エスケープ・ジャーニー

これは人類の誰しもが、第二の性と呼ばれるα、β、Ωのいずれかをもって生まれてくる世界のお話。

宍戸亮は希少種である男体のΩとして生を受けた。
生まれてきた子がΩであることを知った両親は、βである彼の兄と同様に宍戸をのびのびと育て、一方で彼ら兄弟に幼い頃から第二の性についての知識を与えてきた。
Ωに対しての偏見が未だ根強い社会において、宍戸がこれから先の人生で乗り越えなければならない障害を子供にもわかる言葉で話し、それらは決して彼の可能性を摘み取ってしまうものではないと説いてきた。
その甲斐あってか、彼はよく遊び、よく笑い、活発で体を動かすことが大好きな少年へと成長していく。
時は過ぎ、宍戸は氷帝学園中等部に進学しテニスに青春を捧げることになる。
跡部景吾率いる部員二百人のテニス部で正レギュラーの座を狙うのは容易なことではない。
もちろん部員の中には生まれつき資質の優れたαも存在する。
彼らと対等かそれ以上の実力をつけなければ登り詰めることは到底不可能だ。
加えて、二次性徴とともにΩはヒートと呼ばれる発情期を迎えることが知られており、宍戸は自分の体に今後起こるであろう変化を恐れていた。ヒートの期間はテニスをすることはおろか、外出さえもままならない。その間にもライバルたちは力を蓄え自分をどんどん追い越していってしまう。
Ωだろうと、努力で出来ないことはないと信じていた。
宍戸は進学してまもなく、かかりつけの医院でヒート抑制剤の処方を希望した。

ヒート抑制剤とは薬剤で強制的にヒートを抑止するものであり、一定の周期でΩの体に起こる、発熱、倦怠感、膣分泌液の増加等、所謂発情期を回避する目的で服用される。
効果には個人差があり、また現在市場に流通している薬品の作用は残念ながらヒートの症状を完全に打ち消すには至っていない。それでもΩが平時と変わらぬ生活を送るために欠かせないものとなっている。
何よりも重要視されるのが、ヒート中にΩから分泌されるフェロモンの発生を抑止することである。
αに非常に強い影響を及ぼすこのフェロモンは、発情を誘発するとともにΩとの性交渉を促し、個体によってはβでも影響を受ける場合がある。
そのことがΩの社会的な自立を困難にし、偏見や差別を生んできた。
昨今、差別撤廃運動が世界的に熱を帯び始めたことにより、抑制剤の効能を高めΩの人権回復を図ることが強く求められている。この動きを受け、製薬会社は競うようにより精度の高い薬品の開発に着手し始めていた。

宍戸はすぐさま処方を求めた。
成人ならば身分証ひとつでドラッグストアでも市販のヒート抑制剤を購入することができるが、未成年である彼は医師の処方箋がなければ抑制剤を手にすることができない。風邪薬と同じように体の成長に合わせて摂取できる分量が異なるためだ。また、配合される成分には医師の診察が義務付けられているものもあり、市販の抑制剤は効き目が薄いと言われるものが多かった。
当時、宍戸はまだヒートを迎えていなかった。しかしΩを子に持つ親のほとんどが、初めてのヒートが学校や外出中に始まってしまうことを恐れ前もって抑制剤を服用させ始める傾向にあり、早い時期から服用したいと希望する彼に両親も反対することはなかった。宍戸は担当医にできるだけ強い薬を出して欲しいと要求した。強い薬といっても効き目に個体差がある以上、あちらよりこちらの薬を飲んでおけば安心とは一概には言えないが、宍戸は認可されている抑制剤の中で一番効果が期待できると言われていた製剤を服用することになる。結果として、宍戸が服用したヒート抑制剤は彼の体にマッチしていた。
しすぎていたのだ。

鳳長太郎は鳳家の第二子として生まれた。
姉と同じα性であり絶対音感を持つ彼は幼いころから楽器の演奏に長け、その才能は音楽の分野で花開きつつあった。
転機が訪れたのは中等部に上がったころ。テニス部への入部と宍戸との出会いが彼の人生に大きな影響を与えることになる。
成長期を迎え急速に体が大きくなるにつれてαとしての資質も成熟し始めた鳳は、宍戸とダブルスを組むようになって彼のΩ性に知らず知らず惹き付けられていることに気づく。本能が宍戸を「運命の番」だと言っているのだ。運命の番は出会えばそうだとわかるもの。鳳は自分の本能を信じることにした。未成熟だった時分はまだぼんやりとした認識だったが、高校を卒業するころにはα性もすっかり成熟し予感は限りなく確信へと変わっていった。

「宍戸さん、俺の番になってください!」
「だからならねぇって!」
大学生になった二人は相も変わらずテニスを続けている。生活の中心がテニスであった頃とは違い、授業にゼミにアルバイトにと忙しく流れる日々の中でも、二人は時間を作ってはテニスコートに赴き打ち合った。テニスを続ける上でサークル活動という選択肢もなくはなかったのだが、二人はそれを選ばなかった。これまで過ごしてきた濃密なテニス漬けの日常がそこにあるとは思えなかったからだ。
今日も授業のあとに、学内の空いているテニスコートを借りて打ち合う。ときどきは同じように肩慣らしをしたい人間が集まってきてダブルス戦をすることもあったが、大抵は今のように時間の許す限り一対一でラリーを続けることが多かった。
「なんでですか!」
「うるせぇ! そういうことは終わってから言え!」
「じゃあ、あとでお願いしたら番になってくれるんですか?」
「な、ら、ねぇ!」
宍戸の返したボールが鳳の股下をくぐってコートに突き刺さった。反応が遅れた鳳は追い付くことが出来ず、ボールは背後のフェンスを揺らした。
「俺の勝ち」
「うぅ……どっちにしろ番にはなってくれないじゃないですかぁ」
「おまえも飽きないな」
「飽きるとか飽きないとかの問題じゃないんですよ。宍戸さんと俺はいつか番うんですってば。俺の本能がそう言ってます」
「俺の本能は何も言ってない」
夕方から予定がある宍戸はベンチに戻りラケットをしまい始めた。コート内で膝をついてふてくされ、宍戸を見つめていた鳳も諦めのため息をついて立ち上がる。宍戸の隣に置いているラケットバッグの前に立ちジッパーを下げた。
「膝、砂ついてる」
「え? ほんとだ」
片付け終わりベンチに腰掛けてスポーツドリンクを飲む宍戸に指摘され見てみると、さっきコートで膝をついたときに付いたと思われる砂で膝小僧が汚れている。
鳳は腰をかがめて膝の砂を払った。
「ちょっと、そのままな」
宍戸に肩を掴まれ、鳳は動きを止めた。膝の他にも汚れがあったのかと宍戸の言葉を待っていたら、急に襟首を引っ張られ宍戸が首筋に顔を寄せてきた。
「長太郎の匂い」
「それだけですか?」
「うん」
鳳は肩を落とし、また一つため息をついた。
実はこのやり取りは今まで何度も繰り返されている。Ωだけでなくαからも少量のフェロモンが発せられており、運命の番と呼ばれるαとΩは互いのフェロモンに反応しあうと言われている。しかし、宍戸は鳳の香りを認識したことがない。
「ほらな、おまえのフェロモンは俺には効かない」
「宍戸さんと二人きりの時はいっぱい出てると思うのになぁ」
「本当は全然出てねぇんじゃねぇの? 自分でコントロールできるもんでもねぇだろ」
「そうですけど、Ωほど強くはなくてもαの誘発フェロモンも効き目はあるじゃないですか」
宍戸の手が首筋から離れていく。名残惜しく思いつつ、鳳は片付けを再開した。
「まぁ、出てたとしても抑制剤飲んでるからそう簡単には効かねぇよ」
「前から思ってたんですけど宍戸さんの薬、強すぎるんじゃないですか? もう激しい運動もしていないんだし、強い抑制剤はやめたほうが」
「いいんだよ、俺はこれで」
「でも、あまり体によくないですよ」
「お守りみたいなもんだから」
「……お守り」
ヒートを抑えることでαやβと同じように日常生活を送るための抑制剤。これがなければ熾烈なレギュラー争いを勝ち残ることはできなかった。
宍戸の努力を一番近くで見てきた鳳は彼の覚悟を十分すぎるほど理解していた。しかし大学生となり学業に専念するようになった今、当時のように強力な薬で体を制御する必要はない。それでも宍戸が服用をやめないのは、心のどこかでヒートが起こり自我を失うことへの恐れがあるからなのかもしれない。
「おまえだってα用の抑制剤飲んでるだろ?」
「宍戸さんといるときは飲んでないですよ。言ったじゃないですか、いっぱい出るようにしてるって」
「……あんまり意味ねぇから飲んどけよ。影響したらどうすんだ」
「誰かが俺のフェロモンに引っかかっちゃうんじゃないかって心配してくれるんですか? 大丈夫ですよ。俺は宍戸さん以外とはありえません」
「そうじゃなくて、おまえが引っかけられるかもしれねぇだろ」
「え」
「他のΩに」
「それって……俺が宍戸さん以外の人としたらいやだってことですか?」
「はぁ? そんなこと言ってないだろ」
「そっかぁ、ふふ」
「なにニヤニヤしてんだよ。違うからな。おまえが思ってるようなことじゃなくて」
「いいんです。わかってますから。へへ」
「絶対わかってねぇ」
片づけを終えてコートを出てもまだ鳳は頬をほころばせている。
宍戸には鳳がどうしてこれほどまでに自分と番うことに執着できるのか不思議だった。
鳳は自分のことを運命の番だと言う。運命の番はお互いに惹かれ合うと言われているが、今まで彼とともに過ごしてきた中で一度もそのような感覚に陥ったことはなかった。
「それどころか」
「え? 何か言いました?」
「いや、なんでもない」
これから行くところがあるから、とバス停で鳳と別れた宍戸は乗り込んだ市街地行きのバスの一番後ろの席に腰を下ろした。短く震えたスマートフォンを尻のポケットから取り出すと、鳳から明日のランチへの誘いが絵文字付きのメッセージで送られてきている。ついさっきまで一緒にいたのだからその時に言えばいいものを、と半ば呆れつつ口端が緩んでいる自分に気付き咳払いした。
番う番わないを抜きにしても、鳳から好意を浴びせ続けられることは悪い気はしない。
しかし宍戸には諸手を上げて鳳を受け止められない理由があった。

