはあんなに浮かれていたのに何があったのかと心配させてしまった。なんでもないよ、もう寝るね、と部屋に上がってドアを閉めた途端に今度は涙腺がばかになった。
泣きそう、って思う間もなかった。蛇口をひねったら水が目から出てきたって感じ。音もなく静かに流れるのは、真夏にテニスをして流す汗と似ているなって思った。
そっか、宍戸さんが、知らない誰かのものになってしまったのか。
自分のことだから、もっとわんわん声を上げてなりふりかまわず泣きわめくんだと思っていた。だってずっと好きだったんだもん。好きで好きでたまらなかったけど、いつかこんな日がくるんだってわかっていたから好きだなんて言うつもりはなかったし、もしも告白できたとしてもこんな恋は叶うわけないって思っていたから、今まで何度も何度も頭の中で宍戸さんに振られる予行演習して、その想像の中で毎度私は声を上げて泣いていて、好きですって言ってごめんなって言われて泣いて、付き合って下さいって頭下げてそういう風に見たことはないって言われて泣いて、ずっと一緒にいてくださいって言って無理だろって言われて泣いて、そういう想像を中学生の頃から何年もしてきたから、失恋って一大イベントでその時私は声が枯れるほど泣くんだと思っていた。
まさかこんなにあっさりと何もかもが終わってしまうなんて思ってもいなかった。
こんな、抜き打ちテストみたいなことになるとは思わなかった。解いたことのない問題が出されて頭が真っ白になる感覚には覚えがある。それと同じ。脳みそがフリーズしてしまったんだ。だから正しい泣き方がわからなくなってしまったんだ。
「彼氏ってなんだよ」
自分でも聞いたことの無い冷たい声が出て驚いた。
その拍子に力が抜けて、カーペットにへたり込んでしまう。鞄から転がりでてきたプレゼントを開けてみたら、涙みたいに透き通った石のピアスが二つ、ちょこんと並んでいた。
綺麗だけれど、私より宍戸さんに似合うんじゃないかな。太陽の光を受け、キラキラ光る星屑で耳を飾った宍戸さんが見てみたいな。
だけどそんな宍戸さんと一緒にいるのは、私じゃなくて見知らぬ誰かなんだ。
宍戸さん、その人のこと好きなのかな。
その人は私より背が高いんですか。
私より速いサーブを打てるんですか。
私よりも宍戸さんのこと大切に出来る人なんですか。
私を見上げて笑いかけてくれたのと同じ顔を、その人に向けるんですか。
「あーあ」
私が男だったら宍戸さんの彼氏になれたのかな。でもどっちかが男だったら部活は別々の場所で練習していただろうし、ダブルス組んでなかっただろうし、趣味も年齢も違う私たちがテニス以外で出会える可能性があったとは思えないし、やっぱり男だったらだめだったかも。
エアコンもつけないままの部屋では涙がどんどん冷えてきて、乾いたところがないくらいべしゃべしゃになったほっぺたがすーすーした。
悲しい私はこのまま涙に溺れて体の芯まで凍えてしまえばいいんだ。
そして宍戸さんからも世界からも忘れ去られて、初めからこの世に存在していなかったみたいに消えてなくなってしまえ。

なんてことにはなってはくれなかったので、学生の私は今日も大学にいる。
あれから季節は二つ移り変わり、今は夏真っ盛り。
みんな授業よりもバイトや夏祭りにいく計画で忙しいみたいだけれど、私はといえば宍戸さん以上に優先する用事はないし、肝心の宍戸さんは彼氏とかいう誰かさんと過ごす時間の方が大事だろうから連絡するのも気が引けて、夏の予定はすっからかんなままだ。
宍戸さんとは、あの日から一度も二人きりで遊んでいない。学内でたまに見かければ声を掛けてくれるし移動がてら隣を歩くことはあるけれど、それだけ。もともとどこかに行こうと誘うのは私からの方が多かったから、こちらからアクションを起こさなければ学外で会うこともない。それに遊びに誘ったとして、もしも彼氏との約束の方を優先されたりなんかしたら自分がどんな呪いの言葉を吐いてしまうかわかったもんじゃなかった。だから誘わない。私、宍戸さんの前ではかわいい後輩でいたいんです。健気な乙女心っていうやつです。
「鳳、今夜暇か?」
