ためぐち

こんばんは、と鳳はひとりごとのように小さく呟きながらアパートのドアを開けた。
途端、賑やかな笑い声とテレビの雑音が鳳の耳をつんざく。
深夜一時を過ぎているにもかかわらずこんなに騒いでいて良いのだろうか、と鳳は内心ハラハラとしながら靴を脱ぎ部屋に上がった。
「お! 来た来た」
鳳に気づいたのは部屋の主だった。鳳より二歳年上の大学の先輩だ。一年浪人をしたから学年は一つ上になる。
会釈をしながら部屋の中を見渡すと、小さなローテーブルは缶やスナック菓子やピザで埋もれ、それを囲むようにして五人が座り込んでいた。
「お迎えご苦労!」
すっかり酔いの回っている先輩が缶ビールを持ち上げて鳳に乾杯の仕草をする。
その勢いに続いて他の面々も酒を掲げ、誰も促していないのに喉に流し込み始めた。
アルコールのにおいと脂っこい食べ物のにおい。
家主が吸わないのでたばこくさくないのがせめてもの救いだ。
鳳は酒をあおり続ける彼らに当たり障りない受け答えを返しながら、部屋のすみに転がる男に目をやりため息をついた。
追いやられるように壁に密着する形で仰向けに寝そべっているのは宍戸。鳳が迎えに来た同居人だ。
四肢をあちこちに放りだす寝汚い格好で、シャツがめくれてへその上まで腹が見えている。
気の緩みきった格好で寝息を立てる宍戸のそばに寄りしゃがみ込んだ鳳は、また小さくため息を吐きながら宍戸の荷物をまとめ始めた。
中等部時代の恋に恋する初心な鳳が見たら百年の恋もさめるような想い人の姿だが、付き合うようになって何年も経った今の鳳にとっては見慣れてどうとも思わない日常の姿だ。
宍戸の手元に転がっているスマートフォンを彼の斜め掛けボディバッグに仕舞う。財布はすでにバッグの中にあったので、他には忘れものはないだろう。
「宍戸さん。帰りますよ」
呼んだくらいでは起きないことはわかっていたが、一応声をかけてみる。
案の定なんの反応もない宍戸の肩を掴んだ鳳は、力任せに引き起こしてボディバッグを頭から通し装着させた。
手荒な方法だが、こうでもしなければ覚醒してくれないのだ。
鳳は宍戸の肩を揺さぶり頬を叩いた。
いくら体格差があっても、鳳一人で脱力しきった成人男性を運んで連れ帰るのは骨が折れる。なにがなんでも起きてもらわなければ困るのだ。
もう一度、鳳は宍戸の肩を揺さぶった。
宍戸が反応を見せる。
ここまでされてようやく目が覚めたようだが、宍戸のまぶたは半分も開いていなかった。
「迎えに来ましたよ。帰りますからね」
「あー、うん」
「立てます?」
「おー」
宍戸は緩慢な動きでのっそりと立ち上がった。
鳳は、宍戸がいつよろけても受け止められるように宍戸の動きに合わせて立ち上がる。
「よぉー、帰んのか」
酔っ払いたちで盛り上がるテーブルから部屋の主が声をかけてくる。
「あぁ、またな」
宍戸がめんどくさそうに片手をあげた。
のそのそと玄関に向かう宍戸に気を掛けながら、鳳は集う面々に頭を下げてその場をあとにした。

真夜中だというのに蝉がないている。
車通りのまばらな道を並んで歩くあいだ、鳳は宍戸の手を離さなかった。
「手、熱い」
宍戸は口にしたが、しっかりとつかまれている右手が解放されることはないと知っていた。
「酔っぱらったままふらふら歩いてたら、また生垣に突っ込んだり塀にぶつかったりするでしょ」
鳳は何か月も前の宍戸の失敗を指摘し、左手に力を込める。
宍戸は言い返さなかった。
酔いの回った頭では、鳳に対抗できるような説得力をもつ言葉を生み出せない。
押し黙った宍戸を横目に見下ろした鳳が口を開く。
「別にね、宍戸さんがどこでだれと遊んでようと、迎えに行くのは俺だからいいんだけどね。もう拗ねたりいじけたりしないって決めたんで、ほんと、ぜんぜん、べつに、いいんですけどねー」
そう言うと、鳳の歩幅が少しだけ大きくなった。
だんだんと二人の歩調が合わなくなり、宍戸は鳳に引っ張られるようにして歩き続ける。
「全然いいなんて思ってねぇじゃん」
鳳の歩幅に合わせる気のない宍戸は、繋いだ手を引かれるまま気だるげに言った。
「思ってるよ。気にしないことにしてるし。いちいち気を揉んでたらしんどくなるだけだってわかったし」
「へぇ」
鳳はわざわざ宍戸に聞かせるように続けた。
宍戸はそんな鳳に突っかかるようなことはしない。