「副作用……ですか?」
「もしくはもともと抑制剤の影響を受けやすい体質だったとも考えられます」
通いなれた大学付属病院の一室で宍戸と主治医はモニターに映した検査結果を前にしていた。
一か月前に同じ病室を訪れた宍戸は、抑制剤を処方してもらうついでに今まで一度もヒートを経験したことがないと主治医に話した。
通常、Ωは二次性徴期に初めてのヒートを迎える。抑制剤を飲んでいたとしてもヒートが起こらないということはまずない。比較的軽度になるだけで、ヒートそのものをなくすことは現在出回っている抑制剤では不可能だ。
だが今年二十歳になる宍戸には一向にヒートがくる気配がなかった。念のため血液検査をすることになり、結果としては健康面に異常はなかったのだが。
「抑制剤はいろいろな種類が広く出回っていますが、いまだに万人に効く製品は開発されていません。そして副作用についても未知である部分が多いのです。普通は抑制剤を飲んでいてもヒート自体を完全になくすことはできないはずですが、宍戸さんはとくに長い間、加えて二次性徴期に体に負担のかかる成分を含んだ抑制剤を服用してきましたから、体質のせいもあるかもしれませんがヒートを起こすために必要なホルモン物質が体内で生成されなくなっているのかもしれません。血液検査の結果からその物質が異常に少ないことはわかりますが、そうなった要因までは特定できないというのが今の医学の限界です。まずは服用している抑制剤の使用をやめてみましょう。経過を観察しながら別の抑制剤に切り替えるか、今後の服用自体をやめるか判断する必要がありますね」
「でも、薬をやめたらヒートが来てしまうのでは」
「ヒートは病気ではありませんよ。むしろ学生であるうちにヒートとの付き合い方を学んでおくという考え方もあります」
「わかっています。でも……」
「私が提案したのは、あくまで、ヒートという本来Ωの体に備わっている機能を取り戻すための方法です。このままヒートのこない生活を続けたいというのなら抑制剤の使用を無理にやめることはありませんが、体の成長には問題ないのに完全にヒートが来ないという症例は極めて少ないのも事実です。宍戸さんの体の中で何かが起きていることは確かですし、その原因が抑制剤である可能性は非常に高いと考えられます」
「理解しているのですが……少し、考えます」
「そうですか……ヒートが起こった方が自然体ではあるのですが、生きていくためには制御しなければならないのも事実です。医者としては出来るだけ体に負担のない方法を選択してほしいと思いますが、抑制剤が明らかな原因だとは言い切れない以上、無理に処方を止めることは出来ません」
主治医はモニターに処方箋を入力し始めた。
中等部のころ、とにかく強い抑制剤を出して欲しいと受診してきた宍戸に、当時一番効き目の強いと言われていた抑制剤を処方したのはこの主治医だった。それから定期的に処方箋を求めやってくる宍戸の健康状態を確認し、時には体中にできた生傷に手当てを施してきた。
医師として患者の健康を最優先ししたい一方、現実はΩ性である人々がありのまま生きることができる体制が確立されているとはとても言い難く、宍戸をはじめ抑制剤を使用し続ける患者たちの身体に負荷がかかるとわかっていながら処方せざるを得ない現状が歯痒かった。
「いつもと同じ薬を出しておきますが、服用する間隔をあけてみてもいいかもしれませんよ」
宍戸は主治医の言葉に頭を下げ診察室を出た。
命に係わることではないにしろ、自分の体の中で何かが起こっている。いや、起こらなくなっていると言った方が正しい。
Ω性に抗いたくてバース特定検査を受け直したこともあったが、結果はΩである事実を叩き付けられただけに終わった。Ωであることが変えられないのならば用いる限りの方法を使ってαやβと同じ生活を送ればいい。その願いは抑制剤によって叶えられた。
だが、Ωとしての特性が何も現れない自分はΩであってΩではない。Ω特有のヒートを迎えることもフェロモンが正常に分泌されることもないのならば、はたして自分は何者なのだろう。
宍戸は水面を寄る辺なく漂う水草のように、宙ぶらりんになった気がした。
正直なところ、ヒートが起こらないのは願ったり叶ったりなのだ。定期的に一週間以上家に籠って苦しまなくていいし、好きなだけスポーツも勉強も遊び回ることもできる。
宍戸にとって自分で自分の体を制御できなくなることが一番の苦痛であったから、その最たるものであるヒートは疎ましい以外の何物でもなかった。
だからヒートがない人生は宍戸にとって僥倖だったはずなのだ。それなのに、近頃胸に引っかかるものがある。脳裡をちらつく存在がいる。
「番か……」
番うためにはヒート中にうなじを噛まれる必要がある。ヒートが起こらなければ体を重ねた所で番うことは出来ない。いくら望まれたからと言って、宍戸には鳳の願いを叶えてやることは出来ないのだ。
生活の中心がテニスではなくなった今、強い抑制剤を飲み続ける必要がないのは事実だし、主治医の言うようにヒートとうまく付き合っていくのも一つの生き方なのかもしれない。
「簡単に言ってくれるよな」
病院を出て、近くの薬局で抑制剤を受け取った宍戸はバス停には戻らず歩いて帰ることにした。体を動かしながらの方が考えをまとめられる気がしたのだ。

中等部一年生のころ、クラスメイトが授業中にヒートを起こした。
朝から具合悪そうにしていたその女子生徒は、静まり返った教室で数学の小テストを解きながら突然胸を抑えて苦しみだした。斜め後ろの席だった宍戸は丸まっていく背中が荒い呼吸に上下するのを見るや否や「先生!」と良く通る声で叫んだ。
問題を解くことに集中していた他のクラスメイト達は宍戸の大声に何が起きたか分からずびっくりして肩を震わせ、一斉に宍戸に視線が集中した。その斜め前で机に突っ伏して苦しんでいる彼女の存在に気が付くのにそう時間はかからなかった。
状況をいち早く察し教室の窓を開けたのはその子と仲のいいαの女子生徒だった。「吸わないで!」その一言でβであるクラスメイトのほとんどは、彼女がヒートを起こしているのだと理解した。数学の教師はβだった。その子に駆け寄り抑制剤を持っているかと聞くと鞄の中にあると言う。
すぐさま机わきに掛けられた鞄を持ちその子に肩を貸して教室を出て行った。残されたクラスメイト達の大半はフェロモンが強く作用しないβなので「あの子Ωだったんだ」「ヒートって抑制剤飲んでてもなるの?」「αのやつやべーんじゃねぇの?」とざわざわし始めたが五分もしないうちに教師が戻ってきて小テストが再開された。
幸い、数人しかいないα性のクラスメイトへの影響も少なく、多少発熱したくらいで済んだ。
だが宍戸の記憶には突然苦しみだした彼女の弱々しい背中が深く刻み込まれた。あんなこと、もしもテニスの試合中に自分の身に起こったら。それは恐怖として植え付けられ、今でも宍戸に抑制剤を手放すことを許さない。
抑制剤は自我を失わずに生きていくための「お守り」なのだ。
お守りが自分を自分として居させてくれている一方で、Ω性であることを否定し続けている。これは自分を受け入れることが出来ずにいるということに他ならないのではないか。
「長太郎が居なければ、こんな風に考えることもなかったのにな」
揺れる気持ちはすでに鳳に傾いていた。
番いたいと自分を求める後輩。番うために必要なヒート。ヒートの起こらない体。いつか手放さなければならないお守り。