中庭に面しているカフェテラスでアイスティーを啜っていた私に、同学年の日吉若が突然遠慮のない物言いで話しかけてきた。ノーメイクに眼鏡といういつものスタイルで、スマートフォン片手にこっちを見下ろしている。次の授業への移動中らしく、もう一方の腕で資料や教科書類を重そうに抱えていた。
「あれ、日吉どうしたの? 珍しいね、いつもここ通っても声なんて掛けてこないのに」
「うるさい。 いいから今夜暇なのか教えろ」
「今夜? 特に用事はないけど……なんか怒ってる?」
おとなしそうな見た目に反して所作が荒っぽい日吉は、片手の紙束たちをテーブルにドサドサ置いてスマホに話し始めた。私はそれらをグラスについた水滴で濡らしてしまわないように、慌ててテーブルの上を整頓する。
「もしもし、鳳に行かせるんで。…は? 私は行きませんよ、めんどくさい…ちょっ、待ってください、行きませんからね!? ……チッ、切りやがった」
会話から察するに、なにやら良くないことに巻き込まれている気がする。恐る恐る日吉を見上げると
「じゃ、そういうことだから」
といい残して書類を抱え去ろうとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何がそういうこと?」
「向日さんから。 合コンだと。 今夜集合な」
「電話、向日先輩からだったんだ。 また人数合わせで入れられちゃったの?」
「忍足さんはゼミがあって、滝さんは家の用事。 二人分の穴を埋めるつもりなんだろ。 何度も興味ないって言ってんのに連絡してきやがって」
「日吉ったら、口が悪いよ」
「ふん」
悪態をつくだけついて日吉は行ってしまった。なんだかんだで体育会系の習性が染み着いている私たちは先輩命令に従わずにはいられない。合コンに興味がないのは私も同じだけれど、行かないわけにはいかないのであとでメイクくらい直そう。それから、おせっかいって言われるだろうけどすっぴんのままで行こうとする日吉にメイク道具を貸してあげなくちゃ。

 

「えっと、向日さん? なんでここに宍戸さんがいるんですか?」
「おまえ相変わらず宍戸以外に興味ないのな。 暇そうにしてたから呼んじゃった」
「暇そうにって……これ、合コンですよね? 宍戸さんを来させちゃだめじゃないですか」
「なんで?」
「なんでって、相手のいる人が来ていいところじゃないでしょう?」
「あれ、鳳知らねぇの? 結構前に別れたぞ、あいつら」
「は?」
青天の霹靂、再びである。
日吉と一緒に指定された居酒屋に到着した頃には既に男性陣と向日先輩も到着していて、お店の人にみんなが待つ個室へ通された。初対面の彼らに愛想を振りまくつもりは微塵もないけれど、私以上に愛想のあの字もない無表情の日吉がいるので社交辞令として笑顔を顔に張り付けた。向日先輩もいるし、空気を読むのは後輩のつとめです。ざっと個室の中を見渡すと、男が四人、女が私たちを含めて三人。合わない人数を不思議に思いつつとりあえず席につき、まだ他に誰か来るんですか?と向日先輩にたずねようとしたとき、遅れて宍戸さんが個室に入ってきた。びっくりしたなんてもんじゃない。思わず宍戸さんに挨拶するのも忘れて隣に座る向日さんに詰め寄ってしまった。男性陣に聞こえないように小声で話したつもりだったけれど、宍戸さんがすでに彼氏とやらと別れていたと聞いて、あまりの衝撃に肺の底を震わせたみたいな重低音の声が出た。
「向日さん、その話詳しく聞きたいんですけど、っていうか合コンどころじゃないでしょ。宍戸さんが別れたなんて全く知らなかったんですけど、なんで誰も教えてくれなかったんですか」
「だって知ってると思って。 てか怖ぇよおまえ、何その声。 どっから出てんの」
「知らなかったですよ! いつですか? 付き合い始めたのって半年前ですよね? それからどのくらいで別れたんですか? どっちから別れ話を切り出したんですか? まさか宍戸さんが振られたなんてことはないですよね?」
「あーもううるさい! あとで本人に聞けよ。 はーい、じゃあみんな揃ったのでかんぱーい!!」
「ちょっ、」