迎えに来させた負い目もあるが、鳳が文句を言うときは跳ねつけるよりも受け止めるに留めた方が円滑にことが進むことを知っていた。
「でも、なんかやだ」
やだ、と鳳にしては珍しく素直に心情を吐露した。
はっきりとした口調から伝わるのは怒りではない。
宍戸は酔いで緩くなった頬を引き上げ、大口を開けて笑った。
「やっぱいじけてんじゃん」
いくらか車通りがあるとはいえ、深夜の通りに宍戸の声は大きく響く。
鳳はぎょっとして宍戸を振り返った。
「ちょっと! 夜中だってわかっる?」
「わりい」
宍戸は左手の甲を口元にあて、大声は慎むと仕草で鳳に伝えようとした。
しかしアルコールで理性が解されている宍戸は、一度緩んだ表情をコントロールできなかった。
鳳は無防備な笑みを浮かべたままの宍戸にいまいち焦点の合わないまなざしで見上げられ、矛を下ろした。
「もういいや。なんかいじけてるのも馬鹿らしくなってきちゃった」
「いじけてたのか」
「いじけてた。誰かと遊ぶくらいなら俺と一緒にいてほしかっただけ」
「おまえずっとそれな」
「だって、宍戸さんも宍戸さんの時間も、全部俺だけのものにしたいんだもん」
「全部は無理じゃね?」
「わかってるってば。ただの願望」
鳳は宍戸のひたいに軽く唇を落とすと、再び宍戸の手を引いて歩き始めた。
歩調を合わせ、二人は隣り合った。
熱帯夜の湿気が肌にまとわりつく。帰ったらすぐさまシャワーを浴びたい気分だ。
「楽しかった?」
鳳が口を開き、宍戸が首を傾げる。
「なにが?」
「なにがって、飲み会」
「あぁ、飲み会な。うん、まぁ、いつもどおり」
「そっかぁ」
なんの含みもない鳳の返答に、宍戸は少し歩調を速めた。
鳳の先を行き、今度は宍戸が鳳の手を引く。
「なんで? どうしたの?」
宍戸に急かされるように歩調を速めた鳳が宍戸の手を握り直した。
汗ばむ指の間がぬるりと擦れて、宍戸は思わず立ち止まった。
「えっ? なに?」
鳳はわけがわからずつんのめりそうになる。
「あーあ」
宍戸が空を見上げてため息をついた。
「どうしたの?」
「どうもこうもあるかよ」
宍戸は説明しようとした。
だが自分でも今の自分の心境がよくわからなかった。
鳳との何の気のない会話からこみあげてきた衝動を、どう伝えたらいいのか。
鳳は自身が抱える欲求を何度も抑え込んで、飲み込んで、葛藤を重ねてきた。
そうまでして宍戸との平穏を保とうとするのは、長く宍戸の隣に居たいからだ。
宍戸はそれを知っていた。知っているからこそ、適度に受け流してちょうどいい均衡を生み出しうまくやってきた。
だけどときどき、さっきみたいに、鳳がごく自然に宍戸への執着を手放したとき、宍戸は鳳のことを一層いとしく思ってしまうのだ。
「俺が楽しかったか気になった?」
「え? うん」
「なんで?」
「なんでって、そりゃあ、つまらないよりは楽しい方がいいでしょ?」
「俺が楽しいとうれしいか?」
「もちろん」
「長太郎がいなくても?」
「待って、何の話? 飲み会の話だよね?」
狼狽える鳳を見上げながら、宍戸は絡んだ指先を擦り合わせるように動かした。
しっとりとした指先に、互いの汗がしみこんでいくよう。
アルコールの熱に蕩ける瞳が細められ、鳳は息をのんだ。
「おまえさ」
宍戸が鳳との距離を詰める。
「なんで周りにだれかいるとき俺に敬語なんだよ」
「それは、一応先輩だし。俺が宍戸さんに普通にしゃべってたらみんなびっくりするでしょ。宍戸さんもいろいろ言われたりするかもだし。というより、敬語はもう癖みたいなものっていうか」
「ふーん」
宍戸が繋いだ手を口元に持ち上げる。
そして鳳の指先に唇を寄せたかと思うと、歯を立てて甘く噛んだ。
「おまえに気ぃ遣われると、なんか興奮する」
「へっ?」
「違うな。なんつーか、大事にされてる感じ? 俺の気持ちを一番に考えてくれる感じ? そういうの、クる」
目を白黒させる鳳を笑い飛ばして、宍戸は再び歩き始めようとする。
しかし鳳は宍戸の手を引き、そこから動こうとしなかった。
「帰ろうぜ」
「びっくりしてるんだからちょっと待ってよ!」
「びっくりしてても歩けるだろ」
「そうだけど!」
「俺は早く帰りたい」
「もーなに? 眠いの?」
鳳は宍戸に手を引かれ、やけくそになって歩き始める。
宍戸は歩調を速め、鳳は宍戸に続く。
「眠くはねぇな。さっきまでずっと寝てたし。ただ」
「ただ?」
「おまえとしたいと思って」
宍戸の言葉に天を仰ぎ、鳳は走り出した。