宍戸はその夜もいつもと変わらず抑制剤を飲んで眠りについた。
宙ぶらりんの自分を抱いたまま。

話があるからご飯にでも行きませんかと鳳に誘われたのは、主治医に抑制剤の使用を止めるよう提案されてからしばらく経った頃だった。
待ち合わせた時間は夜の九時。
鳳から送られてきた地図のとおりに来てみれば、入口とテラス席が植物に囲まれたカフェに着いた。大通りから一本奥まった路地にたたずむその店に踏み入れると、明るさを絞った間接照明が落ち着いた雰囲気を醸し出し、琥珀色の木目が美しいテーブル一つ一つに置かれたランプの炎がほのかに揺らめいている。
どこか異国情緒の漂う店内はほぼ満席の状態だった。
「いらっしゃいませ」
若そうな見た目と反して物静かなトーンで話しかけてきた店員に待ち合わせている旨を伝えた宍戸は、案内されるまま店の奥へと歩みを進めた。
「あ、」
一番奥のソファー席で本を読んでいる鳳を見つける。こげ茶色のベルベット地に背を預けて伏し目がちにページを繰る姿が悔しいほど絵になっていて、思わず眉をしかめてしまった。
「よぉ」
向かい側にどかりと腰掛け店員にアイスコーヒーを注文する。一瞬目を丸くした鳳は待ちわびた宍戸の姿に口元を緩めた。
「こんばんは。久しぶりですね」
「おとといテニスしただろ」
「でも昨日会ってないじゃないですか。十分久しぶりです」
さっきまで真剣に読み耽っていた本をぞんざいにテーブルの端に置く。まるで宍戸以上に興味のあるものなど一つもないと言われているみたいな仕草にドキリとさせられた。だから宍戸も鳳が何を読んでいたかなんて聞いてやらない。そんなことよりも聞きたいことがある。
「こんなところに呼び出すなんて、なんかあったのか?」
「あったというか、これからあったらいいなと思っているというか」
「?」
鳳のアイスティーはすでに半分ほど減っていてグラスがうっすら汗をかいている。ストローで氷をつついて言葉を濁す鳳を訝しんで先を促そうとしたとき、ちょうど先ほどの店員がアイスコーヒーを持ってきた。
「ミルクとシロップはご入用ですか?」
「あ、はい」
小さなガラスのミルクポットが二つ置かれた。それぞれポットの七分目まで液体が入れられている。店員はにこやかに一礼して去って行き、二人の視線が透明なガムシロップとミルクに注がれた。
「宍戸さんってブラック派でしたよね?」
「……」
店の洒落た雰囲気に飲まれて「はい」と答えてしまった。
若干の気まずさを感じながらストローを咥えた宍戸は、一口啜ったコーヒーの味に目をむいた。おいしい。何がどう違うのかうまく言えないが、自動販売機で買う缶コーヒーとは明らかに違う。別の飲み物と言っても過言ではない。
「おいしいですか?」
「うん」
「よかった。ここ、夜遅くまでやってるんでたまに来るんですけど一度宍戸さんと来てみたかったんですよ。ソファー席がね、一人だと座れないんです。二人以上じゃないといけなくて」
「いつも一人なのか?」
「? そうですよ?」
あらためて店内を見渡すと、遅い時間だからか若者の姿が多い。その誰もが身綺麗に着飾っていて、飲食する場というよりはファッションの展示会のようだった。
その中に違和感なく混ざりこむ鳳の姿を想像して、宍戸はまた眉をしかめた。絵になりすぎるのだ、なにもかも。気に食わなくて腹が立つというのとはちょっと違う。この感情には名前がないと思っている。少なくとも今は、まだ。
「で? 話ってなんだ」
ストローを咥えながら鳳を見遣る。鳳からしたら不意に上目遣いで見つめられてドキッとする仕草なのだが、当の本人にはそんなあざとい狙いなど全くない。
「えーっと」
「なんだよ、はっきり言えよ」
「あらためて言うとなると緊張しちゃいまして」
「なんだ? 相談じゃないのか?」
「相談というか、告白というか」
「告白?」
「あっ、言っちゃった。えーっと、あの、俺」
「うん」
「宍戸さんのこと」
「うん」
「好きなんです」
「知ってる」
「……ですよね。そうなんですけど、ちゃんと伝えたくて、こんなところにお呼び立てした次第です……」
何年も面と向かって「番ってくれ」と言い続けてきたくせに、鳳は真っ赤に頬を染めキョロキョロと視線を泳がせながら背を丸めて小さくなっていく。
「なんで今更……」
こんなに自信なさげに「好きだ」と告白されたのはこれが初めてだった。
「今更って思いますよね。俺も思います。でもちゃんと宍戸さんに好きだってこと伝えないとだめだと思ったんです」
「どういう心境の変化だよ」
「だって、……あの、手、握ってもいいですか」
テーブルの上で所在なさげに握られた鳳のこぶしと縋りついてくるような瞳を交互に見つめてから、宍戸は何も言わずに右手を差し出した。鳳はその手の質感、硬さ、温かさを確かめるように恭しく両手で包み込む。
「宍戸さんが俺のフェロモンに反応しないのはわかってるんですけど……本当に本当に宍戸さんのことが好きで……どうしたらいいかわからなくて」
「だから告白?」
「やっぱり順番は大事だと思いまして」
意を決して、鳳は短く息を吐いた。うっすら涙の膜が張られた琥珀色の瞳が宍戸を射抜く。
「俺の恋人になってくれませんか」
迷いのないまっすぐな言葉で、鳳は宍戸に懇願した。宍戸の手を包む両手が震えてしまう。宍戸に憎からず思われていることはわかっていた。だから無下に拒絶されることはないかもしれない。それでもやはり断られる可能性の方が断然高いだろう。今から宍戸の口より吐き出される言葉によって鳳の感情は支配される。せめて泣きじゃくってしまわないように腹の底にぐっと力を込めた。
「聞きたいんだけど」
「はい」
「本当に好きになったって言ったよな? つまりどういうことだ?」
鳳の手の中で好きにさせていた右手を引いて、宍戸はアイスコーヒーの入ったグラスを引き寄せた。ストローに口を付ける様を見つめながら、鳳は空になってしまった両手の隙間を埋めるように指を組んで口を開いた。
「出会ったころから宍戸さんのことを好きだったのは本当です。運命の番だって思いました。でももし、この世界にバース性がなかったとしても俺は宍戸さんのことが好きなんだって思うんです」
「つまり俺がΩじゃなくても、ってことか?」
「はい」
「だけど俺はΩでおまえはαなのは変わらない事実だよな」
「……そうです」
「いつかは番いたいって思ってるんだろ?」
「それはもちろん」
「もちろん、か」
「え?」
苦笑をこぼして宍戸は立ち上がった。アイスコーヒーはまだ半分以上残っている。
突然席を立った宍戸をぽかんと口を開けて見上げる鳳を一瞥して、伝票を手にレジ前へと向かった。
鳳は慌ててテーブルの上の本を片付けた。そのあとを追いかけて、料金を支払おうとしている宍戸の横から強引に千円札を二枚マネートレイに滑り込ませる。
「俺が誘ったんで」
「……」
去ろうとする理由を語ろうとしない宍戸に不安そうな視線を投げつつお釣りを受け取った鳳は、ドアを開けた宍戸の後に続いて店を出た。
夜と言えど、夏の終わりの空気はしっとりと肌にまとわりついてくる。一本通りを挟んだ車の多い大通りからはときおりエンジン音とクラクションのけたたましい音が聞こえてくるが、それでも都会のど真ん中にしては閑静といえた。
駅までのみちのりをしばらく無言で歩く。先に二人の間に流れる沈黙を破ったのは宍戸だった。
「おまえのことは嫌いじゃない」
どんな拒絶の言葉を投げつけられるのだろうと身構えていた鳳は、肯定とも受け取れる宍戸の返答に声を弾ませた。
「だったら」
「だけど、だめなんだよ」
しかしその期待は一瞬のうちに突き崩される。
ゆっくり振り向いた宍戸の表情からはなんの感情も読み取れない。ただ、鳳を受け入れるつもりがないということだけははっきりとわかった。
「俺さ、もうすぐ二十歳になるんだ」
静かに話し始めた宍戸の声が、いやに強張って聞こえた。
「おまえが俺に番になってくれって言い始めて何年経った? その間に一回でも俺にヒートが来たか? 来てないんだよ、一回も。一回もだ。おまえといるときに来ないんじゃない。生まれてから今まで一度もヒートになったことがないんだ。これがどういうことかわかるか?」
「どう、いう」
「俺は誰とも番えない」
まっすぐ鳳を見据える瞳にはなんの熱もなかった。むしろ凪いだ水面のように穏やかにも見えて、それが宍戸が鳳に出した答えだと強く感じざるを得なかった。
宍戸の吐露に、鳳は頭を硬い石で殴られたような衝撃を覚えた。
もう六年以上宍戸のそばにいる。何度求愛したかなんて覚えていない。誰よりも近くにいて彼のことを理解していると思っていた。ヒートを起こすところを見たことがないのも、抑制剤とストイックな体調管理で周囲に気付かせないようにしていたんだと思っていた。
まさかヒートそのものが彼の中に存在していないだなんて。
見つめ返す鳳の瞳が涙で覆われていく。ぐっと唇を噛み締めた鳳は袖口で溢れそうになった雫を拭った。
なんて悲しいことを言わせてしまったんだろう。
番ってくれという言葉で、細かな傷を宍戸に負わせ疲弊させてきたことに気付かなかった。注げば注ぐほど宍戸をくじけさせる愛情ならば、そんなもの初めから無かった方がよかった。
鳳は自らの浅慮と独りよがりの愛情を悔いた。
宍戸は自分のことを拒絶したわけではないのだろう。
けれど、誰かとともに歩む未来を手放してしまったのだとしたら、隣にいることすら許されないのと同義ではないか。
「そういうことだから、もう俺にこだわるのはやめろ」
「そんな」
「おまえの気持ちはよくわかったから」
宍戸は諭すように笑んだ。その笑顔がひどく寂しく見えて言葉が出ない。
踵を返した宍戸は駅への道を再び歩みだした。
今すぐ引き止めなければ何かが終わってしまう。このまま別れていいわけがない。暗闇に溶けるように遠ざかっていく背中が鳳を焦らせた。
鳳は自身を問いただした。彼がΩだったから好きになったのか。自分がαだから惹かれたのか。そうではないと気付いたから、今夜宍戸を呼び出したのだ。
では、番えなければαとΩの自分たちは想い合ってはいけないのか。
「そんなわけないじゃないか」
小さくなっていく宍戸の背中に投げかけた声は、生温い風に吹き消された。
想いに突き動かされた鳳は地面を蹴って駆け出した。一歩踏み出すたびに涙が溢れて視界がにじんでいく。けれど双眸はその背中をはっきり捉えて離さない。
「宍戸さん!」
鳳の声に肩を揺らした宍戸は、それでも歩みを止めようとしてくれない。
「宍戸さん!!」
もう一度、祈るように叫んだ。
話を聞いてほしい。謝らせてほしい。そして、どうか傍にいさせてほしい。
悲壮にも聞こえるその声に、宍戸はためらいながら振り返った。
鳳の姿をとらえるより早く、体ごとぶつかるようにして抱きつかれたたらを踏む。その腕はきつく宍戸を離そうとしない。
「ごめんなさい。俺のせいで」
「なんでおまえのせいなんだよ」
「俺、宍戸さんのことが好きで、いつか宍戸さんと番えるんだって何も疑わずにいたんです。その確信は今も変わっていません。でも、そんなの関係なかった」
「……」
「Ωとか、αとか、運命の番とか、そういうの全部忘れちゃいませんか」
「おまえが……それを言うのか……」
驚愕に慄く声が鳳の鼓膜を震わす。
「番いたいって言い続けてきたおまえが」
「何度だって言います。宍戸さんの傍にいられるなら」
「できるわけねぇだろ。俺たちは生まれた時からΩでαなんだ」
「俺は俺で、宍戸さんは宍戸さんです。ねぇ、そうでしょう? 俺は完全じゃないし、宍戸さんは不完全じゃない。俺たちは何も持ってないし、全部持ってる」
「何を、言って」
「俺たちは俺たちでしかないんです。だから、お願いですから、一緒に恋愛してくれませんか」
こんなのは詭弁だ。けれど宍戸の心に響いてくれるのならばどんな言葉にだって縋りたい。
本当は互いに気付いているのだ。自分たちは想い合っている。鳳は宍戸に恋しい気持ちをなかったことにして欲しくなかった。
「俺とおまえじゃ番になれないのに」
「αとΩが必ず番わないといけない決まりなんてないじゃないですか」
宍戸を抱きしめる腕にいっそう力を込めた。
言葉でも伝わらないのなら、内側から迸る想いと体温が宍戸の頑なな心を解いてくれはしないだろうか。
宍戸は鳳の腕を振り払わないが、抱きしめ返してもくれない。
それでもよかった。
腕の中にいるうちは、たとえ悲しみに涙したとしても手を差し伸べることが出来る。
それすらできなくなることの方が恐ろしくてたまらなかった。
「……どうしても俺なのか」
「はい」
「そうか」
胸のあたりからため息が聞こえ、宍戸の肩の力が抜けた気がした。呆れ果ててしまっただろうか。しかし腕を緩めてみても離れていこうとしない。それどころか体重を預けられ、鳳は遠慮がちに小鳥に頬擦りするようにそっと柔らかな髪に顔を寄せた。
「なんでヒートが来ないのか、原因はわからないらしい」
「そうなんですか?」
「この前病院で言われた。強い抑制剤を使いすぎたのか、もともとそういう体質だったのか、原因がわからないから治そうにも治せない。つってもヒートなんて来ない方がいいんだ。Ωとして生まれちまったのはどうしようもないけど薬でどうにか出来るならその方がいい。じゃなかったら俺は何も手に入れることが出来なかった」
「テニスのことですか」
「ああ。あそこで勝ち残るために必要だったし、その結果としてΩとしては普通じゃない体になったわけだけど俺は少しも後悔してない。だけど、なんつーか」
「……」
「おまえと番えないのは、少し、さみしい気がする」
「宍戸さん……」
背中に回された宍戸の腕。じんわりとした熱が鳳の涙腺を緩めた。
「俺は俺だし、おまえはおまえだ。そんなのわかってる。けど、同じようにΩでαだってことも変えられない事実だろ」
「……はい」
「だから忘れるなんて出来るわけないけど……」
宍戸の腕に力が籠められ、二人の隙間を埋めるように体の前面を密着させてきた。
今度は鳳が驚きに体を硬直させる番だった。頬に当たる毛先がくすぐったい。宍戸の方からこれほどに近づいてこられたのは初めてで、合わせられた胸の鼓動さえ手に取るようにわかってしまう。
鳳はうるさいくらいの自分の鼓動も伝わってしまっているのが少しだけ気恥ずかしかった。
「こんなに近くにいてもなんにも反応しないけど、それでいいなら恋愛ってやつをしてもいい」
心臓が跳ね上がる。
あぁ、と感嘆のため息をついた鳳は宍戸の肩口に鼻先をうずめて呻くように呟いた。
「やっぱりバースなんて関係ないですよ。好きな人と、宍戸さんと繋がりたいって、どうしようもなく思っちゃうんですもん」
「はは、そんなに好きか、俺のこと」
「それはもう。宍戸さんからフェロモンが出ていなくたって」
宍戸のへそのあたりには緩く勃ち上がり始めたものがあたっている。
「結構、ギリギリなんです」
「……まじかよ」
「はしたなくてすみません」
「いや、別にいいけどさ」
「えっ!」
突然鳳に両肩を強くつかまれ引き剥がされた。
何ごとかと見上げた鳳の頬もひたいも、街灯の下で朱色に染まっている。
「え?」
「い、いいんですか」
「いいってなに、が……あっ、いや、ちがっ」
他意はなかったのだが、鳳は宍戸の言葉を諾と受け取ったようだった。
諾、つまり性的な欲望も受け入れるということ。当然のことだが、番うことはできなくとも性交自体はどのバースが相手でも可能だ。
「そういう意味で言ったんじゃねぇぞ」
「で、でも俺たち恋人になったんですよね?」
「お、おう」
「それって、宍戸さんが誰にも触らせたことがないようなところも触っていいってことですよね?」
「おまえ……言い方ってもんがあるだろ……」
真剣なまなざしでこちらを見つめてくる鳳から伝染したみたいに、頬が熱く火照り始める。鳳が宍戸に執着するのはΩを所有したがるαの習性のようなものだと心のどこかで軽んじていたというのに、必死に宍戸を求める姿になんだが胸が甘く締め付けられるようだ。
「そ、そのうち、な」
紅潮した頬を隠すように俯いて呟いた宍戸を衝動のままに抱きしめた。
「キスもセックスも宍戸さんとがいい。宍戸さんとじゃなきゃいやです」
「だから言い方……」
呆れたように笑って、宍戸は鳳の背を撫でた。
「でも、そうだな、俺もおまえとがいい」
ぬるま湯のような夜が、絡み合った二人の想いを包み込む。互いの体温が馴染んで離れがたくいつまでもこうしていたいと願ってしまう。
別れ際、二人は初めてのキスをした。かさついた唇を寄せ合って触れるだけの拙いキスだった。
より一層恋しさが募って、家に帰り着いてからも思い出すたびに鼓動が高まり胸をときめかせた。

大学卒業後、それぞれ働き始めた二人は互いの職場がある場所の中間地点に部屋を借りともに暮らし始めた。社会人三、四年目ともなると自分の仕事だけでなく後輩の育成やチーム内でも核を担う立場としての業務も増え、互いに多忙な日々を過ごしている。帰りが遅くなる日も少なくは無かったが、毎日同じベッドで眠り目覚める日常は二人にとってなくてはならないものだった。
鳳と付き合うようになってから、宍戸は抑制剤を効き目の強いものから弱いものに変え、服用する頻度も徐々に減らし始めた。以前は多いときに一日に三、四回服用していたが、最近では二日に一回服用する程度になっている。極端に抑制剤を減らしたところで相変わらず宍戸の体にヒートは起こらなかったが二人の関係になんら影響はなかった。
初めて体を繋げたときから幾度となくセックスをしても宍戸の後孔が自然に濡れることはなかったし、試しに交合中にうなじを噛んでみても数日後には跡形もなく消え去ってしまったけれど、そんなものは二人が互いの手を離す理由にはならなかったのだ。