テーブルの上にはいつの間にかビールが置かれていて、私以外の全員がグラスを手に乾杯の姿勢を取っていたので急いでそれに続いた。テーブルを挟んでこちら側は端から向日先輩、私、日吉、そして最後にやってきた宍戸さんの順に並び、向かい側の男性陣とグラスを合わせる。
それからお決まりの流れで自己紹介から始まった合コンは、男性陣がみんな向日先輩の友達らしく時間が経つにつれてただの飲み会と化していった。
いや、はじめの方はちゃんと合コンだったんだ。ただ、一向にほほえみもしない日吉と、宍戸さんに話しかける相手を凝視してばかりいる私に、こりゃだめだと早々に匙を投げた向日さんが出会いの会から飲み会へと方向転換をはかり、察した男性陣もそれに乗っかった。
向日さんには申し訳ない気持ちでいっぱいだけれど、ごめんなさい、今はそれどころじゃないんです。自分で自分が抑えられなくなりそうなんです。宍戸さんに聞きたいことがいっぱいあるのに何も言い出せないんです。
悶々とする私を余所に、向日先輩の友達だけあって男性陣はみんなノリが良く、飲み会にシフトした場はあっという間にどんちゃん騒ぎになった。飲み放題を注文するペースがどんどん速くなっていく。誰かが、ゲームをしよう、負けたら罰ゲームで一杯!なんて言い出して、いよいよもって大学生らしい夜になってきた。
そして盛り上がりが最高潮を迎えた頃、ぷつっと、私の中で何かが静かに音を立てて切れた。
私は日吉と席を交換して宍戸さんの隣に陣取り、罰ゲームで宍戸さんに回ってきたアルコールを全部奪い取って胃におさめた。もちろん、私に回ってきたアルコールも全部飲み干した。
何やってるんだろう、私。
隣の日吉が何か言っていたけれど、なんだか耳が遠くてよく聞こえない。宍戸さんも何か言ってる。そういえば宍戸さんの顔をこんなに近くで見たのはいつぶりだろう。綺麗なまぶただなぁ。えへへ、なんだか楽しくなってきました。宍戸さんも楽しいですか?私は宍戸さんがいればいつでも楽しいです。あれ、またゲーム負けたんですか?それ私が飲みます。潰れた私の恋心みたいな赤い色の綺麗なお酒、全部飲んじゃいますね。

ビールもワインも日本酒もかわいい名前のカクテルも、みんな私の中でぐるぐる。
悲しい気持ちと大好きな気持ちと守りたい気持ちと許せない気持ちも、全部全部私の中でぐるぐるぐるぐる。

私、宍戸さんのことが好きなんです。先輩としてじゃなくて、恋しい相手としての好き、です。でも言うつもりはないんです。本当は告白したいって思うけれど、言わないままでいいやって。だって絶対宍戸さんは困るでしょ?宍戸さんは優しいから私の気持ちにちゃんと向き合おうとしてくれるでしょ?そしてきっと離れていってしまうんです。気持ちに応えられないって、側にいない方がおまえにとっていいだろうって離れていってしまう。優しいですね。ひどい人ですね。きっとね、ううん、絶対、宍戸さんはそう言うんです。だからね、私、言わないって決めたんです。宍戸さんが私のこと後輩として好いてくれてるって知っています。私とは違う形だけれど、ずっと好いていてほしいから言いません。ずるいんです、私。だって言うつもりはないくせに、おもっちゃうんです。ずっと誰かのものにはならないでいてほしいって。だけど、なっちゃった。宍戸さんに彼氏が出来ちゃった。悲しいって思う私は自分勝手で悪い人間なんです。そんな自分を宍戸さんに知られたくないんです。でもね、本当に悲しかったんですよ。すごく悲しくて泣き方もわからなくなったんですよ。だけど宍戸さんは私のものじゃないから、苦しかったけど、受け入れられなくても事実は認めようって、そう思ったんです。なのに、知らない内に別れちゃったんですね。そのことを教えてもくれなかったんですね。なんでだろう、すごくいやな気持ちです。宍戸さんに彼氏がいなくなったら嬉しいはずなのに、宍戸さんのこと嫌いになってしまいたいなんてこんな気持ち、知りたくなかったのに。どうしてこんな気持ちになるんでしょうか。私のこと、もう後輩としても好きじゃなくなっちゃったんですか?だから何も教えてくれなかったんですか?好きになってごめんなさいって謝ったら、また前みたいに側にいさせてくれますか?
「長太郎」
水の中にいるようなぼやけた音たちを切り裂いて、私を呼ぶ声が聞こえた。
雲間から光が射したみたいに、混沌とした私の意識に宍戸さんが入ってきた。
「助けて、ください」
あれ、今の、私の声?
突然、目の前がぐにゃぐにゃしてきて、息苦しくなって、おなかの中をぐるぐるしていたものがこみ上げてきて、
「おい鳳! 大丈夫か?」
「やべーぞ、宍戸! トイレ連れてけ!」
「長太郎立てるか? ゆっくりでいいからな。 すぐそこだから」
なんで気持ち悪いのかわからないまま気づいたらトイレの個室にいて、宍戸さんが「大丈夫、大丈夫」と背中をさすってくれていて、私は私の中でどろどろに混濁した気持ちごと、全部まっ白な便器に吐き出した。

 

消えてなくなりたいと思ったのはこれで二度目だ。
トイレでの顛末は思い出したくもないので割愛するけれど、全部出し切ってすっきりした私は宍戸さんと向日さんと日吉と男性陣全員に平謝りした。アルコールには強い方だと思っていたけれど、知らぬ間に自分のキャパシティーを越える量を飲んでいたみたいだった。ふらふらと足下がおぼつかない私を送っていくと宍戸さんが申し出てくれた。迷惑を掛けっぱなしだからどうか捨て置いてくださいと断ったのだけれど、いいから言うこと聞いとけ、と突っぱねられてしまった。店を出るとき、向日さんに「がんばれ」と励まされて、珍しく心配そうに私を見つめてきた日吉には「おまえの味方だから、なにかあったらすぐ連絡しろよ」と力強い瞳で念を押された。
なんで二人がそんなことをわざわざ言ってきたのか、理由がわかったのはつい先ほど。
自分のアパートに私を招き入れた宍戸さんから、私が飲み会の間お酒を飲みながらぐるぐる考えていたことは全部声になって口から出てしまっていたと教えられたからだ。
私は部屋の真ん中にしゃがみこみ頭を抱えた。
飲み過ぎて頭痛がしたからじゃない。言うつもりなんて微塵もなかったのに酒に呑まれて洗いざらい暴露してしまったのが情けないやら恥ずかしいやらで、小さくなって穴に埋まってしまいたい気持ちだったからだ。
「なぁ、さっきおまえが言ってたことについてだけど」
「…………はい…」
クッションを敷いて腰を落とした宍戸さんが顔を覗き込んくる。お願いだから蒸し返さないでほしい。あんな恨みつらみをぶつけるみたいな告白がしたかったわけじゃないんです。
「あの、聞かなかったことにしてくれたりは」
「できないな」
「……ですよね」
終わった。いよいよ年貢の納め時だ。死刑宣告を待つしかない。
おまえの気持ちには応えられない?そういうふうにおまえを見ることは出来ない?なんて言って私を奈落の底に突き落としてくれるんですか。覚悟はできています。何度も何度もシミュレーションしてきたんですから。宍戸さんになら心を切り裂かれてもいいんです。もう既にズタズタになっているようなもんですけど、いっそ灰にしてくれるならひとおもいに業火に投げ入れてください。
「まず、なんで別れたかというと」
「……はい?」
「好きな人を忘れられなかったから」
「えっと…?」
あれ?そういう話だっけ?私の告白を棄却するタイミングではなかったのだろうか。
「そもそもなんで元彼と付き合うことにしたのかというと、その好きな人を忘れたかったからだ」
「あの、断り方にしては斬新というか……傷の抉り方がえぐくありません?」
こっちは宍戸さんのことが好きだって言ってるのに、宍戸さんは他に好きな人がいるとということを説いて聞かせようとしている。忘れようとしても忘れられないくらい好きな人がいるだなんて、なんでそんなこと聞かせられないといけないんだ。