「今日も遅くなりそうか?」
「あー……どうだろう。でも出来るだけ早く帰るようにします」
「じゃあ早く終わった方が牛乳買って帰るってことでいいか」
「わかりました」
通勤に同じ路線を使う二人はホームに入ってきた各駅止まりの電車に乗り込んだ。鳳が途中の駅で別の路線に乗り換えるまで毎朝一緒に時間を過ごす。
車両の真ん中あたり、座席前に立ち吊革を掴むとしばらくして発車ベルが鳴った。
「やっぱり月曜は少し混みますね」
鳳の言葉の通り、車内は通勤通学の人々が溢れている。すし詰め状態とまではいかないが肩の触れ合う近さでは自由に身動きを取ることは難しい。
都会の朝を象徴する満員電車に揺られながら時々言葉を交わしていると鳳が乗り換える駅に着いた。
「じゃあまた家で」
「おう、また」
人の流れるままドアから吐き出された鳳を車窓越しに見送って、宍戸を乗せた電車は再び走り始めた。
職場のある最寄り駅まではここからあと六駅ある。何をするでもなく中吊り広告を見上げながら今日の仕事の段取りや晩ご飯のメニューを考えて宍戸は時間をつぶすことにした。
しばらく思考を巡らせていると突然車内がざわつき始めた。
「大丈夫ですか?」
「なに? 急病人?」
声の方に首を伸ばしてみるが人混みに阻まれて何も見えない。聞こえてくる会話から推察するに誰かが具合を悪くしたようだ。
貧血かなにかだろうと車内の誰もが思った次の瞬間、
「ヒートだ」
という誰かの声に何人かがハンカチや袖で口元を覆い始めた。
おそらく彼らはαなのだろう。強制的に発情を促されてしまうためフェロモンを吸い込まないように自衛しているのだ。「熱い」という声は抑制剤を飲んでいるαからのものだろう。発情しないにしてもフェロモンを嗅いだことにより発熱や発汗といった症状が引き起こされてしまう。
ざわつくなか「ヒートとはち合わせるの初めてなんだけど」「誰か換気してくれ」「早く駅に着かないの」といった声がきこえてきて、宍戸は居心地の悪さと憤りを感じた。
ここからは見えないがヒートを起こしたΩは体調を崩して苦しんでいるに違いない。
それなのに、フェロモンの流出により望んでいなくても他人に干渉してしまうことで周りから浴びせられる好奇の目やΩを疎んじる言葉。宍戸の脳裏に中等部時代の記憶が蘇った。あのときヒートを起こした彼女は一週間休んだあとどうなったんだっけ。
「○○駅~○○駅~お降りのお客様は……」
車内アナウンスにはっとした宍戸はヒートを起こした乗客がいる方向に視線を投げかけた。
降車していく乗客たちに混じって、制服を着た男子高校生がふらつきながら降りていった。
ホームでうずくまる彼に駅係員が駆け寄る。
震える手で鞄の中を探った彼は抑制剤と思われる薬を口に放り込んで自分の体を押さえつけるように抱きしめた。
再び走り始めた電車の中から一部始終を目撃した宍戸は、小さくなっていく背中をただじっと見つめていた。

その夜、宍戸は高熱を出した。
滅多に病気にならない宍戸が突然体調を崩したことに狼狽した鳳は宍戸を連れて夜間救急に駆け込んだ。すぐに診察され解熱剤と点滴の処置で大事には至らなかったのだが、当直だった医師の言葉が宍戸を驚愕させた。
「ヒートの症状に似てるなぁ。でもフェロモン特有の匂いがしないし、風邪でしょうね」
その医師はαなのだろう、宍戸がΩだと知ると真っ先にヒートを疑った。しかしフェロモンは出ていない。よって風邪と診断したのだ。
「ヒート……?」
「Ωの方なら経験があると思うんですが、ヒート時の発熱は他の病気と比べて初期症状がないのが特徴なんです。普通風邪をひいた場合の発熱は頭痛がしたり間接の節々が痛んだり何かしらの兆候がありますよね。それが全くなく突然発熱する。発熱といっても体が火照る程度なのが一般的なのですが、たまにあなたのように高熱を出してしまう方もいるんですよ。Ωだと伺ったのでそのケースかと思ったのですが違うようですね。脱水を起こしかけていたので点滴をしましたが、解熱剤が効いてきたようなので点滴が全部終わったら帰って大丈夫ですよ」
説明を終えた医師が処置室から出て行くのを見送った二人は顔を見合わせた。どちらも驚きを隠せない。
「あの先生は宍戸さんにヒートが来ないことを知らない……」
「ああ、でもヒートに似た症状だって言ってたな」
「それって……どういうことなんでしょう?」
「わかんねぇ……俺の体、どうなってんだ?」
「と、とにかく、宍戸さんが無事でよかったです」
「心配かけてごめんな」
宍戸はほっとした表情を見せた鳳に点滴の針が刺さっていない方の腕を伸ばした。温かな両手に包まれた手のひらから鳳の優しさが伝わってくる。
「そういえば今朝、ヒートを起こした学生と同じ車両だったんだ」
「えっ、その子大丈夫だったんですか? 今朝って俺が降りたあとですよね?」
「うん。すぐに降りていったんだけど、なんつーか……」
「たくさんの人がいる前でヒートになっちゃったんだ……つらかったでしょうね」
「つらいって、なんでわかるんだ?」
「だって苦しそうじゃないですか。ヒートになった人を何人か見たことがありますけどみんな一人でじっと耐えていて、とてもつらそうに見えます。助けてあげられたらいいんですけど、俺には何も出来ないし」
「フェロモンか」
「はい。抑制剤は飲んでいますけど、もろに吸い込んじゃったらやっぱり影響は出ちゃうんで近づけないんです」
「そうなのか……」
悲しそうに眉尻を下げる鳳の姿に、宍戸はなぜかモヤモヤしたものを感じた。Ωの苦しみに寄り添おうとする鳳を誇らしく思う一方、自分と違ってバース性が正しく機能しているΩのフェロモンが鳳を反応させる事実にうなじがチリつく。
頭ではわかっていたつもりだった。なんの弊害もなくαとして成熟した鳳は当然Ωのフェロモンに発情すると言うことを。
「どうしました? どこか具合悪くなってきましたか?」
表情を硬くした宍戸を心配した鳳が顔をのぞき込んできた。
「なんでもない。ちょっと疲れただけだ」
「もう少しで点滴も終わりますし、早く帰って寝ましょう。明日は無理しないで会社休んでくださいね」
「わかった」
帰宅して早々に床についた二人だったが、宍戸は外が明るくなるまで寝付けなかった。
鳳を誘惑できる他のΩへの嫉妬と、それが叶わない自分への劣等感。
渦巻き始めた負の感情を振り払うようにきつくまぶたを閉じても眠気が訪れてくれない。
鳳に不信感を抱いているのか。そんなはずはない。ヒートが来ない体でも生きていけると割り切った自分を否定するのか。そんなことしたくない。Ωに生まれた自分を否定するのか。そんなこと絶対にするものか。

この日から、アイデンティティーの揺らぎが徐々に宍戸の精神と肉体を蝕んでいった。

鳳が宍戸の異変に気付いた頃には、宍戸が高熱を出した夜からすでに数ヶ月の時が経っていた。
最初の異変は、宍戸が帰宅してから鳳のそばを離れようとしなくなったことだった。はじめの頃は宍戸の方からくっついてきてくれることが嬉しくて特に気には留めていなかったのだが、そのうち外であっても鳳の服の裾を掴んでいたり、通勤時に乗り換える駅が近づくと思い詰めた表情で強く腕を引いてくるようになり鳳は違和感を覚えた。振り払うことができずに乗り過ごす回数が増え、そのたびに今にも泣き出しそうな顔で「ごめん」と言う宍戸を車内に残して降車する。
そんな日々が続いたある日、宍戸は外出時に必ずマスクを付けるようになった。風邪をひいたのかと聞いてもそうではないと言う。レストランでもマスクを外したがらないから外食も行かなくなった。
鳳がよく知る宍戸とは思えない行動の数々に、意を決して理由を聞いてみたのだが何一つ答えてはくれない。「なんでもない」の一点張りで鳳はほとほと困り果ててしまったが、家の中に二人で居るときは鳳のそばを離れたがらない以外は今までと何ら変わりない宍戸なのだ。
わけがわからないままただやみくもに日々は過ぎ、外に出るときだけ前述のような行動をとるのはやはりどこかおかしいのではと鳳が気付いた頃には、宍戸の精神は限界に来てしまっていた。

「そろそろ出ましょうか」
「うん」
朝の支度を終え、いつもと変わらず玄関に立った鳳は先に靴を履き終えてドアを開けた。先日満開になった家の前の桜の木が青空に映えて美しい。
「晴れてよかったですね。桜がとってもきれいです」
毎朝、宍戸が靴を履き終えるまでドアを開けて待つのは鳳の仕事だ。眩しい陽の光に目を細めた鳳は口元に笑みをたたえたまま振り返った。
「ねぇ、週末まで桜が残っていたら散歩にいきませんか?」
「……」
「宍戸さん?」
玄関の真ん中で靴を履き終えた宍戸が俯いたまま立ちすくんでいた。呼びかけても一歩を踏み出そうとしない。
すると、持っていた鞄を手から滑り落としてしまった。
「あ」
「し、宍戸さん? どうしたんですか?」
ただならぬ雰囲気に、鳳は宍戸に近寄った。
ドアの閉まるバタンという音に宍戸の肩が揺れ、弾かれるように上げられた顔は血の気を失い真っ青になっていた。
「ちょ、長太郎」
「具合悪いんですか!?」
「ちが、う……」
震える両手を握りしめた鳳はその冷たさに異常を察知した。平熱が高いはずの宍戸の手が氷のように冷たいなんてありえない。
「このまま病院にいきましょう。なにか大きな病気の初期症状かもしれない」
「だ、だめだ、行けない」
「どうして」
鳳は口を噤んだ。
見開かれた宍戸の双眸から大粒の涙がこぼれ始めたのだ。宍戸は自分の身に何が起こっているのか理解が追いつかないのだろう。幽霊でも見たかのような表情でぼろぼろと涙を流している。
「動けないんだ、長太郎、俺、ここから動けない」
「なん、で」
「わからない。なんで動けないのかも、なんで泣いてるのかも、なにもわからない」
「宍戸さん、落ち着いてください」
「どうしよう、俺おかしい」
「大丈夫です。大丈夫ですから」
こんな風に涙を流す人ではない。どうして彼がこんなに悲しまなければならない。
鳳はなりふり構わず目の前で震える宍戸を抱きしめた。
怖々と背に回された腕が鳳に助けを求めている。鳳は狼狽えそうになる心を叱咤した。今一番つらいのは自分ではない。一刻も早く宍戸を救うために、彼を襲った事態の原因を突き止めなければならない。今日までに見てきた異変は、前兆としては十分すぎるほどだったのだ。鳳は原因を探る手がかりが宍戸の中にあると確信していた。
「宍戸さん、話してくれませんか」
「なに、を」
「宍戸さんがここ数ヶ月の間に考えていたことを、です」
「俺は何も」
「何も無いわけないんですよ。俺が何年宍戸さんを見てきたと思ってるんですか。それなのに何が宍戸さんを苦しめているのか全然わからなくて、俺は悔しいんです」
「……」
「ずっと側にいますから、ね?」
シャツに宍戸の涙が染み込んでくる。
震える宍戸の背をさすりながら、鳳は待ち続けた。
そして背中の宍戸の手のひらからぬくい体温を感じ始めたころ、ようやく宍戸は口を開いた。
「ちゃんと話すから、部屋の中に行きたい」
「何時間でも聞きますから」
「うん。ありがとな」
リビングに戻った二人は職場に休むことを連絡してから部屋着に着替えた。少しでも宍戸をリラックスした状態にさせた方がいいと鳳が判断したのだ。
ソファーに並んで腰掛けて、温めたミルクココアに口を付ける。体の内側が温められて、宍戸の頬には血色が戻ってきた。
「前に熱出たことがあっただろ。あれからぐるぐる考えるようになってしまって……」
「考えるって何をですか?」
「……おまえに本物の運命の番が現れたらどうしよう、って」
鳳は手に持っているマグカップを滑り落としそうになり、慌ててテーブルに置いた。
自身のカップの中身をまんじりともせず見つめている宍戸に続きを促す。
「どういうことですか」
「おまえと付き合ってるのってすごく居心地よくてさ、俺は長太郎がαだってこと、本当に忘れてしまいそうになっていたんだ」
「俺も宍戸さんと毎日一緒に居られて幸せに思っています。でもどうしてそれが俺に別の番が現れるかもしれないって思う理由になるんですか?」
「おまえはちゃんとΩのフェロモンに反応するって言ってただろ?」
「確かに反応はしますけど、だからって宍戸さん以外の人とどうこうなったりしませんよ」
「そうは言っても、もし運命の番ってやつが現れたらどうなるかなんてわからないだろ」
「何度も言ってますけど、俺は宍戸さんのことを運命の番だって思ってます。たとえ宍戸さんにヒートが来なくても、」
「そうだ、来ないんだヒートが。だから証明できない。俺がおまえの運命の番なのかそうでないのか。そう思った途端に、長太郎と離れるのが心底怖くなった。俺がそばに居ない時に誰かのフェロモンに当てられてそいつと番ってしまったらどうしようって、そればかり考えて息が詰まるんだ。そうやって不安になればなるほどおまえのことを信じていないのかって苦しくなって、そしたら」
「そしたら……?」
「今度は俺の体が信じられなくなった」
震えだした宍戸の手にそっと触れて、強張る指先をひとつひとつ宥めながらマグカップを受け取った。テーブルに置いた自分のカップの隣に並べ再び宍戸の手を取って、感情が昂って呼吸の浅くなった宍戸に深呼吸を促すと少しほっとしたのか、話し始めてから一度も合わせようとしなかった瞳をようやく鳳に向けてくれた。
「熱を出した時に医者にヒートの症状に似ているって言われただろ」
「ええ」
「もしかしたら抑制剤を減らしたおかげで俺の体がヒートを起こすように変わってきたのかもしれないって思ったんだ。ヒートが来ればおまえも喜ぶと思った」
「……」
宍戸の言う通り、もし彼がヒートを起こしたら鳳は諸手を挙げて喜ぶことだろう。
「でもヒートを起こすのがあの日の誰かみたいに知らない人間の前だったら、長太郎以外のやつと番ったりしてしまったら、俺は」
「宍戸さん」
「俺は俺が信じられない。長太郎に反応しなかった体が知らないやつに反応したらどうする? もしもそいつが俺の運命の番だったらどうする? 運命の番には抗えないんだろ? 我を忘れて発情して、気付いたらそいつと番ってたりしたらって思ったら……思ったら、おまえ以外の人間の匂いが全部だめになった」
「だからマスクを」
「頭でわかっていてもだめなんだ。αからのフェロモンはΩが出す量に比べたらごく少量だし相性がよくないとΩが反応することはまずない。でも何がきっかけになるかなんてわからないだろ」
「そんな」
「この数か月間ずっと俺が俺じゃなくなっていく感覚がしていた。ヒートが来ないことも、長太郎と番えないことも、全部納得してここに居るのにときどき空っぽになった気がして無性に消えてしまいたくなる。俺をΩとして産んだ両親のことも、なんの欠陥もないαのおまえのことも、居るかもわからない運命の番のことも、誰も悪くないのに恨んでしまいそうになるのが許せない……!」
悲痛な叫びが部屋にこだまする。
宍戸は自分自身を許せないと言ったが、ここまで思い詰めさせてしまっていたとを気付けずにいた鳳は自分こそが糾弾されるべき人間だと思った。
「また強い抑制剤を飲めばマスクなんてしなくてもヒートは来なくなるだろうってわかってた。でもな、本当のことを言うと、もう抑制剤は飲んでいないんだ」
「そうだったんですか?」
「今更ヒートが来てほしいと思うようになるなんてな。驚くだろ? 俺が一番びっくりしたぜ。だけどヒートは来ない。今もΩのくせに誰とも番えない、宙ぶらりんのままだ」
ヒートなんて来ない方がいいと言っていた宍戸が体の変化を望んでいる。宍戸と番いたいという鳳の想いは今も色褪せないが、この変化が宍戸を苦しめているとしたら、鳳にできることは一体なんだろうか。
「それでも一番つらいのは、おまえと離れることなんだ」
「宍戸さん」
一瞬、宍戸から離れることを考えた。これは宍戸一人の問題ではない。αとΩの宿命からは逃れられない。ならば距離を取って宍戸を番というシステムから解放してあげるのが鳳に出来る唯一の解決方法だと思った。
しかし、宍戸の願いは鳳との共存だ。共に生きたいが為に苦しんでいるのだ。
だったらやるべきことは一つだ。
鳳の腹は決まった。
「宍戸さん」
「わりぃ、変なことばかり言って」
「どうして謝るんですか。俺の方こそ、なにも気付いてあげられなくてごめんなさい。でも全部話してくれてよかった」
「俺と居るの、いやになっただろ」
「まさか! だって宍戸さんが外に出られなくなったのは俺以外の誰か相手にヒートを起こしたくなかったからでしょう? それって熱烈な愛情表現だと思うんですけど」
「愛情表現?」
「俺を誰にも取られたくなくて、宍戸さんも俺以外のものになりたくないって、そう言ってるように聞こえました」
「……能天気すぎる」
「ははは、宍戸さんが弱っている時に俺まで落ち込んでいたらだめだって、思うんです」
「長太郎……」
「だから決めました」
「決めた? 何を?」
「宍戸さん」
鳳はまっすぐに宍戸の瞳を見つめて微笑んだ。
「一緒に、逃げちゃいませんか」

飛行機と船を乗り継いで到着したのは日本の南西に位置する離島。季節は初夏。梅雨入りしたばかりのじめじめした東京の空とは違い、真っ青に晴れ渡って所々くっきりとした形の雲が浮かんでいる。転居先は鳳が選んだ。
すでに夏を迎えたこの場所で、二人は新しい生活を始めることにしたのだ。

逃げちゃいませんかという鳳の提案を、宍戸は始め受け入れなかった。何事に対しても逃げるという選択肢を持たずに生きてきた宍戸にとって、努力せずに現状から逃げ出すことは負けることと同義だった。
そうではないと鳳が説得し、仕事を辞め、転居に至るまで二か月を要した。鳳が思いの外短期間で引っ越しまで済ませられたことにほっと胸を撫で下ろしたのに対して、宍戸は退職するその日までこの選択が間違いではないか懊悩していた。
「これはバカンスという名の戦略的撤退です」
「なんだそれ」
「尻尾を巻いて逃げるんじゃありません。戦い続けていても勝ちはないし負けもない。人生ってそういうものでしょう」
「なんの話だ?」
「俺と宍戸さんの人生の話です!」
今一番優先すべきは宍戸にとってストレスの少ない場所で生きること。つまり出来る限り他人と接触のない生活をすることだ。完全には不可能でもこのまま喧噪の中で過ごすよりよっぽどいい。

表立っては知られていないが、日本中のいたるところにバース性によってなんらかの事情を抱えた人々が生活する静養地があり役所に認められれば誰でも制度を利用して住むことができる。
静養地といっても施設があるわけでも特別なサービスが受けられるわけでもないが、転居先や仕事の斡旋に加えて個人情報の不開示措置なども申請が可能だ。簡単に言えば空気のいい土地に引っ越してのんびりしましょうという制度なのだ。
広く認知されていないのは単純に利用者数が少ないからだ。理由としては、利用者の大半であるΩ性がそもそも稀少である上に、経済的理由や長期休暇の取得が困難であることなどが挙げられる。それでも静養地として維持されてきたのはΩの人権を取り戻そうとする人々が紡いできた歴史的・政治的背景があるからだ。
これらの経緯から、静養地に認定された地域は各都道府県の医師によるネットワークを通じて希望者に紹介された。利用の申請先が役所であるにもかかわらずなぜ医師の紹介によって転居先を決めるのかと言うと、バース性で問題を抱える人々は身体的精神的疾患を抱えている場合が多かったためである。加えて静養先が医院の少ない山村や離島といった地域であった場合、抑制剤の処方が不十分であることをおそれ行政と医療のサポートをスムーズに受けられるようにする必要性があった。
二人は宍戸の主治医に彼の身に起こっている状況を説明し静養地の利用を希望した。健康面に問題ないか、念のため持参する抑制剤はどれくらいにするかなど検査と相談を重ねた。
何度目かの宍戸の診察に付いて行ったとき、主治医は鳳を別室に呼んだ。
他者への強い拒絶は番がいるΩに見られる反応と似ているということ、反応はなくとも体が番になりたがっているため無理にフェロモンを出そうとして体内のホルモンバランスが崩れていると考えられるということ、他人との接触を極力減らして二人で過ごせる時間を作れば鳳の誘発フェロモンが作用して宍戸のヒートを引き起こせるかもしれないということ。
主治医から見解を聞かされた鳳は、いくつかの候補地の中から青い空と青い海が広がる暖かい地域の離島を選んだのだった。理由はない。直感だった。どこか懐かしいような気がした。