「で、その好きな人っていうのが」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
流石に宍戸さんの好きな人までは知りたくない。宍戸さんのことは何でも知りたいと思っているけれど、知らなくていいことが世の中にはあることも十分すぎるほど知っている。だから宍戸さんの元彼のことについてもできるだけ情報を仕入れないようにしてきたわけだし、自分は打たれ弱い性質ではないとおもうけれど、生きていくために無駄に傷を負うこともないと思うのだ。
「なんか宍戸さんいじわるじゃないですか?」
「どこが」
「どこがって、私のこと振ったくせに宍戸さんの好きな人の話までしようとするなんて、そんなに私の傷に塩を塗り込みたいんですか? 確かに大勢の前で酔っぱらって告白してしまったことは大変申し訳ないことをしたと思いますけど、だからってこんな仕返ししなくても…」
「仕返しじゃないし」
「でも」
「つーか振ってないし」
「え?」
「おまえのこと嫌いなんて言ってないだろ」
「まぁそうですけど……それは後輩として嫌いじゃないということであって……」
「だから、なんでおまえは全部を悪い方に捉えて一人で突っ走るんだよ。 そういうところだぞ。 昔から全然かわってねぇ」
「はぁ? なんで私が怒られなきゃいけないんですか? 宍戸さんにそんなこと言われる筋合いないですよ! そっちだって昔から勝手に思い詰めて突拍子もない方法に周りを巻き込んで! 元彼さんだっていい迷惑じゃないですか!」
「それは…」
「でも私は宍戸さんのそういうところも全部好きなんですよ! 嫌いになれないんですよ! もういいでしょ、なんでこんな喧嘩みたいなことしなきゃならないんですか。 お願いだから私が言ったことは全部忘れてください」
「それは、無理」
「……」
もうやだこの人。宍戸さんのことを理解できたと思ったことは一度もないけれど、今までで一番この人のことがわからない。
これ以上長居してもお互いによくない気がする。立ち上がってスカートの裾を直した私はフローリングにあぐらをかいている宍戸さんを見下ろした。
「もう帰ります」
「え?」
「迷惑かけてすみませんでした。まだ電車動いてるし、駅まで一人で行けますから」
「帰るなよ」
「……は?」
なんであなたに失恋して傷つく私を引き留めようとしているの?二人でいるのがつらいんだってどうしてわからないの?
疑問は時を待たずして怒りに変わった。
「いくら宍戸さんだからって、怒りますよ」
「なんで」
「『なんで』!?」
「いいから座って」
「『いいから』!? 私の気持ちってそんなにどうでもいいことなんですか!?」
「………あ~~もう、うるせぇな」
立ち上がった宍戸さんに距離を詰められる。その速さが尋常じゃなくて、ダブルス組んで試合していたときの宍戸さんってこんな風に速く走ってボール打ち返してたな、なんてのんきなことを思う間もないほど速すぎて、迫力に負けて後ずさりしたら鞄につまづいて尻餅をついてしまった。
「ちょうたろう」
痛むおしりをさすっていたら、甘く名前を呼ばれた。宍戸さんのこんな声、今まで聞いたことない。
その声に魔法をかけられた。ゆっくり宍戸さんを見上げると、温かな両の手のひらが私のほっぺたをそっと包んだ。
宍戸さんの顔が近づいてくる。目がチカチカするのは照明の逆光のせいだけじゃない。
はにかんだ笑顔が、どんな星よりも綺麗だと思った。
「私も、おまえのことが好き」
そして宍戸さんは私に、生まれて初めてのキスをくれたのだ。