「今帰りましたぁ」
「おかえり」
二人が住まう一軒家は昔ながらの平屋建てだ。築年数は自分達の年齢よりも大分古いだろう。しかし二人で暮らすには十分すぎる広さで、移住してきて一ヶ月が過ぎたが水道ガス電気ともに不便なく過ごせている。
家を借りているのはあくまで長期休暇を取って遊びに来たため、と言うのが近所に住む住民への建前だ。もとからこの地で生きる人々にとって、ここは静養地ではなく彼らが先祖代々受け継いできた土地。その中に入って行ってわざわざ自分達の境遇を公にする必要はないし、推奨されていない。
同じく移住してきた人たちの大部分が自身のバース性やそれに伴う問題について他人に詮索されるのを嫌うのは当然のことであり、干渉し合わないのが暗黙のルールとなっていた。
「学校、どうだった?」
「部活はパート練習の日でした。ピアノの出番はあまりなかったなぁ。明日から夏休みだからみんな嬉しそうにしてましたよ」
ピアノとヴァイオリンを演奏できる鳳は近くの中学校で音楽の授業の手伝いをしている。手伝いと言っても教鞭をとるわけではなく、伴奏をしたり放課後に吹奏楽部の練習を見たりするのが主な仕事だ。
島に来たばかりのころ、移住の手続きで町役場を訪れた際に募集の張り紙を見つけ応募したところ即日採用され今に至る。仕事をしたかったのは金銭を得る為ではなかった。二人で生活に困らない程度の貯蓄はある。
鳳は早くこの島の生活に慣れて宍戸が外に出なくてもいいようにしたかった。職を持つということは住民との繋がりを持つということ、繋がりを持つということは町の特性を知ることが出来るということだ。元来人当たりのいい鳳はなんの苦も無く溶け込むことが出来た。見目良い外見にも助けられたと、鳳は遠く離れる両親に感謝した。
音楽の授業も放課後の部活動も、拘束される時間は東京に居た頃に比べればはるかに短い。必要な買い物は鳳が学校からの帰りに済ませ、宍戸は家事の合間に庭で野菜や花を育てるなどして過ごした。家から出なければマスクをする必要も、抑制剤を服用する必要もない。ゆったりとした日々の中で、宍戸の体への負担は随分軽くなっていった。
「明日から授業がない分もっと宍戸さんの側に居られますね」
雨戸を開け放って縁側に腰掛ける宍戸の隣に膝をつき、鳳は笑んで見せた。
「そっか」
「何かしたいことはありますか?」
「したいこと?」
「時間ができることだし。あっ、庭の菜園をもっと広げましょうか。俺、土耕すの好きですよ。今の時期から育てられる野菜ってなんだろう」
鳳はスマートフォンを取り出して夏の野菜を調べ始めた。
「トマトも茄子も植えてあるしなぁ。小松菜とかどうです? 割と早く収穫できるみたいですよ」
「長太郎」
首に巻き付いた宍戸の腕に引き寄せられ、鳳は上体を傾けた。首すじを宍戸の鼻先がくすぐる。スマートフォンを置いた鳳は宍戸の背に手を回してゆっくり撫で下ろした。真夏だ。宍戸が着ているタンクトップは汗でうっすら湿っている。首元にあたる吐息は温かく、鳳は甘えてくる宍戸をありのまま受け止めた。
「宍戸さん? どうしました?」
「長太郎の匂い」
「急いで帰ってきたから、ちょっと汗かいてますよ」
「悪くないぜ」
「そうですか?」
「うん。好きな匂いだ」
すぅ、と深く息を吸い込んで満足したのか、首元から顔を上げてキスを仕掛けてきた。唇の柔らかさを確かめるように啄んで、開いた歯の隙間から舌先を挿し込んでくる。けれど決して深いものではなくて、舌先だけで擽り合うと名残惜しそうに離れていった。
「もっとしないんですか?」
「まだ明るいだろ」
「部屋に籠っちゃえば関係ないですよ」
近頃、宍戸からセックスを誘って来ることが多くなった。決まって鳳の首すじに鼻先をうずめ匂いを肺いっぱいに吸い込んでから、うっとりと表情を蕩けさせて身を寄せてくるのだ。
「最近、長太郎の匂いを嗅ぐとぼーっとする」
鳳は宍戸に自分のフェロモンが効き始めているのではないかと思っている。抑制剤を服用せず毎日鳳としか接触しない宍戸の感覚がより純粋に研ぎ澄まされてきた結果、ごく微量と言われているαのフェロモンにも反応できるまでになったのではないか。Ωのフェロモンはまだ出ないようだし膣液も分泌されないけれど、鳳はそう遠くない未来に必ずヒートが来ると信じている。
夕方と夜の間に差し掛かった空はまだ明るい。
雨戸を閉めて宍戸の手を引いた鳳は、居間を通り抜け寝室に向かった。東京から運んできたベッドに宍戸を押し倒して唇に喰らいつく。何度体を重ねても飽きることがない。肌が触れ合っていないことの方が不自然に感じるくらいだ。
運命の番だと確信したときから、鳳にとって宍戸は自分の半身といえる存在になった。濡れない後孔に人工の潤滑油を馴染ませて怒張で貫けば、そこから全身に快感が伝播し歓びに筋肉が波打つ。射精したあとも互いを求めて止まなくて、呼吸すら忘れて貪り合うのだ。ヒートが来ていないのにこれなのだから、いつかヒートが来たらどうなっちゃうんでしょうね、なんて軽口を叩きあえるまでに宍戸の心の状態は回復していた。
「内緒にしてたんですけど、実は何回か知らないΩの人のフェロモンに当てられて一人で処理したことがあるんです」
精を吐き出し合った気怠い体を汗まみれのまま寄せ合って呼吸が落ち着いてきたころ、鳳は告白した。
「大人になってからは少なくなりましたけど、十代のころはまだバースが安定してなかったからしょっちゅうで、その……」
「よく我慢できたな。あれってすげぇつらいんだろ?」
「キツかったですけど、その頃はもう宍戸さんに出会っていたので」
「俺?」
宍戸の手を取った鳳はその指先に口付けた。
「初めから宍戸さん以外の人に童貞捧げるつもりはなかったんですよ」
「うっわぁ、恥ずかしいやつ」
「なんでですか! 俺の純情です!」
二人はほのかに情事の痕を残したまま、顔を見合わせて笑った。こめかみに張り付いた銀髪を梳く宍戸の指先が心地いい。
「宍戸さんだけの俺で居たかったんです。俺だって、Ωのフェロモンなら誰彼構わず発情するαの習性が嫌で嫌でたまらなかった」
「……長太郎がそんな風に思ってたなんて、知らなかった」
「宍戸さんに知られるのが恥ずかしかったのかもしれません。だってαなんて節操なしじゃないですか。ヒートがきて自由に身動きが取れない人に発情してそれから……そんなの、獣みたいだ」
「獣、ねぇ」
「宍戸さんに出会うまでは自分がαだって受け入れられなかった。でも宍戸さんのことを好きになって、初めてαでよかったと思った。αなら番うことができますから」
「……」
「けれど宍戸さんにヒートが来ないって知ったとき、俺自身に絶望しました」
「おまえに? 俺にじゃなくて?」
「αなら番えると思ったって言ったでしょ? いつの間にか俺は、俺が嫌っていたαの思考になっていました。Ωの宍戸さんとなら何の疑いもなく番えると思ってしまった。宍戸さんの意志を何一つ尊重していなかった。これがαの驕りでなくて何だというんでしょう」
鳳はαである前に一人の人間として宍戸と向き合いたかったのだ。
「宍戸さんが、αでありΩであることは変えられない事実だって言ったとき、ようやくなんで宍戸さんに惹かれたのかわかりました。Ωだからじゃなかった。宍戸さんが宍戸さんだったから。だからここに来られてよかったって思ってます」
「長太郎……」
「宍戸さんと二人きりの時間を過ごせるなんて、幸せ以外のなにものでもないですよ。だから俺に後ろめたさなんて感じないでくださいね。宍戸さんは責任感が強いから俺を巻き込んだと思っているかもしれませんけど、俺もここへ逃げてくる必要があったんだってことを知っておいて欲しいんです」
「うん」
「きっと、俺たち以外の人もこんな風に自分のバースと向き合うためにここに来たんじゃないかって思うんです」
番を剥がされたΩ、番と死に別れたα、番いたくないΩ、性交渉に怯えるα、一人ひとりが事情を抱えて生きている。生まれ持った宿命に抗い、立ち向かいながら、いつかバース性ごと自分を受け入れることができるようになるはず。
初めて打ち明けられた鳳の胸の内に、宍戸はずっと引っかかっていたつかえが取れた気がした。逃げようと言われた時から鳳の生活を奪ってしまったのではないかという罪悪感を抱いていた宍戸は、鳳も同じ様にバース性によって苦しみを抱いていたとは想像だにしていなかったのだ。
「おまえは幸せなのか」
「はい。幸せです。手の届くところに宍戸さんが居てくれるから」
そう言って絡められた指先を、いつまでも離したくないと宍戸は思った。

夏まっさかり、台風の季節がきた。初めて台風の直撃を体験したときは東京の台風とはまるで別次元の威力に二人で唖然としたものだが、今では頻繁に上陸する台風に備えて家の補強をするのにも慣れた。
今朝早くから降り始めた雨は緩やかに雨脚を強め、昼過ぎには土砂降りに変わっていた。昼食の片づけを終わらせた宍戸は、居間の畳の上で新聞を広げた。台風の影響で電波の届きにくい状況になるとスマートフォンもテレビも使えなくなる。手持無沙汰になったときは紙面の活字に目を走らせて暇を潰すのだ。
ザァと雨が窓ガラスに叩きつけられた音で宍戸は顔を上げた。雨戸を閉めるほどではないが、風が強くなってきたようだ。梁にかけられた時計を見ると二時を過ぎていて、部活動の指導で学校に出掛けたまま戻らない鳳のことが心配になってきた。部活動は午前中だけだと言っていたからどこかで雨宿りでもしているのだろうか。連絡しようにも電話が使えない。分厚い雲に覆われ薄暗い部屋でただ一人、激しい雨が風とともに外を暴れている様子をガラス越しに眺めていた。

ガララ。
玄関の開いた音と風が吹き込む音がして、遅れて鳳の声が聞こえた。
「ただいまぁ」
「長太郎!」
障子を取り払っている居間から丸見えの玄関に鳳の姿を見止めて、宍戸は小走りに駆け寄った。頭の先から足の先まで余すところなく雨に濡れた鳳が、シャツの裾を絞りながら立っている。
「遅くなってすみません。他の先生たちとごはんに行ったんですけど雨が強くなってきちゃって。車で送るって言ってくれたんですけどうちの前の道は一方通行だから遠回りになっちゃうし、走った方が早かったので一人で帰ってきちゃいました」
「びしょ濡れじゃねぇか。待ってろ、タオル持ってくる」
「ありがとうございます」
宍戸は風呂場にタオルを取りに行こうと踵を返した。いくら真夏とはいえ全身びしょ濡れでは冷えて風邪を引いてしまう。
洗面台の横、備え付けの戸棚を開いて乾いたバスタオルを取り出した。
ふと、花のような香りがした。
柔軟剤なんて使ったっけ?と首を傾げながら玄関に急ぐと、すでに鳳は居間に上がっており四苦八苦しながら靴下を脱いでいる。
「廊下濡れちゃったんであとで拭いておきます」
「え、……あぁ」
「タオルありがとうございます。シャツ脱いじゃおっと」
濡れた真っ白な半そでのシャツが、鳳の素肌にぴったり張り付いている。肩や背の筋肉の隆起がありありと見て取れて、ボタンを一つ一つ外すごとに露わになっていく胸元を流れた雫に宍戸は喉を鳴らした。
また、花の香りがする。
宍戸は香りのもとを辿るように歩み始めた。なぜかまっすぐ歩くことが出来なくて、ふらふらと足元がもつれてしまう。しかし歩みを止めることが出来ない。催眠術にでもかけられたかのようだ。
香りは鳳に近づくにつれて濃くなっていく。花の香りに混じって鳳の匂いが鼻腔をくすぐった。雨の匂いとも汗の匂いとも違う、朝露のようなみずみずしい匂い。息を吸うたびに意識が煙で覆われたようにぼんやりしてくる。けれどどこか心が安らいで、この香りをずっと嗅いでいたいと思った。
「宍戸さん?」
脱いだシャツを丸めていた鳳の脇腹に宍戸が触れる。しっとり湿った肌が吸い付くようで、また喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。
「すげぇ、いい匂いがする」
「いい、匂い?」
バスタオルが宍戸の手から滑り落ちた。鳳の髪から滴り落ちる雨の雫に構うことなく、宍戸はぶつけるようにその首すじに鼻先を突っ込んだ。
「ここから、花みたいな匂いがする」
「花?」
深呼吸して深く鳳の香りを吸い込んだ宍戸は、あぁ、と喉の奥から恍惚のため息を漏らした。
次の瞬間、部屋の空気が水あめのように重くなる。鳳は息苦しさを感じ、まとわりついてくる重みに眉をしかめた。
「くっ」
胸焼けするほどの甘ったるい香りが鼻と喉の粘膜に張り付いて、鳳はたまらず噎せた。
酸素を取り込もうと呼吸すればするほど肺の内側にはちみつを塗り付けられていくみたいだ。
香りを吸い込むたびに思考がどろりと溶けていく。この感覚には覚えがあった。何度も何度も抗って、香りが体の中で薄まっていくまで耐えたあの感覚。
まぎれもない、Ωのフェロモンだ。
「宍戸さん、これ」
「あ」
宍戸の体が突然震えだし、ガクンと膝から崩れ落ちた。うわ言のように鳳の名を呼びながら、畳にうずくまってきつく体を抱きしめている。
「宍戸、さん!」
「ちょた、ちょうたろ」
遠雷がゴロゴロと聞こえ、暴風が雨粒をガラス戸に二度三度打ちつけた。
「大丈夫ですか!?」
「なんだ、これ……? 熱い、重い」
鳳は自由がきかなくなりつつある体を叱咤して宍戸の体を抱き起した。
「ヒートですよ! 宍戸さん、ヒートを起こしてます」
「ヒー、ト? これが? うぁっ」
腕の中の宍戸が背を戦慄かせ、鳳の胸に縋ってきた。どんどん濃くなっていく宍戸のフェロモンを深く吸い込んでしまいくらくらと眩暈がする。下腹部に熱が集まってきて、もったり重くなっていく。それでも吹き飛んでしまいそうな理性を手繰り寄せて、鳳は宍戸を抱き留めなだめるように背を撫でた。
「う、うしろ」
浮かせた腰をゆらゆら揺らしながら、宍戸は鳳に助けを求めた。
「どうしました?」
「うしろから……どうしよう、なんか、漏れてくる」
瞳いっぱいに涙をたたえて訴える宍戸が無性にいじらしくて、混乱させてはいけないとわかっているのに堪えきれずに唇に貪りついた。前歯の隙間から舌をねじ入れ、味蕾に感じた唾液の甘さに涎が溢れる。
なんという甘露だろう。一瞬で夢中でになり、しつこく咥内を舐め上げ喉の乾きを潤すように唾液を啜った。
「んぅ、ん、ひょうはろぉ」
「っはぁ、はっ、んくっ……ご、ごめんなさい、止まらなくて」
慌てて離した唇が唾液の糸で繋がっている。ぽってりと艶やかな唇から浅く吐き出される息すら捕食してしまいたい欲求に駆られ、鳳の理性は焼き切れる寸前まできていた。
「もう、勝手に濡れる体になったんですよ」
「うそ、俺、濡れてる……のか?」
恐る恐る後ろ手を回してハーフパンツの上から後孔のあたりを押さえた宍戸は、ぐっしょり濡れた布地の感触にカーっと頬を赤らめた。
「っ、なんだ、これ」
「宍戸さん」
「こんな、あぁ」
「宍戸さん!」
声を荒げた鳳に、羞恥心で泣き出しそうになっていた宍戸の肩が大きく震えた。
「もう、無理……っ」
「あ、ぁ」
強く肩を押され、背中から畳に叩き付けられる。痛みに耐えて見上げた先には、ハァハァと荒く息を吐き出しながらギラつく瞳で宍戸を射抜く鳳の姿があった。
「ち、長太郎……?」
「ひどくしたくないのに、こんなに甘い匂い出されたら、俺」
「甘い、匂い?」
「気付いてないんですか? 宍戸さんからすっごく甘い匂いがしてるんですよ。砂糖とはちみつと、あとなんだ? っ、とにかく、甘ったるいもの全部混ぜたような匂い」
「わ、わかんねぇ」
「これがヒートです。ヒートなんですよ! やった、俺、宍戸さんに発情してもらえた……!」
ギラつく瞳から大粒の涙が降ってくる。表情をくしゃりと歪ませて、嬉しいと鳳は感涙した。
「こんなに甘いの、初めてで、おかしくなりそう。俺、わけわかんないくらい、宍戸さんとセックスがしたい」
「セッ、クス……長太郎と」
言葉をオウム返しの様に繰り返す宍戸の足の間に割り入った鳳は、色が変わるほど濡れている布地の上から後孔に触れた。ぬるぬるとした手触りが官能を刺激し、鳳の陰茎は硬さを増す。
「俺のためにこんなに濡れてるんですよ? 早く宍戸さんのここに入りたい。いっぱい、いっぱい、奥までたくさん……!」
「俺、長太郎のために……?」
「そうです。宍戸さんが俺を入れたいって、濡れてくれたから、だから、」
ドクンと宍戸の心臓が脈打った。次の瞬間、部屋を満たしていた甘い匂いが更に濃度を増し始めた。まるで何年分ものフェロモンを一気に放出させているかのような密度の濃い香りが鳳を誘惑する。もうもうと立ちこめる霧の中にいるような錯覚を覚え、理性だけでなく方向感覚さえ失いそうになる。
「ああっ、宍戸さん、すごい」
「熱い、苦しい、長太郎っ」
急激に熱くなってきた体が衣服を厭う。宍戸はTシャツを引きちぎらんばかりに掻きむしり始めた。発情して朦朧とする意識の中、欲するものは一つだけだった。
「早く、長太郎、我慢しなくていい、いいから、っ」
普段体を重ねているときとは比べ物にならないほどの渇きが宍戸を襲った。
鳳が欲しくてたまらない。苦しい、ひもじい、触ってほしい、手に入れられたい、離れたくない、融け合いたい。言葉にできないほどの欲求の渦に飲み込まれ、肌が粟立つのを止められない。
「いいんですねっ? いやだって言っても、もう俺っ、止められませんよ」
「いい! いいから早く、中に」
宍戸の言葉を遮って、鳳は力任せに愛液に濡れたハーフパンツを引き抜いた。甘い香りの中に生々しい性的な匂いが混じり、鳳の脳を痺れさせる。溢れ出る愛液は尾てい骨を伝い畳を汚したが、気遣えるほどの余裕は今の二人にはない。
前をくつろげた鳳は下着ごとずり下げた。勢いよく飛び出したペニスは血管が波打つほど硬く勃ち上がって、亀頭がパンパンに膨らんでいる。グロテスクなまでに膨張した楔を目にして言葉を失う宍戸に構うことなく、鳳は勢いをつけてしとどに濡れる密壺に一息で根元まで埋め込んだ。
「ああぁぁっ!」
叫びに似た嬌声が空気を切り裂く。激しい雨音がなければ家の外にまで聞えていたかもしれない。
経験したことの無い衝撃に宍戸の背が弓なりに反る。背中が畳から浮き、全身の筋肉を硬直させながら既に先走りで濡れていた亀頭の先から押し出されるように精液を吐き出した。
「すっご、い……!」
「っ、っ! あ、ぁ」
「宍戸さんの中、柔らかいのにきつくて、うぁ」
鳳は急かされるように腰を前後させた。絶頂に飲まれ言葉すら紡げずにいる宍戸を容赦ない抽送が襲う。
「はっ、あ、あーだめ、ちょっと動いただけ、なのにっ、もう、出そう、っ!」
「っ、んぅっ!」
バチュンと打ちつけられた拍子に軽々とまた達してしまう。同時に腹の奥に精液を吐き出された。いつもは必ずコンドームを付けて絶対に腸内に射精などしない鳳の野生じみた行動。宍戸は怒るどころか酔いしれ充足感を得ている自分に気付き、また肌を火照らせた。
「はぁぁ……あぁ、出ちゃった」
「っ、なか、に」
「でも、まだ全然足りない」
宍戸の膝の裏に手を掛けて押し上げた鳳は、上から押しつぶすようにして抽送を再開した。ぐずぐずになった後孔から、ぶちゅっ、ぬちゅ、と卑猥な音を響かせる。
「はは、宍戸さん、どんどん溢れてきますね」
「あ、ぁん、ぅ、言うな、ぁ」
「どうして? ローションなんかより、ねっとり絡みついて、すごく気持ちいいのに」
愛液を垂れ流すだけ垂れ流して、鳳の怒張を受け入れるだけの体になってしまった。そんな宍戸を、我を忘れて穿ち続ける鳳。何度も重ねたことのある体なのに別物のようだ。テクニックもルールも体裁もなかった。二人の共通認識は、繋がっていないと死んでしまう、それだけだ。
「また、出、るぅ、っ」
「っ、ん~~っ、」
律動は長くはもたない。ただでさえ濃いフェロモンに反応し、ペニスを離すまいと収縮する密壺に追い立てられて射精感に堪えることなど到底無理な話なのだ。
「あ、んぅ、イクの、止まんねぇ」
「もしかして、ずっと宍戸さんの中、キュウキュウしてるのって、イっちゃってるんですか?」
「うん、っ」
喉から嬌声を漏らしながら、宍戸は断続的に体をヒクつかせている。うっすら笑みを浮かべ蕩けた表情がときたま快感に歪み、頬を濡らすのは汗か涙か区別がつかない。
「あぁ、また、イクぅっ」
「っ、そんな、締めあげないでっ」
ぎゅーっと締め付けながら嚥下するような動きをした腸壁のせいで、鳳は律動していないのに達してしまった。タガが完全に外れている。しかし、続けざまに強い快感に襲われているのにもかかわらず、満足するには程遠いのだ。
呼吸が落ち着く暇もない。顎から滴り落ちた汗が宍戸の腹を濡らした。
「はぁっ、ねぇ宍戸さん」
「うん?」
「宍戸さんのおっぱい見たいなぁ」
「……うん」
宍戸は鳳の言葉に魔法をかけられたかのように、みぞおちの辺りまでずり上がっていたTシャツをたくし上げ胸を露わにした。汗で艶めく肌に、ぷくりと勃ち上がった突起が二つ鎮座している。
「なんだか、いつもより……」
爪が食い込むくらいに強く押し広げていた宍戸の足を解放し、鳳は左右それぞれの乳首を指先で引っ掻いた。
切なく寄せられた眉根が庇護欲を誘う。相反する様に爪を立てると、宍戸の体は面白いくらいに跳ねた。
「んっ!」
「やっぱり。いつもより腫れてるじゃないですか。えっちな色して敏感になってるんですか?」
先端を爪でくすぐるように擦ってみると上体をくねらせて悦び、胸を突き出してもっとと目線だけでねだってくる。指の腹で摘まんで捏ねてみれば、くぅんと犬のような嬌声を上げた。そしてぶるっと背すじを震わせ、勃ちっぱなしの陰茎から精液を垂れ流し始めた。
「おっぱいだけでイっちゃう宍戸さん、初めて見ました」
「そこ、弄られると、切なくて、んっ」
「ほんとだ、おっぱい擦るたびに、宍戸さんの中が絡みついてくる」
「なぁ、そこ、もっと強く、」
「こうですか?」
「やあぁ、あ!」
摘まんだ突起の形がひしゃげるほど強く押しつぶして引っ張った。痛みに連動してか腸壁がうねりだし、頃合いを見計らって指を離すと絶頂の動きをして鳳の陰茎を締め付けた。窮屈な肉壺に食まれるようにして、鳳のペニスもだらしなく白濁を漏らす。
「っ、また、イっちゃいましたか?」
「はぁ、っ、んぅ」
「はは、俺も」
胸を上下させて酸素を取り込みながらコクコクと頷く仕草があどけない。
続けざまに射精して頭を冷やすことができると思いきや、宍戸の妖艶さに当てられ征服欲がムクムクと肥大する一方だ。
「服、邪魔だなぁ。宍戸さんも脱いじゃってください」
ヒートが起こってから一度も外さなかった楔をゆっくりと引き抜く。粘度の高い愛液に白濁が混ざった糸が何本もアナルと亀頭を繋いだ。
雨に濡れたスラックスが纏わりついて煩わしい。脱ぎ捨て、同じく全裸になったであろう宍戸に振り向くと、ころんと寝転んだままM字に開脚して密壺に指先を這わせていた。
Ωの本能なのだろうか。宍戸は胎内から鳳の精液が漏れ出てはいけない気がした。
「ちょうたろうの、流れちまう」
舌足らずな声に、鳳は間髪入れずに後孔を貫いた。むせ返るほどのフェロモンは未だに鳳の理性を溶かし続けているのだ。
「今すぐ、栓してあげますね。宍戸さんの中、俺のでいっぱいになりそう」
「んっ、ふぅ……あ、クる、……っ」
「また入れただけでイっちゃったんですか?」
「はぁっ、んくっ、なんか、もう、長太郎とくっつくだけで俺、だめだ」
「だめなんですか? 俺はもっとくっついていたいです。ほら、だめじゃないでしょう? くっついていたいってどんどん溢れてくるじゃないですか」
「急に、強くするなって、ば……!」
「あーもう、そんなにきつく絞らないで、っ、また、出ちゃうっ」
了承を得ないで開始した律動に、宍戸の体はあっさりとオーガズムに達した。鳳は律動を止めない。自身も射精に至っているはずなのだが、なにもかもが普段感じる絶頂の域を超えていて感覚が麻痺してしまっていた。
「宍戸さんの中、俺の精子でいっぱいになっちゃった」
「うん、っ、いっぱい」
「ははっ、赤ちゃん、出来ちゃいますね」
「あっ、んんっ、あか、ちゃん?」
「あとで、薬、飲みましょうね」
「くす、り? なんで?」
Ωとしての機能が正常になりヒートを起こした場合の対処として、鳳は宍戸の主治医から緊急避妊薬を預かっていた。ヒートが来たところでいくらなんでも膣内射精はしないだろうと高を括っていた鳳だったが、主治医の判断は正しかったと言わざるを得ない。
「ちょうたろう、もっと」
「もっと、ですか? でも」
「俺、気持ちよすぎて動けないんだ。けど、ぜんぜん足りないから、もっと」
「そ、そんなに?」
「だめか? 長太郎の、もっと欲しい」
宍戸の両足が鳳の腰に巻き付く。より深く、より長く繋がっていたいと言われているみたいだ。生殖に特化したΩの本能だったとしても、宍戸が鳳を求めているのだ。鳳は喜んで宍戸に全てを差し出すだろう。
「もっと、いっぱいしますから、俺のこと離さないで」
「うん、おいで、ちょうたろう。もっとわけわかんなくなるくらい」
大雨と強風で遮断された一軒家では、あられもない声も激しく肌がぶつかり合う音もみんなかき消される。こもる甘い匂いと充満する性の匂い。融け合うようなセックスだった。二人の体の境界がわからなくなって、呼吸と視線だけで互いの考えていることが手に取るようにわかる。もっとも思考など必要なかった。触れて、達して、また触れて、それがすべてだった。

二人は明け方まで片時も離れなかった。雨が止み、雲間から差し込む紫色の光に窓ガラスの水滴が煌めきだしたころ、鳳は宍戸のうなじに歯を立てた。宍戸は後ろから穿たれ強く抱きしめられながら、肌を切り裂き肉に食い込んでくる痛みに歓喜し自然と涙が溢れた。そして、番えた安堵からか肩越しに鳳笑んで見せ、気を失うように脱力したと思うと安らかな寝息を立ててことりと眠りについた。
残滓の一滴まで全て宍戸の中に吐き出した鳳はしばらく余韻に浸ったのち体を離した。楔が抜けた秘壷は花が萎むように閉じ、愛液と精液が混じった乳白色の粘液が溢れ、まるで涙を流しているようだった。
宍戸のうなじには自分が噛みついた傷痕が痛々しい。だが口の中に広がる血の味に、鳳は人知れず喜びに震えていた。

涼しい風に頬をくすぐられ、水の底から浮上するようにゆっくりと意識が覚醒していく。重い瞼はなかなか持ち上がってはくれず、風でさざめく木の葉の音が鳳の鼓膜を震わせた。
この風はどこから吹いているのだろう。誰かがガラス戸を開けたのだろうか。
はっとして瞼を開いた鳳は腕の中に宍戸が居ないことに気づき飛び起きた。
「宍戸さん!」
勢いをつけて体を起こしたせいで全身の筋肉に鈍い痛みが走る。ひどい気怠さに襲われ、背中や腕に残る無数のひっかき傷が痛痒く疼きだした。
「おはよ、長太郎」
鳳を呼ぶ声がする。かすれる声を辿って視線を彷徨わせれば、下着姿の宍戸が縁側で胡坐をかいて庭を眺めていた。
「おはよう、ございます」
「体拭いてくれたのか。ありがとな」
「いえ」
今朝がた、先に意識を手放した宍戸の体を濡れタオルできれいにしてから鳳は眠りについた。あちこち体液にまみれた姿では目覚めたときに不快だろうと思ったのだ。
昨日の悪天候とは打って変わって空は晴れ渡り、雨上がりの清々しい風が入り込んでくる。涼しく感じるのはきっと今だけで、すぐに台風一過の高気圧に熱せられ蒸し暑くなることだろう。
宍戸はわずかにあごを上げて風を受けとめ、心地よさそうに瞼を閉じた。肌には畳に押し付けられてできた擦り傷に加えて鳳がつけた吸い痕や噛み痕が点在していて、昨夜の情事の激しさを物語っている。
そのほとんどを鳳は覚えていない。自分を律することができないほど宍戸に溺れた。情欲にのめり込んでしまったことは断片的に覚えているのに、具体的に何をしたか何を言ったか少しずつしか思い出せないのだ。宍戸と一つになりたい。それだけを朦朧とする意識の中で強く願っていた。
「平気ですか? 痛いところはありませんか?」
「なんともない、って言ったら嘘になるけどな」
宍戸は自分のうなじに触れようとし、やめた。血の滴るほどだった生傷はすでに乾いていたが、じくじくとした痛みが残っていた。
「そこ……」
「大丈夫、気にするほどじゃない」
「すみません、俺、あまり覚えていなくて……」
「俺も。長太郎から花の匂いがしたってことは覚えてるんだけど、そのあとのことはあまり。ヒートってすげぇんだな」
「ヒートがすごいっていうか、宍戸さんのヒートだから、かな」
「ん?」
「Ωの人のフェロモンを吸ってあんなに我慢できなくなったのは、生まれて初めてでした」
「へぇ」
後ろ手をついて上半身を反らせながら振り向いた宍戸は、にやりといたずらな笑みを鳳に向けた。
「本当に運命の番なのかもな、俺たち」
「えっ?」
宍戸から発せられた意外な言葉に、鳳は目を丸くした。「運命の番です!」と何度迫ってもまともに取り合ってくれなかったはずの彼が、自分たちのことを運命の番かもしれないと楽しそうに語っている。
あっけに取られぽかんと見つめ返す鳳にまた背を向け、宍戸は立ち上がって伸びをした。
「ん~~~」
目いっぱい上げた両腕をだらんと下ろして深く息を吐きだせば、肩の力が抜けてリセットされたような気分になる。力強く踏みしめた両足はしっかり体を支えていた。振り返りまっすぐに鳳を見下ろす宍戸の背を、明るく照らす陽の光。
鳳は、宍戸の内側から轟々と湧き出る命の煌めきを見た。
「あーすっきりした! これで俺はおまえのもんだ!」
そのよく通る声で空気を震わせ、歯を見せて破顔する。
心の底から楽しそうに、憂いのない、晴れ晴れしい笑顔が鳳に降り注いだ。
「宍戸、さん」
あぁ、大好きな笑顔だ。
ありのまま笑う彼を長らく見ていなかった気がする。宍戸を雁字搦めにしていたものは、宿命であり、運命だった。それらを突き放すのでも受け入れるのでもなく共存することで、鳳と生きる未来を切り開いた。
うなじの傷は治っても、一生痕が消えることはない。
ようやく、ようやくだ。
自分たちはようやく、お互いを手に入れることが出来た。
「俺も、や、やっと、宍戸さんのものになれましたぁ」
涙が溢れてしまうのをどうしても止められない。宍戸の笑顔をもっと目に焼き付けていたいのに、拭っても拭っても視界が水膜に覆われ滲んでしまう。
畳に膝をついた宍戸は、子供のように声を上げて泣き出してしまった鳳を優しく抱きしめた。この涙は二人の涙だ。二人で掴み取った愛の形だ。
「長太郎、風呂に入ってメシ食って、たくさん寝たら海を見に行こう」
「っ、外に、一緒に行ってくれるんですか」
「おまえが知ってるこの島のことを教えてほしいんだ。二人でいろんなところに行こう」
「はい、っ」
涙で濡れるまつ毛に口づけて、宍戸はまた表情を和らげた。
嗚咽をこらえる鳳がぎこちなく泣き笑いを返す。
「夏が終わったら、帰ろうか」
「帰るって、東京に?」
「おまえがよければ」
「いいに、決まってるじゃないですか。宍戸さんが居るところが俺の居るところです」
宍戸は涙で濡れた鳳の頬にそっと口づけた。
南の島の夏は長い。
太陽は雨に濡れた大地を焦がすようにじりじりと照らし、嵐から逃れていた虫たちが命を謳って鳴き叫んでいる。
二人で見る海は青く、どんな宝石よりもきらめくことだろう。
砂の上を、手を繋いで歩こう。
潮風を全身に浴びよう。
まだ見ぬ浜辺に思いを馳せながら交差した瞳にいざなわれ、二人は唇を寄せ合った。

東京に戻った二人の生活は島に移住する前とさほど変わらない。毎日忙しなく働き、ときどき、一緒に見た海を思い出してはあの日々を懐かしんで肌を合わせる。
宍戸はヒートを恐れなくなった。番になったことでフェロモンは互いにしか効果がなくなったし、他でもない鳳と番えたのだ。もう、バース性にこだわって生きる必要はない。

宍戸は東京に戻りしばらくしたころ病院を訪れた。
島でのこと、ヒートが来たこと、鳳と番になったこと、それらを話して、もう抑制剤は必要ないと主治医に伝えた。主治医はそうなることを予想していたようだった。
島に渡る前の宍戸の行動はΩの本能そのものだった。番いたいとαを誘おうにもフェロモンを発することが出来ずストレスを感じるのは自然のことなのだ。加えて特定のαの側を離れようとせず他者へ強い拒否反応を示すのはその相手を運命の番と認めているということ。しかし宍戸の克己心と自立心が本能を霞ませ、抑制剤が追い打ちをかけて彼をΩとはかけ離れた存在にしてしまっていた。抑制剤を絶ち鳳と二人きりの生活を送ることで、本能と体の機能が少しずつ回復していったと考えられる。
主治医の説明はすべて腑に落ちるものだった。宙ぶらりんだと思っていたが、自分の行動は紛うことなきΩの習性だった。今の宍戸はそのことに抵抗も否定もしない。自分にヒートが来なかったのは事実だ。
ただ、バースが正常に機能していなかったとしてもどうしようもなく惹かれることはあるのだと、その事実だけは忘れずにいたいと強く思った。

「よぉ! 久しぶりじゃん」
「岳人。それに滝も。おまえら全然変わってねぇな」
「去年も会ったじゃないか。一年じゃそんなに変わらないよ」
今年の同窓会は珍しく一年おきの開催だった。主宰である跡部は多忙を極めるため三年に一回程度の頻度で催されてきたのだが、今年は上手く都合をつけられたらしく去年に引き続き都内のホテルで同期生の懇親会が開かれた。同学年の仲間と顔を合わせるのはほとんど一年振りである。大学までエスカレーター式の母校を卒業したころは頻繁に会えた面々も、それぞれ家庭を持ったり転居したりとなかなか会って話す機会を持つことが難しい年齢になってきた。
「そういえば聞いたよ。鳳と一緒になったんだって?」
「あぁ」
「水くさいな。教えてくれたらよかったのに」
「俺も知ったの最近だぜ! こいつ俺たちにも全然教えてくれなかったんだ」
「そうなの?」
「あー、いろいろあって」
「な! これだよ」
「ふふ。どうせだったら鳳にも会いたかったな。学年が違うから残念だね」
「多分会えるんじゃねぇかな。迎えに来ると思うから」
「へぇ~」
「……なんだよ」
「別にぃ? な、滝」
「そうだね、別にぃ?」
からかう笑みを浮かべながら談笑する二人を、宍戸は怪訝な顔で睨みつけた。話題を変えない限り二人のにやけ顔を消すことは難しそうだ。
ふと、窓際に一人で佇む女性が視界に入った。ひざ丈の若草色のワンピースを着て髪をまとめ上げ、首元に幅の広いレースチョーカーを巻いている。
「なぁ、あいつ誰だっけ」
「え? どの子?」
「ほら、窓際の」
宍戸が顎を上げて指す方向に滝が視線を向ける。向日は空になったシャンパングラスを替えに行ってしまった。
「ああ、あの子、中等部のころ同じクラスじゃなかったっけ? ほら、具合悪くしたのを宍戸が助けたってやつ」
「俺が助けた?」
「確かヒートを起こしてたんじゃなかったっけ」
滝の言葉に宍戸の記憶が鮮明に蘇る。
数学の授業中にヒートを起こして保健室にいった女子生徒だ。
「久しぶりに話してきたら?」
「なんで俺が」
「なんでって、同窓会ってそういうところだよ?」
昔話に花を咲かせるために来たんでしょ、と滝に背中を押された宍戸はしぶしぶ彼女の元へ歩みを進めた。
窓の外を眺めていた彼女は、人の気配に気づいたのか宍戸を振り向いて会釈した。
それにならい宍戸も会釈を返す。
「あー、中等部のころ同じクラスだったんだけど」
「もしかして、宍戸くん?」
「覚えてんのか?」
「忘れるわけないよ。宍戸くんには助けてもらったもの」
綺麗に化粧を施しているが、笑顔に昔の面影が残っている。人を待つ間外を眺めていたという彼女は、宍戸に近況を聞いてきた。
「元気にやってるよ。そっちは?」
「私も。大人になったからって何かが変わるわけじゃないしね」
背すじをピンと伸ばして柔和に笑んで見せる彼女はもう、斜め前の席で小さな背中を震わせて耐えていた彼女ではなかった。なにが彼女を強くさせたのか、気になった宍戸は質問してみることにした。
「あのさ、聞いていいのかわかんないんだけど。いやだったら答えなくていいから」
「どうしたの?」
「Ωで良かったって、思ったことはあるか?」
きょとんとした瞳に宍戸が反射する。デリカシーのない不躾な質問をしてしまったと宍戸は慌てた。
「ごめん、失礼なこと聞いた」
「それって、生まれてきてよかったかって聞かれてるみたい」
「え?」
「そっか、私がヒート起こした日のこと、気にしてくれてたんだね」
「あ、いやその……うん」
「それで私がつらい目に遭ってきたんじゃないかって思った?」
図星だった。多感な時期にクラスメイト達の前でヒートを起こしたことはショックな出来事だったのではないかと思っていた。少なくとも自分だったら耐えられない。耐えられないから、無理を通して抑制剤を服用し続けた。
「大変なこともあったけど、今はもう何とも思ってないかな」
「そうなのか?」
「ここにね、あるから」
そう言って彼女は右手でレースチョーカー越しに自分のうなじを撫でた。
宍戸はハッとした。
自分にも同じものが付いている。自分と鳳を繋ぐ証が深く刻まれている。
「だから、よかったよ。生まれてきて」
照れ隠しなのかおどけて笑って見せた彼女は、宍戸の背後に知り合いを見つけたのか名前を呼んで手を振った。
「やっと着いたみたい。もう行くね」
じゃあね、と宍戸の脇を通り過ぎ小走りに去っていく。
宍戸は勢いよく振り向いてその背中に声を掛けた。
「俺も!」
グラスを持っていない左手でうなじを押さえた。
ワイシャツのカラーの下に隠れた噛み痕が、手のひらの熱でじんわりと温められていく。
「俺もなんだ」
宍戸の声に振り向いた彼女は、待ち合わせていたと言っていた人物の隣でにっこりと笑った。
あの日、真っ先に教室の窓を開けた女子生徒だ。
二人は顔を見合わせて幸せそうに微笑みあった。肩を寄せ合って、別の友人たちの輪に入っていく。
宍戸は、彼女たちの背中に自分と鳳の背中が重なって見えた気がした。
早く迎えに来い、なんて。
同窓会の間ずっと鳳のことを考えてしまいそうだと、宍戸は苦笑した。